「自作自演」
――パシッ。
乾いた音が教室に響いた。
「歩美、また悪夢を見たんだって! おまじない全然効いてないじゃないか!」
怒鳴り声をあげているのは朱音だった。そして叩かれたのはフミだ。
「……」
フミは黙ったまま、朱音から目を逸らして歩美を見る。
「どんな悪夢だった?」
「思い出させるなよ!」
「……あっ」
「言わなくていいよ、歩美」
「いえ、お願い教えて。でないとどうにもできないわ」
「やめて!」
「――朱音ちゃんがっ!」
震えた声で歩美が叫ぶ。朱音もフミも息を飲んだ。僅かを呼吸を乱したまま、歩美は唇を震わせて言う。
「朱音……ちゃんが、し、しん……死んじゃった……」
フミは口を固く結び、腕を組んで思考する。
「生きているよ、大丈夫だよ、歩美」
「分かってるけど……」
「分かったわ。別なおまじないをあげる」
「もうおまじないはいらないよ!」
「貴女には言ってない。どう、歩美、いるの?」
歩美は少しの間逡巡して、ふるふると首を振った。
「そう。……歩美、朱音。悪夢は私がなんとかするわ」
「どうやるってのさ。え!? 具体的に、どーするんですか!?」
「悪夢を見せる根源を断てば良いのです。その間、歩美には夢を見なくなるおまじないをあげたかったのだけれど」
歩美はハッと顔を上げて、それが欲しい、と声を挙げるより先に朱音が怒鳴り声をあげる。
「意味わかんない! できるわけないでしょ!?」
アヤは教室に入れずに居たが、朱音が歩美を席に半ば強引に連れ戻ったのを見て、こっそりと教室に入った。
机にランドセルとその中身をしまって、朱音と歩美の様子を横目に見ながら、フミの元へと向かう。
「フミちゃん、大丈夫?」
フミの顔にいつもの笑みはなく、返事もせず腕を組み右手の人差し指で唇をいじっている。深く思考に耽っているのが見て取れた。
「おまじない、効かなかったんだ」
「効いていたはずよ。だってあの遊園地に歩美は居たのだもの」
「え、気づかなかっ……そうだ、居るって言ってたね」
「……となると」
予鈴が鳴る。となると、の先を聞きたかったが、アヤは名残惜しさを心の奥へ押し込み、席へと戻る。
三時間目が終わり、十分休憩が挟まる。
フミが教室から出て行くのが見えて、アヤは急いで四時間目の授業で使う教科書とノートを机の上に出してから、後を追いかける。
フミは階段を駆け上がって、人気の無い最上階の踊り場で足を止める。そして、小声だったがハッキリと名を呼ぶ。
「まお」
僅かな間を置いて、にゃあ、という短い鳴き声が、積み上げられた予備の机の影から聞こえる。そして頭だけにゅっ、とモグラの様に顔を覗かせる。
「呼んだ?」
「ええ。悪夢を見せる妖怪に心当たりは無いかしら」
「唐突だなぁ。いくつか思い当たるけど、どんな夢を見せるタイプ?」
「親しい人間が死ぬ夢を見せるタイプ」
「イタズラにしては質が悪い悪戯だね。何、昨日の話?」
「そうよ」
「ああ。それね、僕見てたんだけど――今、僕が見られてるね」
フミは振り返る。そこには、すっかり声をかけるタイミングを逃したアヤが呆然と立ち尽くしていた。
「……フミちゃん、誰と話してるの?」
「はぁ」
フミは乱暴に頭を掻いて、その後手櫛で治し、影に手を突っ込んでまおを引っ張り上げた。
「これよ」
まおは表情を変えず、にゃ、と鳴いて挨拶をする。言葉の挨拶は鳴き声と共にテレビの副音声のように伝わる。
「やあ」
沈黙が流れた。アヤは口をあんぐり開けて固まった。まおが喋るのは夢の中だからだと納得していたのに、現実で普通に喋っている今の状況に、頭が混乱している。
「……っ」
アヤは口を手で押さえる。そうでもしないと声を挙げてしまいそうだった。
「アヤは当事者だから問題ないとして、見てたのなら話してちょうだい」
「あの時、歩美ちゃんは朱音ちゃんと一緒に遊園地で遊んでいたんだ。で、朱音ちゃんは他の友達を見つけた。歩美ちゃんを置いてその子達に駆け寄った瞬間、その場にバッタリ倒れた。糸が切れた人形みたいにね」
「友達を見つけて……糸が切れた……」
「だから原因は僕にもわかんにゃい」
「悪夢を見せる類の妖怪の仕業だと思う?」
「そういう奴は幽霊と同じく枕元に立ってから夢にお邪魔するのが基本さ。けれど君の魔法陣が作用している以上、阿呆な奴でもない限り魔除けを警戒して近づかないはず。ま、夢の中で活動してるヤツの可能性も無きにしも非ずだけどね。ふらっと現れた獏の仕業かもしれない」
