眩い夏のブレックファスト
シデオスという国は、小さいながらも風光明媚な国である。
冬は雪深く厳しいが、今の季節は夏。
沢山の船が浮かぶ青い海に港。緑濃き山、碧深き湖。海緑石の土壌を掘れば、または土壌なんか採掘せずとも嵐の後には特産品である光輝く琥珀が波打ち際を揺蕩っている。
ただ、このシデオス国に位置するルーデロイ領には青い海も港も光輝く琥珀の採掘場もない。かろうじて緑濃き小山と碧深き小湖はあるが。農耕牧畜が盛んな「シデオスの台所」の一つである穏やかな……よく言えば素朴、簡単に言えば華のないルーデロイ領。
この地で一番立派である四階建ての館で、マイヤ・メレヴァイクの一日は今日も始まる。
「くあぁ……。おはようございます」
「おはようさん。何だい寝不足か?」
「ごめんなさい。その通りです」
「修行が足りねぇなぁ! 俺なんか二時間は前に起きてるのにこの通りだよ。あいな、そこに置いてあるから持っていってくれ。メニューは見ればわかる」
「ありがとうございます。頂いていきます」
「よろしくなー」
マイヤが声をかけたのは厨房にいるコックで、顎でしゃくって示されたワゴンを受け取った。
ワゴンの上の料理は、冷めないように全て銀のクロッシュが被せられている。メニューは数種類のパンと青豆のポタージュとハムのソテーとサラダとチーズ。匂いが厨房に満ちているから、見なくてもわかる。
マイヤだって六時には起きて黒いロングワンピースに白いエプロン、制服の下にはネックレスまできちんと忍ばせ、仕上げは暗褐色の髪をギブソンタックに結わえて身支度を済ませていたのだ。しかし会話から察するに、朝五時より前には起きていたというコックの前で再び欠伸をする勇気はなかった。キッチンを出てから大あくびをし、ヘーゼル色の目尻に浮かんだ涙を擦りつつ狭い廊下の突き当たりまで進む。
主の紋章である蔦と梟の彫刻が為された厚い扉をごんごんとノックして、返事を待たずに扉を開く。いつも通り既に起きているのはわかっている。だから寝室でなく執務室に来たのだ。
「おはようございます」
「では、頼んだダージャ。……おはよう、マイヤ。今日もよい朝だね」
書類を持った、ダージャと呼ばれた執事が出て行き様にマイヤにじろりと視線を送り、しまったタイミングが悪かったと思いつつ頭を下げて部屋へと入る。ダージャとマイヤはあまり折り合いがよくないのだ。
そのやりとりを気にもせず、飴色の執務机についた男の視線は手元の書類からマイヤへと移動した。
開け放たれた窓から、紙とインクの香りを散らすような緑の匂いを連れた風がぶわりと大きくレースのカーテンを揺らして室内を勢いよく朝の光で満たす。糊のきいた真白いシャツが反射板の効果をもたらして、正面の執務机に座る主の蜂蜜色の髪、蜂蜜色の瞳を目に痛いくらい眩しくきらきらと輝かせる。
ベルザス・グラウサヴァー・ルーデロイ。
男盛りの二十四歳。三年前にこのルーデロイ領を拝領した、王家の血を引く若き公爵。
蜂蜜みたいに甘い声が部屋に響き、口元には心も甘く蕩かされそうな笑み……を向けられていたのだが、直後に大きな欠伸で顔が崩れた。優雅さと甘い空気は広い部屋に溶けて薄まっていくが、マイヤはもう十四の時からもう七年もの付き合いなのでその雰囲気に蕩けたりなんてしない。いや、そんな事ない。やっぱり美しいものは美しいなぁ……。
「こんな早い時間から政務だなんて。あまり根詰めるとお体壊しますよ?」
「ただでさえこの時期は忙しいのに、あと三日でルーデロイを空けなければならないから。あー眠い」
「昨日も一人でベッドでお休みになればよかったのに」
「それとこれとは別。マイヤという抱き枕で英気を養うのも必要だから。それに二人で寝たところで狭くなるベッドでもないじゃないか」
「……」
じとっとしたマイヤの視線に、ベルザスがお茶目な顔を作って笑う。
「……冬になったらきちんと冬眠します」
「そんな事言って、冬は冬で忙しいーって仰るのわかってるんですから。さ、朝食にしましょう」
「机の端の方に置いてくれれば……」
