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第2話「ふたりきりの残業」



入社して数日。橘悠真は、まさに怒涛の毎日を過ごしていた。


朝早くから深夜まで続く業務。企画書の整理、報告資料の作成、プレゼン練習……。

まさに社会の洗礼。しかし、彼は疲れを見せず、ただ真っ直ぐに机に向かい続けた。


「……すげえな。あいつ、まだ新人だろ?」


「社長のお気に入りらしいよ」


「ほんとかよ。あの氷の女帝が“お気に入り”とか……」


社員の間でも囁かれていた。


七瀬美咲が、ある若手社員に直接意見を求めたのは極めて異例だった。

しかも、その後、彼女は他部署からも意見を取り入れはじめたという。


だが、本人はまるで意に介していないように見えた。むしろ、その背中からは――「覚悟」が滲んでいた。


そんなある日の夕刻。


いつもより帰宅ラッシュが早い日で、経営企画部のフロアもまばらになっていた。


「おい橘、もう帰れよ。おまえだけ残ってどうすんだ」


「いや……この資料、まだ修正してない部分があって……。社長に提出する前にもう一度だけ見直しておきたいんです」


「真面目かよ……まあ、頑張れ」


部長が呆れながら帰っていったあと、悠真は一人パソコンに向き直った。

時計はすでに21時を過ぎている。


それから数分後。


「……まだいたのね」


その声に、悠真は手を止めた。


振り向くと、社長・七瀬美咲が、スーツのジャケットを脱いだままの姿で静かに立っていた。

袖をまくり、シャープな腕がわずかに覗いている。普段の完璧な外見からはほんの少しだけ緩んだ彼女に、悠真は一瞬だけ視線を奪われた。


「七瀬社長……。あ、いえ……七瀬さん……? えっと……」


「“社長”でいいわよ」


美咲は小さく笑いながら近づく。


「資料、見せて」


「はい。あの、まだ整理中なんですけど――」


「いいの。あなたの途中経過に、私は興味があるの」


すぐ隣の椅子に腰掛けると、悠真の手元の資料を覗き込む。


この距離感――社長と社員としては、あまりにも近すぎる。


香水ではない、彼女本来の香りが微かに漂い、悠真は無意識に息を止める。


「……すごいじゃない。データの見せ方も、無駄がない。……私、認めるの、結構厳しいのよ?」


「……恐縮です」


「あなた、どうしてそんなに頑張れるの?」


「……たぶん、僕……見ていたいんです。七瀬社長がこの会社をどう変えていくのか。その“そば”で、学びたい」


美咲は、ふと手を止めた。

その目が、真っ直ぐに悠真を見ている。


「そば、ね……」


一瞬の沈黙。

その間に、ふと電気が揺らぎ――ビル全体の照明が、節電モードに切り替わった。


「……あ」


美咲が目を細めた。


「この時間帯、社長室の電灯は手動なのよね。ブレーカー、落ちてるわけじゃないわ」


「じゃあ……照明、点けに行きましょうか?」


「いいわ、面倒だし」


美咲はすっと立ち上がり、窓際へと歩いていく。夜の街が下に広がっている。ガラス越しに、無数のビル灯と車の光が交差していた。


「きれい……」


その背中を見つめながら、悠真は思った。

この人は、どれだけの夜をこの景色と共に過ごしてきたのだろう、と。


「七瀬さんは……さみしくないんですか? こんな夜、ひとりで」


ぽつりと口をついて出た言葉に、美咲の背中がわずかに揺れた。


「私、そういう感情は……捨てたつもりだったけど」


静かに振り返った美咲の瞳が、どこか脆く揺れていた。


「けど、あなたと話してると、たまに……」


彼女が言葉を濁す。


そして、数歩だけ歩み寄ると、ふいに手を伸ばした。


「その……ネクタイ、曲がってる」


「え?」


美咲の指先が、悠真の胸元に触れる。

淡い光の中、ふたりの距離は、ほとんどゼロに近い。


「……まっすぐになった」


「ありがとうございます」


「……悠真くん」


「はい」


「私、あなたに……少しだけ……興味があるみたい」


その瞬間。

美咲の手が、そっと悠真の頬に添えられた。


そして――迷うように、ゆっくりと唇が近づいてくる。


「……っ!」


ついに、ふたりの唇が重なった。


初めてのキス。

熱くはない、けれど確かに“心を確認するような”キスだった。


社長と社員。

立場を超えて、触れてしまった一線。


やがて、美咲が唇を離す。


「これは、忘れて」


「……無理です」


「忘れてくれなきゃ困るわ。私は社長、あなたは社員。それ以上も、それ以下も……」


「……でも、それでも俺は――」


言いかけた悠真を、美咲はそっと制した。


「今日は、これ以上はだめ。……本気で後悔するかもしれないから」


微笑みながらも、瞳は本気だった。


悠真は、小さく頷く。


この夜――ふたりは「決して戻れない扉」を開けてしまった。


やがて、美咲は社長室へと戻り、悠真は暗いフロアに一人残された。


窓の外には、東京の街が静かに光を放っていた。


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