「獏は悪夢払いの方でしょ」
「僕は無差別に夢を食い荒らす害獣だって聞いたけど。生ごみの袋を突っつく鴉みたいな」
「どっちでもいいけれど、妖怪の仕業ではないのね」
「真っ先に妖怪を疑うなんて、流石に風評被害というか短絡的というか。……ま、どっちかと言えば悪魔的な仕業だよね?」
「悪かったわよ。……悪魔的、ね。ナイトメアが湧いたのかしら」
「何そのちょっとカッコつけたような名前。夢が俺にもっと悪夢を見せろと囁くの?」
「言い得て妙ね。アレが相手となるとかなり厄介」
授業開始のチャイムが鳴る。フミはまおを離して、まおは素早く机の影に水面の如く飛び込んだ。
「ほらアヤ、行くわよ」
「もう私着いていけないよ」
「授業には着いて行かなきゃでしょ」
アヤは混乱する頭を振って、急いで教室へと戻る。
昼休みにフミは新しい魔法陣を描き、短い手紙と一緒に歩美の机に入れた。
そしてずっと、メモパッドに色々な魔法陣を描いては一考し、違う、と呟いて紙を新しくしてまた描く。それを繰り返していた。アヤは今日ばかりは声をかける事ができず、自分の席から時々フミの様子を見て寂しさを誤魔化した。
放課後、フミは悪い報告をするときの先生のような、陰の差した真剣な面持ちでアヤに魔法陣の描かれた紙を渡した。
「これは、夢を見なくなる魔法陣よ」
「……今日は一緒に遊園地に行けないってこと?」
「ええ。早急にナイトメアを見つけないといけないの」
「私も手伝うよ。だって……私だって歩美ちゃんを助けたい」
「アヤ……」
フミは逡巡した後、魔法陣の描かれた紙を引っ込める。
「……人手が多い方が助かる。でも危険すぎる」
「どう、危険なの? だって夢でしょ。フミちゃんが手を叩けば目覚められるんでしょ?」
「ナイトメアの力次第では、目覚めを妨害されるかもしれないの。そうなったら二度と目覚められ――」
その言葉を聞いて、普通ならば躊躇うものだ。しかしアヤは迷い無く言葉を発し、フミの言葉を遮る。
「――二度と目覚められなくったっていい。別に、お父さんもお母さんも誰も心配しないし」
「そんな」
「いいの、本当に気にしないで」
「気にするわ。だって貴女のお父様とお母様でしょう? 貴女に何かあった時、私は」
「ホント気にしないで。私がフミちゃんに協力したいの、友達として」
アヤは引き下がらない。その目は真っ直ぐだが、奥に、黒く濁った物を魔女は感じ取る。
「……友達に依存するような子は、危うくて連れていけないわ」
依存、その言葉をアヤは小さく反芻する。フミはほんの刹那、目線が右下に動く。
「両親と上手くいっていないのでしょう」
アヤは眉を顰める。図星を突かれ、一瞬言葉を詰まらせ、語気が強くなる。
「それとこれとは関係ないじゃん。私は友達同士の話をしているの!」
「いいえ、これは「ただの女の子」には関係の無い話よ。ましてや「心が弱っている子」なんてもっての他」
アヤはとうとう、言葉を失った。
そうだ、フミは――魔女は、友達だと思っていた彼女は、自分達「普通の子供達」とは違う。彼女がそういう普通の子供では対処できない事に挑もうとしている、そして普通の子供、否、普通よりも数段劣る自分では、彼女の役に立つはずなどないのだ。
それでも頼って欲しかった、頼られない自分への苛立ちが、目に涙として溜まるのを感じる。酷く自分勝手な感情だが、アヤは処理する事ができず、ぶつけてしまう。
「……友達だと、おもったのに……違ったの……?」
アヤは感情を投げつけて、駆け足でその場を去る。その背を、魔女はただ見送った。「友達だから、なんだけど」とぽつりと呟いて、近くのラーメン屋と民家の間にあった路地へと入り、まおを呼んだ。
「聞いてたよ。友情を育むのに喧嘩は欠かせない。見てるこっちも面白くていいね」
まおは室外機の上で丸くなっていた。尻尾を振って、言葉の端々にニヤケ面を連想させる。
「喧嘩じゃないし。私が一方的に突き放したの」
ふしゃ、という鳴き声は失笑。
「そうかい。仲直りが大変そうだね。ま、面白そうだからうまくやってね」
「それよりも今すぐ家に帰して」
「はいはい。そこのドアからどうぞ」
