第9話「さよならの準備」
日曜日の深夜。
七瀬美咲は、自宅のソファに座ったまま、手元のスマートフォンを何度も見つめていた。
画面には、“橘 悠真”の名前。
でも、押せない。――この一週間、彼女はずっと、そのまま連絡を絶っていた。
あの日、宮園からの問いに悠真が“嘘”をついたことを知ってから――
彼が、自分を守るために何を犠牲にしているのか、痛いほどにわかってしまったから。
(……私といることで、彼はこれから傷つく)
(それなら――先に、私が離れればいい)
そう思って、あえて連絡を断ち、社内でもできるだけ目を合わせないようにしていた。
けれど、それは“想像以上”に苦しかった。
――彼の声を聞けない
――目が合わない
――呼吸すら、重ならない
そんな日々が、一日ごとに彼女の胸を締めつけていた。
月曜。社内。
経営企画部の朝会で悠真が報告する姿を、美咲は遠くから見ていた。
自分の顔を一度も見ようとしない彼に、どこか「諦め」のようなものが見える。
(……これで、よかったのよね)
だがその日、夕方。
社長室の扉が、勢いよく開いた。
「……七瀬さん。話があります」
悠真の声だった。
「……勤務時間中よ。あとにして」
「……これ以上待てません」
無理やりにでも中に入り、扉を閉めた悠真の目は、強い怒りと哀しみを帯びていた。
「何を考えてるんですか。僕から距離を取るなんて」
「……あなたのためよ。あなたが私と関われば関わるほど、社内での立場が危うくなる。私が“社長”である限り、あなたは――」
「それでも、あなたが必要なんです!」
思わず声を荒げた悠真の叫びが、社長室に響いた。
「僕は、あなたの“社長”としての顔じゃなくて――“美咲さん”としてのあなたが好きなんです」
「……悠真くん……」
「僕の気持ちは、最初から変わってない。美咲さんが僕を遠ざけても、気持ちが消えるわけじゃない」
「……私は、あなたに迷惑をかけたくないの」
「僕があなたと一緒にいることを“迷惑”だと思ってるなら、それはもう恋じゃない。そんなの、愛じゃない」
沈黙――
その一言に、美咲の目が潤んだ。
「……違う……。違うのよ。私は、あなたを本気で――」
言葉が途切れる。
悠真は、そっと彼女に近づき、震える指先で頬に触れた。
「なら、抱きしめさせてください」
「……っ、だめ……また、あなたの熱に溺れそうになる……」
「溺れていい。今度は僕が、あなたを引き上げますから」
次の瞬間、ふたりは強く抱き合い、深く、熱く――唇を重ねた。
キスは、一度では終わらなかった。
唇が離れれば、すぐまた重なり、
息が重なれば、さらに深く、強く、求め合う。
「……ん……悠真……っ」
美咲の吐息が震える。
手が背中を撫で、身体が自然と近づく。
長く、何度も交わされたキスは、ただの愛情表現を超えていた。
「……これが、“さよなら”なんて言わせない」
悠真の囁きに、美咲は涙を堪えながら、静かに頷いた。
「……もう、離れない。私も、覚悟を決める」
「一緒に、歩いてくれますか?」
「……ええ。何があっても。たとえ全社員を敵に回しても、あなたの味方でいる」
ふたりは抱き合ったまま、ずっと動かなかった。
誰かに何を言われてもいい。
社会的な立場も、社長という肩書きも、いまこの瞬間だけは――すべて忘れて。
その夜、美咲は初めて自分の心に正直になれた気がした。