第1話:静かな別れ、静かな決意
春の訪れと共に、社長室の扉が静かに閉ざされた。
七瀬美咲――この企業を創り、育て、数千人の社員の頂点に立ち続けてきた彼女が、ついに“社長の座”から一時的に身を引いたのだ。理由は、体調不良。
原因は明確だ。8人の子どもを育て、トップの座に立ち続け、そして人知れず誰よりも働いてきた。誰もが「無理をしていた」と気づいていたが、それを口に出す者はいなかった。
代行を務めるのは、常務・古賀慶一の娘、古賀結花。若くして実力を認められた女性だ。
朝の重役会議後、彼女はひとり、取締役・橘悠真を常務室に呼び寄せた。
「橘さん。突然ごめんなさい。少しだけ、お時間いただけますか?」
「はい……何か問題でも?」
席についた結花は、迷うように言葉を選びながらも、穏やかな声で問いかける。
「……七瀬さん、大丈夫ですか?」
美咲を「社長」ではなく、「七瀬さん」と呼ぶその響きには、心配と尊敬、そして少しの親しみが滲んでいた。
彼女が“結花さん”と呼ばれることが多い中で、ふたりの関係性に緊張が走るわけではなかった。そこには真摯な想いがあった。
悠真は静かにうなずく。
「少し……働きすぎたんだと思います。社長職と、家のことと……8人の子ども。休める時がなかったんです」
そして、まっすぐに言った。
「だから今は、僕が働きます。彼女の分も、会社のためにも、子どもたちのためにも。……生活が止まらないように」
結花は、軽く目を伏せた。
「……強いですね。あなたも、七瀬さんも。でも――心は壊れやすいですから。どうか、背負いすぎないでください」
悠真は、わずかに目を細めて笑った。
「……ありがとうございます。僕が壊れる前に、彼女が“おかえり”と言ってくれるはずですから」
その言葉に、結花は少し微笑みを返した。
「……待っています。ふたりともが“戻ってくる日”を」
*
その日の帰宅後――
家では、子どもたちがママのいない夕食を囲んでいた。
翔真、律真、紗良、詩音、結翔、澪、葵、大地――
「ママ……まだ帰ってこないの?」
「だいじょうぶ? おなか、いたいの?」
「ねぇパパ……ママ、いなくてさみしいの……」
悠真は一人ひとりの頭をそっと撫でて、やわらかく言った。
「ママは、少しおやすみしてるだけ。きっとすぐ、また“ただいま”って言ってくれるから」
そして、みんなでそっと手を合わせて、
「ママが元気になりますように」――
静かに、8つの声が重なった。
家でも、会社でも。
“美咲がいない時間”は確かに存在していた。けれど、
彼女がいないことで、あらためて見えてきた“灯”もあった。
それは、愛。
そして、ふたりを支える無数の存在のやさしさ。