まおは尻尾で室外機横のラーメン屋の勝手口を指す。魔女は一瞬躊躇って、まおに疑いの目を向けると、まおは欠伸をした。意を決し勝手口をゆっくりと開けると、そこは自宅、フミの家の玄関だった。
アヤは家に帰ってからずっと、部屋に閉じこもっていた。
明日、私から謝らなきゃ。そう思えるようなったのは19時を周る頃だった。ずっと裏切られたという気持ちが強くて、本当は友達だと思われてなかったんだ、だから魔女さんは私を拒絶して……親の事は、本当の事だ。例え今、アヤが自殺しても数日、あるいは一週間以上気づかないと確信を持てる。だって。
「――ァァックソッ!!」
何かが壁にぶつかる音が響いてくる。
たまに、最悪のタイミングが重なる日がある。それは月に一度や二度、酷いと毎週だ。
母は連休が取れるとどこかに遊びに出掛ける。その間は禄に自炊できない父親とアヤが二人だけになる。そしてその間、父はカップラーメンを食べる惨めな自分の姿に苛立ち、物に当たり始めるのだ。そして翌日が仕事であってもお構いなしに酒を飲み暴れ出す。
父は酒に酔うと、昔の話ばかりする。そしてテレビが点いていればテレビ番組に、アヤが居ればアヤにグチグチと汚い話をし続ける。母は父が酒を用意しだすと、アヤを置いてすぐにどこかに出かけてしまう。アヤに採れる選択肢は、黙って父親の愚痴を時に暴力にジッと耐えるか、部屋に逃げ込んで古くて頼りない鍵を掛けて布団に逃げ込むことだけ。家から逃げ出したいけれど、夜の街にアヤが頼れる宛はない。
ガンッ、ガッ、ガッ。枕の下には魔女がくれた魔法陣を敷いてある。けれど、暴力と暴言の嵐がうるさくて眠る事ができない。ガチャンッ、食器だろうか、陶器が割れる音のすぐ後に怒声が轟く。
インターホンが鳴った。父親の足音はドガドガと暴力的で、耳を塞いだ程度じゃ逃れる事はできない。
玄関が開く音、隣の部屋の人だろうか、なにやらボソボソと喋った後、ドアを拳で叩いたのか大きな音が響く。
「うるっせぇなぁ、俺ぁ家賃も税金も学費も何もかも全部払ってんだぞ文句あんのかオイ! ……警察だ? 呼べよ、おい! 呼んでみろよほら、警察もてめぇもぶっ殺してやっかんな! てめぇの家族もな! 呼べよ、逃げんなおい、ハゲ! 戻って来い!」
実際、警察は何度か来ている。だが一度だって、父が逮捕されたことは無い。だからこそ調子に乗ってあんな事を言い続けている。隣人は帰ったようで、父はドアを閉めて、アヤの部屋のドアを乱暴に殴った。
「おい、起きてんだろ。起きろーーーーーー! 俺が呼んでるんだ起きろおい!」
「…………」
「隣の佐藤んとこ行って、相手してやれ。一晩いいなりになってやれば、もう警察呼ぶとか言わねぇはずだ!」
「…………」
「おい!」
もう一度、ドアが乱暴に叩かれる。
「あのハゲのしゃぶって慰めてやれ! 役に立たねぇガキなんだからせめて親の為に身体使ってご機嫌取って来いっつってんだ! 聞けねぇのか! 誰のおかげで生活できてんだあぁ!? おい! 出てこい! ちったぁ親孝行の一つもしてみろよ! 俺が小学生の時なんかてめぇよりずっと親にも社会にも役に立ってたんだぞ! この、親不孝者が……ぜぇ、ぜぇ…………ちっ、覚悟しとけよ……あぁクソッ」
アヤは布団を深くかぶって、深呼吸をする。魔女の言葉を思い出して、歩美を眠らせようとした魔女の呼吸を思い出して―――ようやく父が静かになった事もあって、眠りにつくことができた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
パステルカラーで彩られた遊園地は、昨晩の騒ぎが嘘のようにいつも通りの楽しい遊園地に戻っていた。
アヤは観覧車の所まで歩きながら、昨晩、悲鳴が上がった場所を見てみる。何もなく、薄い桃色のレンガが敷き詰められた地面があるだけだ。周りを見渡してみても、歩美の姿も、魔女の姿もない。
独りぼっち、そう自覚した途端、遊園地は色あせていく。みんな楽しそう、みんなにはパステルカラーの可愛い遊園地が見えている。なのにアヤには全てが白黒で、自分だけがこの世界で異質な存在なのだと強く思い込んでしまう。
一緒に楽しんでくれる友達も、家族も、誰もいない。ここにも居場所は無い。どこかに逃げ出したい。けど、アヤにはどうすれば他の夢に行けるのか分からない。遊園地の隅で、夢から覚める十五分を待つことにした。