「だーめーでーすー。そんな事言って結局昼食持ってくるまで忘れてるんですからベルザス様は! 食べないと体力持ちませんよ!」
この時間からベルザスがきっちりと身支度の済んだ姿で仕事していたということは、身支度を手伝った侍従はもっと早起きしているんだろうな、コックと同じくらいの時間に起床するのだろうかと心の中で同情しながら、マイヤはベルザスに示された執務机の端ではなく窓際にあるテーブルに、クロッシュを外してワゴン上の料理と取り皿を並べていく。
バゲットやペストリーがいくつか入ったバスケット。木箱にうやうやしく入れられたチーズ。水滴で輝く新鮮なレタスとトマトの横には、バターの油脂で輝く分厚いハムのソテー。それに若々しい緑が優しい青豆のポタージュスープ。予想通りだ。それに加えて、銀の水差しから水を注ぐ。
シデオスの台所たるルーデロイ領主の朝食。使われているのは滋味あふるる品であるが凝ったところのない──豪農だとかいい宿屋の朝食のような──内容と常識の範囲内の量の料理が並べられていく。質素倹約を是とする現王と同様の、あまり贅を好まぬ食事。その方がマイヤも仕事がしやすくてありがたくはあるが。
テーブルに支度する様子を横目で窺っていたベルザスが、マイヤの準備が完了したと見えると書類をばさりと置いて向かってくる。何も言わずマイヤはベルザスの為に椅子を引き、自分は向かいに座ってお互いに目を閉じた。
「健やかな今日の日とこの食事に感謝を」
「健やかな今日の日とこの食事に感謝を」
食事の前の挨拶を済ませ、マイヤは皿に盛られた料理をてきぱきとお互いの皿に取り分けていく。普通なら主と女官が食事を、しかも同じ卓で取る事などありえないがこれも主であるベルザスの意向だ。
「何のパンからお召し上がりに?」
「ペストリー」
「それは最初に食べるものではないのでは?」
「えー、好きなのに」
リクエストをあっさり切り捨てて、マイヤは掌ほどの大きさのシンプルなパンを、きっちり半分に切ってからベルザスの皿に盛る。いくら「好きなものは先に食べる派」といえど、もう少し順番は考えてほしい。
「お先に失礼します」
マイヤはそう言うとごくりと唾を飲み、脇に置いていた革のケースから曇り一つない銀のスープスプーンを手にとり、器の中身をぐるぐるとかき混ぜ引き上げてから真剣な表情でスプーンを眺めた。行儀が悪いが、向かいのベルザスはそれを咎めない。
再びマイヤはスプーンを器の中に入れ、底の方からスープを掬って口へ運ぶ。青豆の色と同じほの青さと甘さをブイヨンと生クリームが包み、舌に優しい温度で滑らかに喉を滑り落ちていく。こくんと頷くとベルザスもポタージュを口に運んだ。
次はパンだ。夏らしくヒマワリの種が練り込まれているパンはまだほんのりと温かい。真ん中の柔らかい部分をちぎって口に運び、噛みごたえのある端の皮の方も続けて口に運んで頷いた。ライ麦の酸味に種の香ばしいこりこりとした食感が合わさって何とも楽しい。
再びパンを真ん中の方からちぎり、銀のナイフでやわらかな白いチーズを取りしっかりとパンで拭く。尚も輝くナイフを確認してから口に運べば、パンとは違った優しい酸味とあっさりとしたチーズの風味が口内に広がる。こくこく、と頷きながら食べ進める。
次はサラダ。ベルザスの苦手なトマトをにっこり笑いかけて食べさせて、水を挟んでここでやっとペストリーと食べ進めていき、異変が起きたのは銀のフォークでハムを口に運んだ時だった。粒のマスタードで作られたソースと溶けた脂で照った分厚いハム。匂いを嗅いで口に運んで。
「ガハッッ、げほ、カハッ」
「マイヤ?! どうした?!!」
舌と喉を強く刺し、鼻に勢いよく抜ける痛み。
激しくえずいたマイヤにベルザスは血相を変えて水の入ったコップを掴んだ。マイヤはナプキンにハムを吐き出し、素早くベルザスからコップを受け取って水で口内を洗う。
「か、辛……。なにこの辛さ……!」
「か、からい?」
「す、すみません辛くて。たぶんハムのソース、塩がすっごく多めに入ってます。見た目と匂いでは全く気がつけなくて」
