新月の夜①
『恐ろしく暇だわ。』
執務室で静かに仕事をしているテオドールの横で、グレイスは退屈そうにゴロゴロと寝転んでいた。あれから既に3日が経過しているが、特にこれといった進展はない。それどころかグレイスが何処かへ出かけようとする度に、公爵家の人間が必ず一人は付き添おうとするので、下手に遠出する事が出来ずにいた。つまり、収穫が一切ないのである。
この3日間、目覚めたらまず朝食を多めに摂り、その後は情報収集も兼ねて公爵邸を散策しながら日々を過ごしていた。それ以外の時間は大体こうして執務室でテオドールの監視をしているが、仕事の邪魔をする訳にはいかないので大人しくしている。要は、グレイスは暇を持て余していた。
伯爵家の令嬢とはいえども、グレイスは他の令嬢とは違い、花嫁修業だけではなく、父の事業に直接携わっていたため常に齷齪しながら働いていた。そんな暇を知らない彼女が、今回の出来事により一瞬にして暇人に変わってしまったのである。最も、早く元の姿に戻らなければならないという焦りは常にあるのだが、方法が分からなければ結局どうしようもなかった。術者を殺したところで元に戻れる保証は無いし、そもそも人を殺すという事にグレイスは躊躇してしまう。自分が人間だと、テオドールにどうやって伝えるかを一度考えたりもしたが、ペンが持てないので文字を書く事すら出来ず、かといって文字を指して伝えようとしても「構ってもらいたいのか。」と勘違いされて八方塞がりだった。
(そもそも私がグレイスだと知ったら、公爵はどんな反応をするかしら。)
もし自分がテオドールの立場であったなら。と考えてみると、正直恐ろしい目に合う予感しかせず、グレイスは思わず身震いした。自分が人間だと知られてしまえば、今までの公爵の態度が180度ガラリと変わってしまう事は間違いない。味方につけるどころか、最悪敵を作ってしまう事は間違いないだろう。大事なのは、いま伯爵家に居座っている人物がグレイスの偽物である事を伝えるか、元の姿に戻る方法を見つける事だ。公爵には、それまで身の安全の保障や居食住の(衣類は必要ないので)提供をして貰い、後の事は自分でどうにかしようとグレイスは決めていた。それに、公爵家は人が多いので何かしらの情報収集にも期待できる。
(今のところ、手掛かりゼロなのだけれどね。)
できれば、あと3日以内には何かしらの解決策が浮かぶ事をグレイスは渇望していた。何故なら3日後に、出張で外出していた父が屋敷に戻ってくるからである。もし偽物のグレイスにうまく絆され、無理矢理にでも公爵家と婚姻を結んでしまったら、相手の術中に陥ること間違いない。もし術者が他国のスパイなのだとしたら、最悪戦争に発端する何かが起こってしまう可能性もある。そうなれば伯爵家は破滅、もしかしたら一家諸共全員死刑になるという事も有り得る。考えすぎかもしれないが、そうなってしまう可能性が0ではない限り、想定しておかなければならない。
「おやつの時間だぞ。」
グレイスは、テオドールの言葉を聞いて窓の外を見る。どうやら色々と考えている間に、すっかり陽が落ちてしまったようだ。橙色から闇色に染まっていく夕暮れの景色を静かに見つめていると、グレイスの目の前に干したカニの身が差し出された。
『やったー!今日のおやつはカニなのね!!』
すっかり人間としての尊厳を失ったグレイスは、大喜びでテオドールの手から直接おやつを貪る。今のグレイスは、まるで月の女神のようだと褒め称えた人々にとって、とても想像もつかない姿だろう。テオドールは、そんな彼女の姿を嬉しそうに見つめている。
「・・・今日は新月のようだな。」
おやつタイムに夢中になっている間に、いつの間にか夜になっていたようだ。テオドールは、おやつを食べ終えて満足そうに喉を鳴らしているグレイスの頭を撫でてから片付けを始める。グレイスは彼の邪魔をしないよう、机からぴょんと飛び降りて窓の外を見た。
(本当だわ、月が見えない。)
何故だか自然と体がソワソワしてしまい、どうにも気持ちが落ち着かない。
(今日は気分が優れないし、すぐに寝てしまいましょう。)
執務室を後にしたグレイスは、そのあと夜ご飯をしっかり食べてから体を洗って貰い、テオドールのベッドで体を休めていた。しかし、すぐに寝ようとは思っていたものの中々睡魔が訪れない。グレイスが悶々としている間に、テオドールが湯浴みを終えて部屋に戻ってきた。
普段の彼は無表情なのに加えて肌が白いので、とても冷たい印象を受けるが、湯浴み後は体が温まっている為かほんのりと顔が赤く、雫が滴っている濡れた黒髪も何だか艶っぽい。更に言うと寝衣の隙間から見える筋肉が、色気に磨きがかかっている。
(これだけは何度見ても慣れそうにないわ・・・。)
人間としての尊厳を捨てたグレイスだったが、辛うじて乙女心はギリギリ健在であった。
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