ふと、地面に落ちた滴に気づいた。そしてそれが、自分の目から滴り落ちていることに。
でも、それがどうしたというのだろう。アヤが泣いている事は、この夢には何の関係も無い。例え現実に戻ろうと同じことだ。たった一人が泣いていることなど、世界にはなんの影響もない。その事がアヤは分かっている、どれだけ辛くても泣かない。泣けば殴られた。泣くことはいけないことなんだ。
思えば思うだけ、苦しみと悲しみは増すばかり。やがて身体の奥から嗚咽が漏れ、嗚咽を堪えようとその場に蹲った。
「……ぅ、うう……! ……フミ、ちゃん。魔女さん……っ……会いたい……ごめん、なさい……」
ボロボロと、涙と想いが溢れるのを止められない。だからせめて声だけは抑える。
「あのぅ」
アヤは全身を震わせた。おそるおそる顔を上げると、そこには虹のレースで縁どられ、キラキラのラメが散りばめられた薄紫のドレスを身に纏った黒髪の少女が、心配そうな面持ちでアヤに手を差し伸べていた。
「どうなさったの? どうしてそんなに苦しそうなの?」
「…………」
アヤは言葉が出ない。
「まぁ、喋れないの? ええと、困ったわ。立てるかしら」
少女は膝を付いて、アヤの身体に触れる。少女の手から温もりを感じた直後。
「あっ……!」
アヤは少女に抱き縋った。
「……た、すっ、たすけて……こわいよぉ!」
少女の身体から温もりを借りて、アヤはようやく助けを求める事ができた。少女はしばし驚いて目をパチクリさせていたが、かつて自分が母親にそうしてもらったように、アヤの頭を背中を撫でる。
「ここには何も怖いものはないわ。だって、見てごらん」
少女が撫でる手を止め、指を指す。アヤは目から溢れる涙を袖で拭って、指された方を見る。
さっきまで白黒だった世界は再び色を取り戻していた。自分が異質であるという感覚は消え失せ、夢が持つ雰囲気がアヤの心に温もりを思い出させていく。
「こんなに素敵な遊園地で、泣いているなんてもったいないわ。そうだ!」
少女は首から下げていた懐中時計モチーフのポーチから、一枚の手書きのチケットを取り出した。
「これからお茶会を開きましょう! はい、招待状」
「お、お茶会……?」
チケットを受け取ると、どこからかカチカチカチ、と倍速した時計の音が聞こえてアヤは辺りを見渡した。
時計は見つからず、視線を戻すと少女が首を傾げていた。
「どうかなさって?」
「あ、うんと……時計の音が」
「時間なんて気にしなくていいの。お茶会をしている間はウサギさんが時を止めてくれるのよ」
少女は背中に背負っていたウサギのぬいぐるみを下ろし、アヤに見せて微笑んだ。
「時間はいくらでもあるわ。あなたがもう大丈夫と思えるまで、ずっとずぅっと、貴女の事がだーい好きなうさぎさんや妖精さん達と一緒に、あまーいお菓子と暖かい紅茶で癒されていって」
少女はウサギを小脇に抱え、もう片方の手をアヤに差し出す。アヤがその手を取るのに、迷いはなかった。
「私はアリス。あなたは?」
「あ。……アヤ」
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
つばの広い三角帽子を被った魔女は黒猫と共に、都会のビル街を歩く。
スーツを着た人影がゆらりゆらりと、行列のように歩道を歩いてく。
「これはどんな夢?」
まおは魔女と並走しながら、特に興味は無いが話題として質問する。
「都会、かしらね。高い高層ビル群の下で、働き蟻達が行進する、ってところかしら。夢の主は、多分どこかのビルの展望フロアでシャンパンでも嗜んでいるんじゃないかしら」
「ふぅむ。日差しの暑さを感じないのが救いか。これで真夏の炎天下だったら死ぬね」
照り付ける日差しと、その日差しを反射するコンクリートの地面。気分は暑く感じるが、実際には快適な温度だ。
「アナタも熱中症になるの?」
「うんにゃ。ならにゃい」
まおは、ふしゃ、と短い欠伸かくしゃみか分からないような声に乗せて、にゃはは、と笑う。
「ふぅ、これで三つ目の夢だけど、やっぱりすぐには見つからないわね」
「他に手は無いのかい? 魔法とやらで探知できないの?」
「手がかり無しでは無理」
魔女はコンビニエンスストアに入り、バックヤードの扉に、手帳から取り出した魔法陣の描かれた紙を当て、魔法陣を指で軽くなでる。魔法陣が短く煌めいたのを見て、紙を手帳に戻して、ドアノブを回し、ドアを開けた。
