記憶
誠二には養護施設に来る前の記憶がない。
正確にいえばなくした。
施設から抜け出して、彷徨っていたとき運悪く丘から足を踏み外して川に落ちた。
たまたま近くにいた男性に助けられて事なきを得たが意識が戻るまでに五日がかかった。
病室で目を覚ますと彼は名前以外の全ての記憶を失っていた。
施設から抜け出したことで職員から児童への虐待が疑われてちょっとした騒ぎにもなった。
だが、誠二が酷い扱いを受けていたことはなく彼が逃げ出そうとした理由は不明のまま別の養護施設に移ることになる。
記憶の頼りはずっと肌身離さず身につけている真珠のネックレスだけだった。
「誠二さん」
遠くで声が聞こえる。
誠二は酷く痛む頭に顔を歪めながら目を開けた。
「よかった!目が覚めたんだね」
自分の顔を覗き込んでいる大我が安堵した表情を浮かべている。
周囲を見渡すと白で統一された質素な部屋が目に入る。
「あれ……。俺、何を?」
「レオを起こしてって頼んだ後にいくら待っても二人が現れないから様子を見に来たんだ。そしたら誠二さんが部屋で倒れてたんだよ」
彼は思考を巡らせようとするが鈍い痛みに阻まれる。
「すみません。思い出そうとすると頭が痛くて」
「ううん。誠二さんが無事ならそれでいいんだ」
少し潤んだ大我の目元を見て誠二は首を傾げた。
「大我さん。もしかしてずっとそばにいてくれたんですか?」
「うん。心配だったからね」
そんな会話をしていると扉が開く。
「お。誠二、目が覚めたか」
そう言って入ってきたレオの頬にはなぜかかすり傷がついている。
「レオさん。頬、大丈夫ですか?」
誠二は目を瞬かせて彼の顔をまじまじと見た。
「ああ、既のところで避けたからな。大我のやつ本気で撃ってきやがって……」
憎らしげに大我に視線を移す。
「しょうがないでしょ。レオが何かしたのかと思っちゃったんだから」
「するか!まずは人の話を聞け。誠二に外傷はなかっただろ」
レオの言葉に大我は苦笑した。
「そうだね。あ、話が逸れた。誠二さん気分はどう?」
彼は心配そうに誠二を見る。
「頭痛が酷いけど、少し休めば治ると思います」
「じゃあ、今日はここで安静にしてて。この部屋はもしもの時に備えた病室みたいなものなんだ」
その言葉にもう一度、周囲に視線を向けると複数のベッドや大小様々の小瓶が入った薬棚のようなものがあった。
他にも包帯が入った棚などがあり、ここが病室というのも頷ける。
「そうだ。頭痛薬あるけど飲む?市販のだけど」
大我は袋から小箱を取り出す。
「ありがとうございます。いただきます」
誠二はその小箱を受け取ると箱から薬を取りだし水の入ったコップと同時に飲んだ。
空になったコップを見つめた彼は自分が気を失っている間に見た光景を思い出す。
「レオさん。すみません」
「急にどうした?」
誠二は目を伏せるとぽつりと言った。
「俺、レオさんの部屋にあったパソコンの画面を見てしまったんです」
レオは大きく目を見開くと小さなため息をつく。
その様子に彼は肩を震わせる。
「レオ。誠二さんを責めないで。起こしに行ってって頼んだのは俺なんだよ」
「別に怒ってねぇよ。これは扉に鍵をかけておかなかった俺のミスだ」
レオは頭を搔く。
「あれは仕事関係の書類なんだ。内容は他言無用で頼む。後、次からは俺の部屋に置いてある物は無闇に見ないようにしてくれるか?内密にしなきゃいけない仕事もあるからな」
「はい。すみません」
誠二が頭を下げるとその頭に手をおいた。
そして優しい手つきでくしゃくしゃと頭を撫でる。
「あの。レオさん?」
彼はどう対応していいのかわからずレオを見上げた。
