遠く懐かしの記憶
目が覚めたら、天井がいつもよりもずっとずっと高いところにあった。消毒液の清潔な匂いが辺りに満ちていて、覚えのない環境に周囲を確認しようにも頭も体も重くて身動きがとれない。
ああ、今どこかで横になっているのか。
頭が靄がかっているようでそう考えるまで時間がかかって、そしてやはりどうにも動けず、ゆっくりとまばたきをする。
「あ、目ぇ覚めた。起きれる?」
天井を見つめる視界に割り込んできたのは年のいった医者。白髭の奥から穏やかで、男性にしては高めの声がかけられる。返事をしようにも今度は口が動かない。目線だけ動かしてまたぱちぱちと、まばたきを答えの代わりにした。
ここは──医務室だろうか。感知できる匂いが徐々に増えていくが、そのどれもが薬草の匂いだ。
「あー、そうだね。だるいだろうね。……脈も今は正常だから、明日には治るんじゃない? キミ、ちょっと無茶しすぎたから後で説教ね。とりあえずキミのことすごい心配してる人がいるから呼んでくるね。待っててね」
医者は寝たきりのはずの自分に一方的にまくし立て、離れてどこかへ向かっていく。理解も追いつかないうちに足音がのしのしと遠のいていき、今度はせかせかと早い足取りが近づいてきた。
足音はまっすぐ向かってきて、自分のすぐ脇で立ち止まる。目を必死に動かして、視線がかち合った。
「無事か」
医者の代わりにやって来たのは少年と青年の境にいるような男だった。周囲がぱっと陽の当たったように明るく感じられるのは、相手が輝く金の髪に金の瞳であったからかもしれない。
「……お、かげ様で。無、事。みたいで、すね」
まだ手も足も動かせない。本当はきっと、まだ口すら動かせない状態だったに違いない。それでもなんとか掠れ声を発せたのは、目の前の相手にどうにかして憎まれ口を叩きたかったからに他ならない。
「倒れたんだ。君は、あの後私の部屋で。直後に嘔吐して、そのまま医務室へ」
「……そう、です、か」
そうだろうな、と思う。
倒れる前のその瞬間のことを覚えている。心臓が急にどくどくと拍動し始め、胃が掴まれたようにぎゅえっとなって頭がくらくらして、そして自分の体が傾いで絨毯の敷かれた床が眼前に迫ってきたことを。たぶん、そのあと倒れたんだろう。吐いたのはもう記憶の外だけれど、言われてみれば喉が灼けているような気がする。それよりも胃痛がひどい。
あーあ。吐いたのか。私は。コイツの前で。
せっかく格好良い姿で終えられると思ったのに。吐いちゃったのか。これから馬鹿にされるんだろうな。と考えるだけで胃がむかむかする。もうすでに胃はむかむかしっぱなしだけれども。
「……すまなかった」
けれども予想外にすんなりと、目の前の男から謝罪をされた。倒れる前はこの男とプライドをかけた喧嘩の真っ最中で、しかも自分は男に啖呵を切っていて、だからその後に目の前でぶっ倒れるなんて醜態、絶対に馬鹿にされると思っていたのに。
「君が生きていてよかった。今回の事態は私に責任がある。私が原因で、君は昏倒してしまった」
「……」
喧嘩を売ったのは、自分の方から。でも謝りたくなんてなかった。けれども喧嘩を引き取られて納められるのも嫌。だから無言のままでいる。
男は言葉が返ってくるのを待っていたようだったが、自分が口を開くつもりがないのに気が付いたのか「あー……」と呟き、そしてその場にしゃがみ込んだ。顔が近くなる。金の睫毛に彩られた、金の瞳が澄んで美しい。
「君は、私の下に就くのか?」
「……その、予定。でも、もう、嫌」
だんだん無理せずとも口が回るようになってきた。まだ胃は痛いし起き上がれもしないけれど。
「君を死なせてしまうところだったものな」
「みくび、らないで。死ぬ覚悟、は、できてる」
「私が、王になれないからか?」
「そ、んなこと。どーでもいー……。わたしの、仕事は、そういう仕事。でも、こんなことまで、して。あなたに、いのち、賭けたくない」
男はずっと自分のことを見ている。糾弾されているのに、しかも自分みたいな、男に比べれば塵みたいな立場に『お前』とか言われながら。そういう存在から糾弾されてもごまかすことも目を逸らすこともなく見つめ続けてくる。
「わたしは、死んでもお前のためになんか死んでやらない」
金の瞳に吸い込まれてしまいそうだ。でも自分だって目は逸らさない。
そのまま対峙して、男がゆっくりと目を閉じる。
「それもそうだな。……なあ君、私の下に就いてくれないか?」
「だから、」
お断りだと口を開きかけた瞬間に男がゆっくり目を開く。瞼で隠していたのは、金は金でも触れれば燃え尽きて灰になってしまいそうな、溶けた金みたいな瞳。熱を孕んだ金色に気圧されて思わず口を噤んでしまう。
「私は君と『約束』しよう──」
そう言うと男は自分を見つめたまま立上り、滔々と歌い上げるように『約束』を披露していく。男の動きを目で追いながら、『約束』をゆっくり咀嚼する。
「────『約束』だ。優秀な【銀の匙】の君にはその資格があり、君だからこそ頼みたい」
という言葉で男は『約束』を締め、そしてベッドの傍らに跪く。まだ動かない自分の手をとり、そして指先にキスをした。
まだはっきりとしきらない頭。ゆっくりゆっくり咀嚼し続け、時間をかけて大それた『約束』の意味を理解する。
つい先程までむかつくなんて思っていたくせに、金色の強い眼差しを見てしまったら信じてみようかなんて、そう思ってしまった。まだ体は動かないのに、唇が触れた指先が熱くてじんじんと痺れるようだ。
「君を信じて私の命を預けよう。よろしく頼む。マイヤ。マイヤ・メレヴァイク」
まばたきで返事をすると、男は大きく息を吐いて金の瞳を細めて笑った。