その先は、ボロボロの子供部屋だった。窓ガラスは教室の窓と同じく他の夢へと繋がるゲートになっているようだ。
「おや、これは。他人のアルバムって面白いよね〜」
フミが次の夢をイメージして行き先を固定する間、まおは姿を変え、三角帽子を被っていないフミの姿を取って荒んだ部屋の中を調べる。アルバムにはおそらくこの部屋の子供の、幼稚園入園から成人するまで間の写真が収められていた。
「ねぇ、この写真の子さ、ちょっとアヤに似てない?」
「……うるさいわねぇ。イメージが定まらないでしょ……あら、本当ね」
見せられた写真の少年の、特に目元がアヤに似ている。最も写真の少年の顔は明るく、どうやらスポーツ大会で優勝したり、図工の作品で何度も表彰されたことがあるようだ。中学時代はテニス部でエースだったらしく、テニスをしているの写真が多い。一ページ丸々優勝トロフィーを掲げる写真が載っている。
しかし、高校からいきなり写真が少なくなる。無理矢理剥がされたような跡があった。最後のページに貼られていた成人式の写真は、大人になった少年が一人で写っていた。表情は無く、目も死んでいる。
「中学時代で黄金期が終わったタイプの人だね。こういう人が思い出に縋ってると哀れだよねぇ。ごはんがマズくなる」
「黄金期なんて、周期的なものなのだからまたすぐに来るわよ。ただ、最初に良い経験ばかりすると後が辛くなるのは事実ね。流れが良くなっていても気づかなかったりして。この子、強く生きているといいけれど」
「君ってさぁ」
まおはフミが返したアルバムを受け取って元の場所に戻す。フミはまたイメージを固める為窓に向き合う。
「なんかやけに子供に優しいよね。そういう趣味なの?」
「……」
フミは答えず、公園のイメージを固める。窓には薄暗い朝方の公園が映し出された。
「別に。気が向いたら誰でも助けるわ。大人でも子供でもね」
「別にそういう事は聞いてないんだなぁ。君がそういう境遇だったの? って聞いたんだ」
フミは窓を開けて、窓を潜る。まおは猫に戻りながら窓に飛び込んだ。
ひんやりとした朝方の風が吹く公園に、人気はない。
「別にそういう境遇じゃなかったけど? アンタこそどうなの?」
振り返ってみると、そこは公衆トイレの女子トイレ側の入口だった。フミはとりあえず、目の前に伸びているランニングコースを歩いてみることにした。
「べ〜つに〜?」
「ムカつく奴ね」
にゃはは、とまおは笑ってフミの後ろに着いて行く。
しばらく歩いているとベンチが見えて、一休みしようと近くまで行く。
「あら、これは」
ベンチの上には、何かのチケットの半券が落ちていた。
「なにそれ」
「私がラッキーガールという証明」
フミは表に書かれた『人の不幸は蜜の味〜Nightmare movies〜』の題字をまおに見せる。
「うわぁ、悪趣味。でも好き」
「でしょうね」
「で、それは半券でしょ。それじゃあ映画は観れないね」
「でも上映場所は探せるわ」
「窓から映画館の夢に行くの?」
「いえ、どうやらチケットを持つ人だけが入れる、特別な上映会が催されたみたいなのよね。その場所を突き止めないと」
「半券があれば、魔法で探せるとか?」
「その通り」
フミはニヤリと笑い、ベンチに腰掛けて半券を手帳に挟んで懐中時計を取り出す。そしてゼンマイを巻き始めた。
「巻くとどうなるの、っと」
まおがベンチに飛び乗って、フミを見上げて、なぁ、と鳴いた。
「夢を探索する時間を延長するの」
「ふぅん。今晩で決着着けちゃうつもり?」
「可能なら、早い方がいいわ」
「君って割と自己犠牲の精神の持ち主なんだねぇ」
「ホント、自分でも呆れるわ。十五分制限ていうのは、精神体が肉体に戻る時、精神体からの情報が肉体にかかる負荷が大きくなり過ぎないように設けたの。それを延長するって事は、最低でも頭痛は確定よ」
「マゾいなぁ」
「アンタは別に起きてもいいのよ」
「冗談。僕は面白そうな事が大好きなんだ。特に君がミスした時、側に居れば笑ってあげられる」
「最低な趣味」
「んじゃあ、せいぜいミスしない事だね。さて、魔法を見せておくれ。観客は待ちかねているよ」
フミはゼンマイを巻き終え、時間が最初から刻み始めた事を確認して懐中時計をしまう。そして手帳から半券を取り出し、指で題字をなぞる。
