第9話『美咲の母、語る。』
それは、ある雨の金曜日の午後だった。
TSグローバルのエントランスに、ひとりの上品な女性が現れた。
ベージュのトレンチに身を包み、傘を丁寧に畳みながら受付に名乗ったその人こそ――
七瀬 美咲の実母、七瀬千代、62歳。
「娘の……七瀬美咲社長と約束してまして。
少しだけ、社内を見せてもらえるようにと」
ちょうどその日は、社内報の記念特集で「社員の家族を迎える1日」というイベント。
美咲社長が密かに調整し、母を招いたのだった。
「お義母さん、こんにちは」
副社長の涼子が出迎え、すぐに専務・広瀬と常務・古賀も集まる。
「まさか社長のお母様にお目にかかれるとは……!」
「いやはや……お若いですね!」と、社内はどこか浮き足立っていた。
千代は柔らかく笑いながら言う。
「うちの娘が、普段どんな顔で働いてるのか見たくてね。
……家じゃ、8人の子どもの母として、すっかり“おばちゃん”やってるけど」
その言葉に、常務・古賀が思わず声を漏らす。
「“おばちゃん”って……社長は社内では、まさに“鉄壁の女将軍”ですよ」
「ほほほ、あの子、小さい頃からそうだったわ。
でも――意外と、泣き虫だったのよ」
その一言に、周囲の役員たちは驚きで目を見開いた。
「えっ……泣き虫?」
「社長が……?」
千代はうなずいて、少し懐かしむように続けた。
「おもちゃが壊れて泣き、お友だちに名前を呼ばれなくて泣き。
でもね、“どうしても負けたくない”って思う時の泣き方は、違ったの」
「本当に悔しいとき、あの子は人に見せない場所で泣く。
でも、次の日には“何事もなかったように”立ち上がるのよ」
涼子が、じっとその言葉を聞いていた。
そして、小さく微笑む。
「……今もそうですね。何度も、そうやって立ってきた」
美咲が戻るまでの間、千代は各部署を回って社員と談笑した。
「うちの娘が無茶言ったら、遠慮なく言ってね」
「私は、あの子が“強がってるとき”の顔、すぐ分かるから」
社員たちは笑いながらも、どこか心があたたかくなるのを感じた。
*
その夜、自宅のリビング。
美咲は8人の子どもを寝かせた後、母と2人で紅茶を飲んでいた。
「……どうだった? 会社、変なところなかった?」
「ないわよ。
ただ、あんたが“すごい社長”って呼ばれてるの、
ちょっと泣きそうになった」
「……ママ、やめてよ、そういうの」
「ふふ。
でもね――
“母であり、社長であり、妻でもある”って、
本当にあんた、よく頑張ってると思う」
美咲は黙って、紅茶を口に運んだ。
「……お母さん、私、母親になれて良かったよ。
あの子たちに出会えて、そして悠真と出会えて。
全部、私の“人生の答え”だって思える」
千代は黙って娘の肩を抱いた。
「そう思えるあなたが、私の誇りよ」
家族の歴史は、代々つながっていく。
そしてその根っこには、必ず“母”の存在があった。