「な、なんだ……焦った……」
「申し訳ございません」
「いや、マイヤが無事なら何より」
ベルザスがへなへなと椅子に座るのを見ながら新しいナプキンでマイヤも口を拭いて、ソースをきれいによけて改めてハムを口に運ぶ。ベルザスが信じられないといった目で見てきたが、朝食のメインクラスの食材をむざむざ諦めるのももったいない。別の物を焼き直してもらえるだろうけど時間もかかるし、ベルザスは絶対にそんな時間を待ってくれない。ソースを落としてしまえば、それでも多少塩辛いが脂の旨味の広がる美味しいハムである。
「いけます」
「……それはよかった」
「何か恨まれるようなことされました?」
「さあねぇ。善良な領主様には心覚えがありません。ま、殺すつもりは向こうにもないだろうよ。殺すんだったら塩なんて遠回しなもの使わない。私に注意されて、それに腹を立てたとかそんなところじゃない?」
「犯人捜しはダージャ様にお願いしましょう」
「そうしてくれ」
ベルザスもきれいにソースをよけてハムを切るのを見て、マイヤは水をもう一度口に含んだ。塩辛さによる衝撃の余韻がまだ残っている。
「……お茶、お淹れしましょうか」
「よろしく。あ、蜂蜜入れて」
少し間を開けてマイヤが訊ねれば即答されて、朝食を食べ終えたベルザスが執務机へと戻っていく。せめてお茶を飲む五分か十分だけでもゆっくりしてほしかったが、きっとその時間さえも惜しいのだろう。と、ワゴンに残っているガラスのポットを手に取った。
中身は茶葉を入れて井戸に沈めておいた水出しのアールグレイが入っていて、螺旋のカッティングが入ったグラスに注ぎ入れる。棚から蜂蜜の瓶を取り出して銀のスプーンで一掬いし、たらりと入れて中身をよく撹拌してから引き上げた。一点の曇りもないスプーンが朝の光の中に輝く。
グラスを手に取りその香気を吸いこんでから口に含めば、苦味のないまろやかさだ。喉から胃に落ちる感覚と鼻に抜ける柑橘類の風味が食事で上がった体温を爽やかに冷ましてくれた。蓮華草のみから採られた一級品の蜂蜜が甘く喉を灼く。
「あーしかし、びっくりしました」
淹れ終わったグラスを執務机の端に置きながらマイヤは口を開いた。ガラスの反射が書類の束の上にきらきらと光をちらつかせる。
「こういうことされるのも久しぶりだったな。あ、これ捨てておいて」
「手紙ですけどいいんですか?」
「オーラブ卿って人からのパーティーの招待状。断ってるのに何度も打診があってしつこくって。……で、何だっけ。そうそう久しぶりって話だ」
片手でグラスを掴みながらベルザスが笑いながら言う。
「拝領当初は『若造がー!』とか言って目をつけられたりもしましたけど、それ以来ですよね。人と羊が半々みたいなこの土地で恨みを買うこともそうそうないと思っていましたが」
受け取った手紙を封ごと屑籠の上で破る。紙に染み込ませてあったらしい、松脂と百合と琥珀の混じった香りがふっと漂った。
「不作・飢饉なんてことになったら簡単に恨まれるよ。民の生活が困窮する様な事態に陥れば、【銀の匙】であるマイヤの出番が増えるな」
「ベルザス様には、ここで平穏に過ごすことができます様ご活躍を期待しております」
「応えられるように努力する」
そう言うとベルザスはグラスを手に取りぐいっと一気に呷った。あっという間に空になったグラスを笑みと共に握らされ、大きくて温かい手が触れた。すらりとしているが節の目立つ指が力強く、マイヤの手に重ねられる。無言のおかわりの合図。
受け取って、マイヤは先程と全く同じ工程で紅茶を淹れ直し、そして再び差し出した。それが彼女の【銀の匙】としての仕事であるから。
マイヤ・メレヴァイクはただの女官ではない。【銀の匙】と呼ばれる重要な役目を仰せつかった女官である。
彼女は蜂蜜を入れるためのスプーンといった、銀食器と同じ役目。美しい銀の輝きを、黒くくすませる事によって危険を知らせる役目を果たすような。
主よりも先に食物を口にし、その食事が安全であることを伝える――つまるところ彼女は【銀の匙】なのであった。