「――数多の夢の星々、来たれ一星、その名は――」
魔女の座っていたベンチの下に、突如ぽっかりと大穴が空いた。まおは咄嗟に跳んで地面にたどり着いたが、フミは反応が遅れてベンチと共に暗闇の中へ落下する。
「ちょっ、まぁおぉぉーーーーーーーーーーーー!!!!!」
魔女の叫びはどんどん遠くなって小さくなっていく、穴もそれに合わせて小さくなっていく。
「いやぁ、危なかったなぁ」
まおは落ちていった魔女の事など気にする様子も無く、ぐっ、伸びをする。ふと、側に降り立った気配の方を向く。
長いシルクハットを被って、その身を紺の燕尾服で包み、顔の半分を金縁のファントムマスクで隠した青年が、シルクハットを取って、穴を覗きながら言う。
「ズルする悪い子には、悪夢を見せてあげよう」
「ねぇ、彼女に見せる悪夢は僕も見れる? ぜひ特等席で観たい」
「もちろんさ。さぁ、シルクハットに入って」
青年はしゃがんで、まおにシルクハットの内側を向ける。
「その前に、どんな映画をやるんだい?」
「そうだねぇ」
青年は顎に手を当て一考する。それほど掛からず思いついたらしく、指を弾いて言う。
「魔女の過去はそれだけで不幸の塊だろうね。そこをほじくり返したらさぞ面白いと思わないか?」
「むっちゃ惹かれるね。ふむ、君がナイトメアか」
ナイトメアは驚いた様子も無く、胸に手を当てお辞儀する。
「稀代の天災悪夢演出家「ナイトメア」。どうぞお見知りおきを、君は……正体不明のUMA君だね」
「そうさ、僕は正体不明の怪物。それだけで十分。それよりも、僕の席にはソルトとキャラメルのポップコーンをたんまり用意しておいてね。ジュースはオレンジがいいな。席はもちろんふかふかな奴ね」
「請求は全部魔女さん宛に、だね?」
まおは目を細めて尻尾をぴーんと立てて、ごろにゃぁ、と正しく猫撫で声を発する。
「君、だーいすき♪」
「あっはは、嬉しいなぁ。まぁ請求なんて無いんだけどね」
まおはシルクハットの中へ入って行った。まおが通ったのを確認して、ナイトメアはシルクハットを天に放る。するとシルクハットはナイトメアをすっぽり収める程大きくなって、ナイトメアの全身に被さった。シルクハットは小さくなって、最後にはポン、と音を立てて煙になって消えた。直後、公園も泡となって消え去った。
磁石のS極とN極が反発するように、フミは地面――辺りは真っ暗で何も見えないが、地面だけはスポットライトで照らされているかのように丸く木目の床がある――すれすれで浮き留まる。ほぅ、と息を吐いて逆さまの姿勢を直す。
「助けてくれてもいいじゃないのよ……自分だけさっさと逃げ出すのねアイツ」
ぼやきながら、床に足を着けて魔法を解く。遅れて頭上からふわふわと三角帽子が降ってきて、それを被る。
見渡すまでも無く辺りは真っ暗で、フミはとりあえず腕を組んだ。ここがどこなのか、という疑問にはすぐに、ナイトメアに目を付けられて先手を打たれた、と自答して、視線を足元の木目の床の先、暗闇に落とす。
右手を広げ意識を集中させ、丸い氷の塊を生成し、掌に乗せる。しゃがんで氷の塊を地面に転がすと、コロコロと転がっていき暗闇の中に床が続いている事が示される。左手を振って、ハンカチを呼び出し右手を拭いて、一先ず真っ直ぐ歩いてみる事にする。
自分の姿はハッキリ見えているのに床も壁も天井も見えない。夢の世界なのだから、これくらいの奇妙な事は起こり得るが、いかんせん抜け出す方法が見出せない。壁にでもぶつかれば、それこそチャンスなのだが。壁の先に光がある事を一瞬でも信じられる。フミは今は、そういう気休めが欲しい気分だった。
なまじナイトメアの罠であると考えるが故、ここで目覚めるのは敗北を認めるようで癪に障る。今の状況をどこかで楽しんでいるのかもしれない、そう思うだけでも苛立ちが募る。
しばらく歩いた所で、もう一度氷を生成し床に転がす。今度は二メートル程進んだ所で、何かにぶつかって氷が割れた。
「ん?」
手を前に出して、おそるおそる進んでいく。何か、に触れた瞬間、バッとスポットライトが照らす。
フミはため息を吐いた。
「はぁ……本当、アヤを連れてこなくてよかったわ。まおが居ればよかったのに」
そこにあったのは拷問器具――電気椅子だった。
