夜の帳の降りた部屋
「……マイヤ、マイヤ」
耳元で名前を囁かれながらゆさゆさと体を揺すられ、マイヤは肩に置かれた手を掃い、柔らかく大きな枕に顔をうずめた。枕カバーから漂う、石鹸の香りと暖かく甘い肌の匂いを大きく吸って相手に背を向け、丸まってまた目を閉じる。
随分と、懐かしい夢を見ていた。
「マイヤ、すまない。喉が渇いたから水を」
またゆさゆさと、相手は再びマイヤを夢の世界から呼び寄せた。そう言われてしまったらマイヤは目を開ける他ない。瞼をこすって伸びをして、腹いせのつもりで「ふあぁ」とわざとらしく大きな欠伸をする。
部屋の中は暗く、光源は細く開いたカーテンから漏れ出る月の光のみ。まだまだ夜だ。──もちろん、まだ起こされるような時間ではない。
「水、きちんと確認済みですよ……」
「『確認済み』なのを確認していなかったから。恐らくそうだとは思ったが、念の為」
「……ベルザス様が、水差しをこちらにお持ちした途端に抱きついてくるからです」
「すまない。明日の朝聞く」
「もういいです。水ですね、水」
「この借りはどこかで」
「いいです別に」
文句は言い足りなかったが、さっさと仕事を済ませてしまおうとマイヤは話を切り上げて布団から這い出て身を起こす。そしてふかふかのベッドに倒れこむ前に置いておいた、ベッドサイドの銀のポットとガラスのグラスに手を伸ばした。
蔦と梟のエッチング加工がなされたグラスを手に取り、ナプキンでそれをよく磨き、曇り一つないそれにポットから水を注ぐ。次にサイドボードに置いていた革のケースをおもむろに開いた。中にはずらりと銀のカトラリーが並んでおり、夜だというのにピカピカと星のように光るそれからティースプーンを選ぶ。再びグラスを持ち、少しだけグラスを横に振って中身をティースプーンで混ぜて引き上げ、なおも輝くスプーンを確認してから香りを嗅いで口に含み、ゆっくりと味わう様に口内全体を湿らせ、ここでやっと、こくんと嚥下。
「ベルザス様、水です」
「ありがとう」
当たり前と言えば当たり前のマイヤの言葉を聞いてから、ベルザスと呼ばれた男はマイヤの手の中にあるグラスをひょいと手に取り口をつけて傾けた。ごきゅ、ごきゅ、ごきゅ、と上下する喉を眺めていると中身はすぐに空になる。
「まだお飲みになります?」
「いや、もういい」
「では、私はこれで失礼します」
「つれないな。朝までここにいてもらっても構わないのに」
「起こされなかったらこのふかふかベッドで寝させてもらってましたー」
「ここで二度寝を……」
「起こされちゃったからもう自分の部屋に帰ります。夜が明けないうちに」
会話をしながらぱきぱきと関節を鳴らして立ち上がろうとすると、後ろからぐっと抱きしめられた。石鹸と甘い肌の匂いの混ざったベルザスの香りが、鼻をくすぐる。
「ベルザス様」
やや力の籠った抱擁を咎めると、尖らせた口に唇を押しつけられる。水で湿った唇は肌と違って、ひんやりと冷たい。離れていく顔を見れば優しく柔らかく微笑んでいて。月明かりに金色の瞳が照らされて眩しい。
そんな顔されたら、何も言えない。
ふぅとマイヤは息をついて、肩甲骨まで伸びた暗褐色の髪を手櫛で梳いてから、そっと抱きしめ返す。
「……おやすみマイヤ。また明日。気をつけて」
「わかってますって。誰にも見られないように部屋まで帰ります。──あ、待って。忘れてました、ネックレス」
「おいおい、もう少し大切にしてくれよ」
「してますよ。でも寝るときはさすがに外しますもん」
そう言ってマイヤが掴んだのは細い金のチェーンのネックレス。ロケットタイプのペンダントトップは親指よりも一回り小さい蜂蜜色の石がついていて、夜の中でも澄んで輝く。
「おやすみなさいませ。ベルザス様」
蔦と梟の彫刻が為された厚い木の扉をそっと開く。うっかりするとぎしりと鳴るから注意しながら。隙間から辺りを伺い誰もいないことを確認する。
一応最後にベッドの方を向いてお辞儀をすると、ベッドの上からひらひらと手を振られた。柔和な微笑みを崩さぬままで。
この関係が、少しでも長く続きますように。
そうしてマイヤ・メレヴァイクはベルザス・グラウサヴァー・ルーデロイの部屋を辞してそろりそろりと足音を立てぬ様、自室へと戻った。