「あ、悪ぃ。あんたと大我はなんか似てるからつい大我に接するみたいにしちまった。次から気をつけてくれればいいからあまり気にすんなよ」
「はい」
大我は二人の様子を見て微笑むと手を叩く。
「そうだ。誠二さんが起きたから追加で昼食作ってってアルマに伝えてくるね」
そう言うと彼は扉を開けて足早に出ていった。
部屋に残された誠二は小さな声で聞いた。
「レオさん。あの、パソコンの画面に写っていた女の人なんですけど。俺、見覚えがあるんです」
その言葉に彼は難しい顔をする。
「誠二。お前が倒れたのはもしかしてパソコンの画面を見たからか?」
「はい」
頷くとレオは顎に手を当てた。
「あれは昨日の取引で手に入れた資料なんだ。だが、十六年も前に起きたことでお前には関係ないと思うが……」
「実は俺、養護施設に来る前の記憶を事故でなくしてるんです。施設に来たのは十八年前なので火事が起こる前、その時にあの女の人に会ったことがあるような気がして」
誠二はもう一度、意識を失っている間に見た光景を思い出す。
(あれはきっと俺が失った記憶なんだ)
そんな確信めいた予感があった。
「つまりあの資料に写っていた女性は、お前のなくした記憶に関係がある。それを知りたいんだな」
「はい。無理を言ってるのはわかってます。絶対に他言しないので教えていただけませんか?」
長い沈黙が続いたあとレオが口を開く。
「そこまでいうなら教えてやる」
彼は大きく息を吸うと話し始めた。
「十六年前。ある一家が火事で死亡した。名前は夕凪。当時の記事には事故と書かれているが、近くで銃声を聞いたと通報があったから恐らく殺されたんだろう」
「殺された……」
頭の中に何か靄がかかったような気がする。
「お前が見覚えのある女性はその家族の母親で、名前は夕凪玲華。教師をしていたらしい。聡明で優しい性格は学校でも評判が良くて生徒達からも好かれていたみたいだな」
「聡明で優しいですか」
レオは頷く。
「ああ。ただ、昔子供を流産しているらしい」
「流産。じゃあ、お子さんはいなかったんですか?」
彼は首を横に振る。
「いや、亡くなったのは第一子で二人目の子供は元気に育ったらしい。まぁ、火事の後行方知れずだけどな」
「なるほど……」
彼女のことを聞いても何ひとつ記憶が思い出せないことに誠二は肩を落とす。
(せっかくレオさんが話してくれたのに。何も思い出せない。けど、あの人は俺の母親なのか?)
眉を寄せたまま口を開かない誠二をレオは思案するような顔で見つめていた。
少しして彼は手を叩く。
「あの資料についてはこんなところだな。最初に言ってたように他言はしないでくれ」
「もちろんです。レオさん。話してくれてありがとうございます」
レオはふっと笑うと部屋を出ていった。
扉を閉めたところで隣に蹲っている人が見えた。
「大我」
そう声をかけると大我は伏せた頭を上げずに肩を震わせる。
「……レオ」
消え入りそうな声が聞こえた。
「聞いてたのか?」
大我は頷く。
そんな姿を見てレオは屈むと彼の頭を優しく撫でた。
「記憶がないって……。なら、思い出さない方がいいのかも。辛いことを忘れられるならその方がいいよね」
「大我。お前はどうしたいんだ?誠二は記憶を取り戻したがってるように見えたぞ」
大我は顔を上げると目を見開く。
「でも、俺は誠二さんを巻き込んでばかりだ。もう、絶対に失いたくないのに……」
小さなため息が聞こえると少し乱雑に頭を撫でられた。
「落ち込むなんてらしくないぞ。誠二は自分の意思でお前の傍にいるんだろ」
大我はその言葉に縋るような目でレオ見る。
「だったら、あいつの意思を尊重してやれ」