よくよく観察してみると、電流を流して苦痛や死を与えたりするものではない事が分かった。頭に着ける電極パットのケーブルは、電気椅子の前にあったプロジェクタに繋がっている。試しにプロジェクタを蹴ってみたが、地面に固定されているようでびくともしない。爆破してみようかとも考えたが、フミは思い止まる。
「ここは、ナイトメアの中。つまりは」
ナイトメアの狙いに見当がついた。狙いは「魔女の記憶」だ。嫌な記憶を思い出させる、陰湿な悪夢を見せに来たのだと推理する。
フミは電気椅子に座り、帽子を脱いで電極パットを頭に着ける。誘導されるがまま、というのは良い気分ではないが、選択肢は他にない。
「乗ってあげましょう」
内心の不安を、顔に不敵の笑みを浮かべる事で覆い隠す。何が来ようと魔法で対処できる、自信だけが頼りだ。
ピッ、というビープ音の後プロジェクタが起動し、壁に真っ白な映像が映る。フミは目を閉じ、少しだけ昔の事を思い出す。
プロジェクタが映像を再生し始める。
真っ赤な曼珠沙華が両脇に咲き乱れ、間の道を歩いている一人称の映像。少しして、曲がり道の先から黒猫が歩いてくるのが見えた。一人称の主は声をかけた。
『こんばんは黒猫さん』
フミとは違い、ややハスキーな声を受けて、黒猫は、にゃあ、と鳴く。そして副音声の様に言葉が伝わる。
『やぁ、はじめまして。三角帽子から察するに、魔女、かな?』
『ええ、お散歩中の魔女よ』
『僕が喋っても驚かないところを見るに、不思議には慣れっこなんだね』
『こんな場所を散歩していればしゃべる猫の一匹、出会う事もあるでしょう』
『違いない』
二人は同時に笑い、魔女が咳払いをして質問する。
『ところで、少し先で倒れている女の子はアナタのご主人様かしら』
黒猫が歩いて来た道の先に、女の子が倒れ伏している。ぴくりとも動かない。
『その娘。可哀想な事に、死神にヤラレチャッタのさ。魂を失って、肉体はもうただの抜け殻。僕には連れて帰るだけの力は無いから、ご愁傷さまという事で僕一人で寂しく家に帰るところ』
『ずいぶん冷たいのね』
『死人はごはんをくれないからね』
『じゃあ、貰ってもよろしくて?』
『やっぱり魔女は子供を煮て食べるのかい?』
『カニバリズムは趣味でなくてよ。彼女位の年齢の子は魔女にしやすい』
黒猫は道を譲り、魔女は女の子の元へと歩きながら、懐から鳥かごのミニチュアを取り出す。
『ちちんぷいぷい、大きくなぁれ』
魔女は唱える必要のない呪文を大袈裟に唱えて、ミニチュアを女の子の奥に投げる。ミニチュアはみるみる大きくなり、ガコン、と鈍い音と共に少女が入れる程の大きさになる。
『わぁすごい。女児誘拐だ、こわいなー』
『人間の法で裁かれる前に、助けて返してあげれば良いのです』
『助けるだって? 魂を失ったんだよ? 死神に頂かれちゃったの、僕見てたんだ』
『なんでアナタは無事なのかしら』
魔女の言葉は酷く冷たかった。黒猫はくすりと笑って声色一つ変えず答える。
『さぁ。どうでもいいからわかんにゃい』
『助けようともしなかったのね』
女の子を抱きかかえ、鳥かごに入れる。今度は大袈裟な呪文は唱えず鳥かごを撫でるだけで、少女を入れたまま鳥かごはミニチュアサイズに戻る。
『だって死にたくないし。別にその子が死んだってどうでもいいし。僕に餌をくれるのは、今はその子の父親だ。娘を失って後を追うなら、僕は次の「餌をくれる人」を探すだけさ』
『最低ね』
『そうかな。僕に利益がある人とだけ付き合っているだけだよ』
『へぇ』
魔女は軽蔑の眼差しをまおに向けたまま、ミニチュアを懐にしまって、来た道を戻る。
『ならなんで、この子に付き合っていたの? それと、なんで着いてくるの?』
『そのどちらも「面白そう」だからさ。お腹は減ってないからね、今は娯楽を求めてるんだ』
『最高のエンターテイメントだったでしょうね』
『その続編がすぐに始まってくれて、わくわくしてる』
画面にノイズが走り、場面が切り替わる。
円形の部屋の中。中央でぐつぐつ煮えている巨釜から、赤く発光するクラゲがゆっくりと宙に飛び出す。部屋の灯りは、壁に掛かった蝋燭の入ったランプとそのクラゲ。光の弱ったクラゲは巣に帰るように、巨釜へと戻って行く。
巨大なサルノコシカケのベッドに横たわっていた女の子――フミが目を覚ます。徐に瞼を開け定まらない焦点を、瞬きを繰り返して合わせる。
