冷徹侯爵①
あれからどれ程の時間が経過しただろう。ようやく目を覚ましたグレイスだったが、まだ意識がはっきりとしていない所為か、暫くの間ぼんやりと呆けていた。倒れた時の衝撃か全身がズキズキと痛み、頭に靄がかかったように思考力も低下している。
(確か、ローレルの浮気相手と噂されるダリア様と会う約束をして、デイジーと一緒に喫茶店まで向かった・・・のよね?)
そこまでは覚えているのだが、どうにもその先が思い出せない。何か信じがたい出来事があった筈なのだが、思い出そうとすると頭に激痛が走る。グレイスは考えるのをやめて、まずは自身が置かれている状況の把握を優先させる事にした。
(ここは何処なの?)
屋敷を出発した時はまだ昼時だったが、いつの間にかすっかり陽が落ちてしまっている。路地裏から見える街の雰囲気を察するに、どうやらかなり遅い時間らしい。そんなに時間が経つまで、どうして誰も声を掛けてくれなかったのか。その謎は、決して望まない形で明白の事実となる。
『おいお前、俺の縄張りで何してやがる。』
声がする方を向いて、グレイスは声にならない叫び声を上げた。黒猫だ、猫が喋っている!と口をパクパクさせながら立ち上がろうとするが、自分の身体に異変を感じてピタリと動きを止める。そして恐る恐る視線を下に向けると、信じられない光景がグレイスを待ち受けていた。
『な、ナニコレーーーーー?!?!』
前身が銀色の毛に包まれており、震える手にはぷにぷにとしたピンク色の可愛らしい肉球がついていた。二足歩行だと体に負担がかかるので、仕方なく両手を(この場合前足になるが)前に出す。お尻の方へ目を向けると、長いしっぽがピンと立っていた。夢でない限り、あり得ない状況を目の当たりにしたグレイスは、もう一度気を失いかけるところをギリギリで踏み留まった。
『おい聞いてんのか?・・・ってお前、中々可愛いじゃねえか。』
段々と黒猫が近づいてくる間、グレイスは理解しがたい状況を無理やり受け入れていた。何故だかは分からないが、自身が猫の姿になっている。目の前の黒猫も決して人間の言葉を喋っていた訳ではなく、自分が猫の言葉を理解できるようになってしまったのだ。
『俺の番になれば、ずっとここに居てもいいぜ。』
黒猫は自分の体を擦りつけるようにしてグレイスの横を通る。この行為は猫の求愛行動の一種だ。グレイスは身の危険を感じて後退るが、黒猫はグレイスを逃さないと謂わんばかりに退路を塞いでいる。
『貴方の縄張りだとは知らずにすみません。えっと、もう立ち去るので許してくれませんか?』
この場から早く立ち去りたい一心で、グレイスは謝罪の言葉を口にする。
『つれない事を言うなよ。折角だし飯でも食って行け。』
そういって黒猫は素早く体を動かし、何かを口に咥えて戻ってきた。
(ヒィ・・・!)
口に咥えていたのは野ネズミだ。まだ息があるようで体をピクピクと痙攣させている。あまりのグロテスクな光景に、グレイスは思わず目を背けてしまった。それもその筈、図鑑でイラストの野生動物を見た事があっても、こうして実物を目にしたのはこれが初めてだった。しかも最悪なことに、死にかけである。
『遠慮するな・・・よっ?!?!』
それまで強気だった黒猫の表情が一瞬で変わる。グレイスが何事かと声をかける前に、黒猫は獲物を置いて一瞬で立ち去ってしまった。
「おい。」
突如上から降ってきた酷く冷たい声に背筋が凍る。後ろを振り返らずとも分かる強い威圧感に、グレイスの体は石のように固くなってしまった。声の主はグレイスが逃げようとしないのを良い事に、両手で抱くようにして持ち上げる。
(私をどうするつもり・・・って、え?!待って?!?!)
至近距離まで持ち上げられた事により、月明かりに照らされた男の顔がはっきりと見える。烏の濡羽色のような美しい黒髪に、サファイアと瓜二つの輝かしい青い瞳。整った顔立ちをしているが、何処か冷ややかな印象を受ける。そんな彼を、グレイスは知っていた。
18歳という若さで公爵の家督を継いだ人物、テオドール・ライラックの姿がそこにはあった。テオドールはローレルの従妹にあたるため、グレイスも何度か顔を合わせた事があるので間違いない。会う度いつも目線を故意的に反らしていて、話しかけても一言で会話を終わらせてしまう。そのため、無口で不愛想な印象をグレイスは持っていた。それにローレルや他の令嬢からは、冷徹で非道な男だと聞いているが本当の事は分からない。
(よりにもよって、この男に捕まるなんて・・・。)
夢なら早く覚めてほしい。というか寧ろいっそのこと夢であってくれ、とグレイスは神に祈るようにして両手を合わせる仕草をした。
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すみません。投稿を忘れていて更新が遅れました。