『熱海、そして秘密のキス』 ―前編:会社での昼と夜
「七瀬社長、来週の取締役会資料ですが、ドラフト版が整いました」
「ありがとう。橘くん、あなたの仕事はいつも正確で早いわね」
経営企画部から社長室へと資料を持ってきた悠真は、今日も美咲の前で冷静に振る舞う。
だがその裏にある関係を、知っている者はごくわずか。彼女は“社長”、彼は“部下”――
だが、ふたりはすでに夫婦であり、六人の子の親でもある。
夕方、部屋には柔らかい夕陽が差し込み、打ち合わせは一区切りを迎えていた。
資料を閉じる音と同時に、ふと沈黙が落ちる。
「……ねぇ、悠真」
「……うん?」
「この空間にいると、つい“社長と社員”を忘れたくなるの」
「忘れていいんじゃない? ……今、この部屋に、ふたりきりなら」
美咲が椅子からゆっくりと立ち上がり、悠真の目の前に立つ。
その手が、ネクタイをゆっくりほどきながら、口元に近づく。
「……我慢してた」
「俺も」
ふたりの距離がゼロになる。
唇が重なった瞬間、時計の音すら遠くなる。
甘く、深く、熱く――
まるで時間を吸い込むように、息が合わさり、舌が絡まり、指がシャツ越しに背中をなぞる。
「……んっ……悠真……」
キスは5分、10分と続いた。
ビジネスの場所で、愛を交わすような矛盾すら、いまのふたりには意味を持たない。
やがて、息を切らしながら離れた美咲が、そっと囁く。
「あと2ヶ月……熱海が、待ち遠しいね」
――そして、時は流れ、初夏。
社員旅行当日。