第8話「噂と圧力」
――雨音の残響だけが静かに続く、夜明け前の社長室。
ふと、微かな光に目を細めながら、悠真は静かに瞼を開けた。
見慣れた天井ではない。
デスクの奥に並ぶ書棚と、外から差し込む白みかけた空――
(あれ……?)
頭がまだぼんやりとしている。
だが、すぐ隣に感じる温もりと香りに、全身がはっきりと目覚めた。
「……美咲、さん……?」
声をかけながら身体を起こそうとした瞬間、彼は気づいた。
――自分が、裸であることに。
同時に、美咲も、彼の動きに反応してゆっくりと目を開けた。
「……ん……朝?」
彼女の声は、寝起き特有の柔らかさと甘さを含んでいた。
そして――ふたりの視線が合った直後、
「……え?」
「……あ」
美咲は反射的に自分の体を布団で隠す。
だが、その一瞬だけ、胸元のシーツがずり落ち、形の良い谷間が露わになった。
悠真は思わず固まる。
「……う、わ……すみません! いや、でもその、見ようと思ったわけじゃ……っ」
慌ててシーツを持ち直す美咲の頬が赤く染まる。
そして彼女の視線も、悠真の方へ――
割れた腹筋、筋肉のライン、しなやかな体つき。
美咲は目を細め、ぽつりと呟いた。
「……そんな体してたのね。……筋肉、綺麗。……なんか、悔しいわね」
「えっ?」
「社長の威厳が崩れそう……。……ねえ、カップ数とか聞いても引かない?」
「じゃあ……代わりに僕から聞いていいですか?」
「なに?」
「……美咲さんって、何カップなんですか?」
「っ……!」
顔を赤くし、口をもごもごさせながら、美咲が小さな声で答える。
「……F、よ……小さくはないの……たぶん……」
「……最高ですね」
「こらっ、変態!」
ふたりは顔を見合わせ、思わず笑い合った。
――だが、次の瞬間、悠真が時計に目をやり、顔色を変えた。
「……! やばい……っ!! 出社時間、30分過ぎてるっ!!」
「えっ、うそ……っ!」
「支度します、シャワー浴びてきます!」
10分後。
シャワーを浴びてスーツを着直した悠真が、髪を濡らしたまま社長室の扉に手をかける。
その前に、美咲が彼を引き止めた。
「ちょっと、待って」
「え?」
「行く前に……キス、して。……朝の、いってらっしゃいのやつ」
悠真は笑いながら、ゆっくりと美咲の腰を引き寄せた。
「10分も遅刻してるのに……甘やかしすぎですよ?」
「……甘やかされたいの。今だけ、あなたに」
そうして、ふたりは再び唇を重ねた。
今朝のキスは、夜よりもさらに濃密だった。
長く、深く、互いの存在を口づけで確かめるように。
肌ではなく、心を抱きしめ合うような――10分を超える、熱いキスだった。
ようやく、名残惜しそうに唇を離し、悠真は社長室を出た。
――経営企画部。
悠真がフロアに戻った瞬間、数名の同僚が一斉に視線を向けた。
「……おはよう。遅かったね」
「シャワー……浴びた?」
「なんか……いつもと雰囲気違う?」
「いや、すみません。ちょっと電車が遅れてて……って、違います!寝坊です!」
全力で誤魔化す悠真に、同僚たちは苦笑しつつも、どこか探るような目を向けた。
(……なんとか、バレてない……はず)
だが、昼過ぎ。
悠真は応接室に呼び出された。
そこにいたのは――七瀬美咲の元婚約者であり、現在の取締役の一人・宮園誠一だった。
「お前、橘くんだな?」
「はい。橘悠真です」
「……単刀直入に聞く。美咲と、お前はどういう関係だ?」
その一言に、空気が凍る。
悠真は、唇を噛んだ。
言いたい。でも、言えない。
彼女を守るためには、絶対に――
「……社長と社員。それだけです」
「嘘をつくな」
「本当です。七瀬社長を、個人としてどう思うかは……仕事に影響させてはいけませんから」
「ふん……。まあいい。だが覚えておけ。あの女は、“情”で動く人間じゃない」
宮園はそう言い残して去っていった。
その晩――
悠真のスマホに、美咲からのメッセージが届いた。
《さっき、宮園さんから話を聞いたわ》
《……分かってるよ、嘘ついたことを。》
《でも、それでもいい。言えないのは仕方ないね》
《あなたが私を守ろうとしてくれたこと、ちゃんと伝わったから》
その言葉に、悠真は目を伏せたまま、画面を胸に当ててそっと閉じた。
どんなに噂されても、どんなに疑われても――
彼は、彼女の手を離さないと決めた。