第3話 『社長の秘密、もうひとりに知られる』
TSグローバル本社。
経理部に、最近異動してきた一人の若手社員がいた。
野崎 沙耶。28歳。
真面目で穏やかな性格だが、観察力に優れている。
ある日、沙耶は経理報告書の修正で社長室へ資料を届けに行くことになった。
ドアをノックすると、応対したのは秘書課の女性。
中では、社長と経営企画部の橘悠真主任が何かを話している様子だった。
「……この“8月決算資料”、一緒に確認してほしいの」
「了解です、社長。お時間いただきありがとうございます」
やりとりは至って業務的。
だが、悠真が退室した直後――美咲がふと見せた表情。
その柔らかい、どこか安心しきった笑顔に、沙耶はひっかかった。
(……あの橘主任に対して、あんな表情……。上司部下っていうより――)
違和感はそれだけではなかった。
数日後、偶然社内の休憩室で悠真と遭遇した沙耶は、ふと口にする。
「橘さんって、社長と……昔から、親しかったんですか?」
「え?」
「いえ、その……なんだか、雰囲気が似てて。波長が合ってるというか」
悠真は、一瞬だけ目を伏せ、そして――苦笑いを浮かべた。
「まぁ……昔、少しだけ関わりがありまして」
それ以上は言わず、すぐに話題を変えた。
*
その夜、沙耶はスマホのアルバムを見返していた。
古い写真。
大学時代のサークルで撮った懐かしい1枚。
そこには――若かりし頃の七瀬美咲が写っていた。
(やっぱり……あのときの“七瀬先輩”だ)
当時、沙耶はまだ1年生。
学生起業家として注目されていた“先輩”の存在に、ずっと憧れを抱いていた。
だがその先輩が、まさか今の社長だとは――
しかも、彼女の“穏やかな変化”の理由が、“あの主任”にあるとしたら……。
*
数日後、沙耶は覚悟を決めて、美咲に声をかけた。
「社長、失礼します。少しだけ、お時間を……」
社長室でふたりきり。
沙耶は震える手で1枚の写真を差し出した。
「これ……大学の頃の、七瀬先輩です。覚えてますか?」
美咲はそれを見て、ふっと目を細めた。
「……あなた、1年下の、野崎さん……?」
「はい。ずっと憧れてました。まさか社長になってたなんて……」
沙耶は言葉を慎重に選びながら続ける。
「あの……失礼かもしれませんが、
社長が変わった“きっかけ”って、橘さんなんじゃないかって……」
美咲は少しだけ目を伏せて、そしてゆっくりと微笑んだ。
「……何も言えないけど。
でも……今の私は、たしかに“誰か”のおかげで、穏やかでいられてる」
沙耶は深く頷いた。
「誰にも言いません。
……ただ、これからも、社長が笑っていてくれたら、それでいいです」
*
その日の夜。
帰宅した美咲は、リビングで8人の子どもたちに囲まれていた悠真の隣に腰を下ろす。
「今日、昔の教え子に会ったの」
「そう?」
「社長としてじゃなく、“美咲”として話しかけられた。……少し、嬉しかった」
悠真はそっと彼女の手を握った。
「あなたが“変わらずにいる”から、誰かが気づくんだよ。きっと」
“秘密”は守られていた。
だが、ふたりの“存在”は――静かに、でも確かに、誰かの心に届いていた。




