第1章「はじめての夜泣き」
「……んっ……う、うあ……っ、あぁあぁあ!!」
午前2時16分。
都心の高層マンション、七瀬家の寝室に響くのは、赤ん坊の泣き声だった。
「……っ、ごめん、美咲……! 俺、行ってくる……っ」
ベッドから飛び起きたのは、父親になったばかりの橘悠真。
スウェット姿の彼は寝ぼけ眼でリビングへ走る。
そこで出迎えたのは、2人並んだ赤ちゃん用ベッド――そして、ふたりの小さな息子たち。
「翔真、律真……どっちが泣いてんだ? ……ていうか、ふたりとも泣いてる!?」
おむつか、ミルクか、暑さか寒さか、それともただの寂しさか。
子育て初心者の悠真には、まだ「泣き声の種類」がわからない。
一方、美咲もやや遅れて寝室から出てくる。
バスローブ姿に無造作な髪――かつては完璧なスーツ姿でオフィスを支配していた社長とは思えない姿だ。
「……起きてたのね、ごめん……」
「こっちこそ。交代でって言ったのに……」
「もう……3時間おきって、こんなにハードだったのね……」
ふたりは苦笑いを交わしながら、それぞれ一人ずつの双子を抱き上げる。
美咲の腕の中で、長男・翔真がびくびくと震えながら泣き、
悠真の腕では、次男・律真がミルクを求めて手をばたつかせている。
「よしよし、ほらミルクだよ……。飲もうね、律真」
「翔真……おむつ? 違う……。じゃあ、ママの声、聞きたいの?」
そう言って、美咲は自分の鼻先を赤ちゃんのほっぺにくっつける。
「翔真……大好きよ……。ママ、ここにいるわ」
その声に、びっくりするほど、翔真の泣き声がピタリと止まった。
「え、すご……。さすが“元社長”、赤ちゃんにもカリスマ」
「……バカ。もう“元”じゃないし、“ママ”よ。いまの私は」
そのままリビングで毛布にくるまり、ふたりは交互にあやしながら、小さな双子を寝かしつけた。
そしてようやく静けさが戻ったころ、悠真が美咲の肩にもたれる。
「ねえ……正直に言っていい?」
「ん?」
「会社で徹夜してたほうが、楽だったかもしれない……」
「それ、今、私もまったく同じこと考えてた」
ふたりは疲れきった顔で、声を殺して笑った。
でも――その目は、どこか満ち足りていた。
――翌朝。
眠い目をこすりながら、悠真が朝食を用意していると、美咲がふらっと現れる。
「……あのさ」
「うん?」
「今日、保健師さん来るの。予防接種と体重測定、お願いしてたでしょ」
「やば……俺、会社休み申請してない」
「いいの。育休中でしょ? 社内では“橘主任は家族の介護中”ってことになってるし」
「美咲……あのとき、“秘密のままでいいから、一緒にいて”って言ってくれてありがとう」
「こっちこそ。あなたがいなかったら、絶対潰れてた」
ふたりは朝のキッチンで、そっとキスを交わす。
その後ろでは――再び双子が泣き始める。
「……第2ラウンドか」
「よーい、スタート……って感じね」
ふたりは顔を見合わせ、また笑う。
それが、“エグゼクティブな夫婦”の、最初の育児バトルの朝だった。