そのベッドに寄りかかっていた、桃色のナイトキャップを被った女性が伸びをして、立ち上がりながらフミを見る。
『んー……っ。さて、どう?』
フミは、ナイトキャップを被った女性を一瞥すると、ふっ、と笑みを浮かべて言う。
『成功よ』
女性はナイトキャップを脱いで、ボサボサの頭を掻いた。
『良かった。これでまた仲間が増えたわ』
『魔女はこうして増えていくんだね』
黒猫がベッドに飛び上がる。フミに向かって、にゃあ、と鳴く。
『やぁ、文ちゃん』
『それがこの子の名前なのね』
『演技ではなさそう。「白沢 文」それが君の名だよ』
『メアリー・スゥと名乗るより、ずっと普通ね』
『本名?』
『この世界じゃ笑われるけれど』
『にゃはは、「非現実的な理想の存在」と自分で言えばそりゃあね』
フミも女性――メアリーも、肩をすくめた。
『ともかく、これでフミという少女は魔女となって蘇った。じゃあ後は連れて帰ってちょうだい?』
化粧台から櫛を取って自分の髪を整え、メアリーは別な櫛をフミに渡す。
『そうだね。もう夜が明ける。フミちゃんは学校に行かなきゃいけない』
フミは、えっ、と声を挙げる。
『学校? 待って、私フミちゃんて知らないんだけど』
『ぼっちちゃんだから気にしなくていいよ』
『そうなの。この子は……ん?』
フミは櫛を動かす手を止め、黒猫を見つめる。
『照れるにゃあ』
『よく考えてみれば、アナタ妖怪なのね?』
黒猫は欠伸をして答える。
『ふぁ……まぁね』
『この子は霊感が強いとか、そういう類の子なのかしら』
『幽霊を視れる程度には強い。しかしその程度、とも言える』
『ふむ。友達がいないのも納得だわ。それに……』
フミは櫛をメアリーに返し、伸ばした手を胸に当てる。
『強い未練が残ってる』
『食べ残しかな』
『意地汚い言い方しないの。……霊道に居たって事は、誰かに……母親に会いたかった?』
メアリーは椅子を用意して座り、脚と腕を組んだ。
『なるほどね、霊道を通って「あの世」に行こうとしたのか』
『そんな入れ知恵をしたのは、まお、アンタね』
『僕名乗ったかな。まぁそうだけど』
フミの身体が、まおの名を覚えていた。今はまだ記憶が曖昧で、まおの名前位しか「白沢 文」の記憶は思い出せていない。
『なんてことをしたのよ。霊道を通って会いに行かせるなんて危険だと思うでしょう』
『だって会いたいって言うんだ。僕はそういう方法もあるよ、と言っただけさ。実行したのはフミちゃんだ』
『…………』
最低、と言ってしまいたかったが、この妖怪はこれまでずっとこうして生きてきたのだろう、言うだけ労力の無駄であることは明白で、フミもメアリーも言葉を飲み込んだ。
『それじゃ、学生ごっこでもしてきましょうかね』
『何か困ったら、訪ねていらっしゃい』
『場所がわからないわ』
『後で一つ目フクロウで地図を送る』
『頼れるのは自分だけ、って感じだね』
フミとメアリーは揃って、まおを睨む。まおは首を傾げてすっ呆けた。
「魔女、メアリー・スゥ」
魔女は名前を呼ばれ、目を開ける。目の前には顔の半分をピエロの仮面で隠した燕尾服の男が立っていた。
「こんなほのぼのした話は誰も望んでいない。貴様の、苦しかったあの頃を思い出せ」
「…………」
「覚えていないのか?」
「…………ほら」
魔女が顎で映像を指す。男は振り返り、その顔に喜色を浮かべる。
中世の小さな田舎町、そこの広場に作られた絞首台。今にも振り出しそうな曇天を見上げる少女と、その両脇に男と女が、皆一様に傷だらけの身体にボロを着て、手を後ろで縛られて立っている。立派な髭を蓄え、恰幅の良い男が金の指輪をした指を三人に向け、仰々しく言う。
『――スゥ侯爵は、自身の娘が悪魔の力を持っていた事を十二年もの間隠していた! これは長きに渡る隣国との戦争に疲弊した我らラズ王国に対し、謀反を企てていた事に他ならぬ! 娘の力を手土産に隣国へと寝返るつもりだったのだ!』
絞首台の周りに集まった聴衆は、誰一人言葉を発しない。この映像の主は、最前列で母親の後ろに隠れて見ていた。
少女は曇天から、映像の主へと目線を下げる。
『今ここに死を持って! 悪魔の娘と、その力を利用せんとした逆賊に制裁を!』
鎧に身を包んだ兵士たちが、男に、女に、そして少女の首に縄をかける。
映像の主の嗚咽が聞こえる。映像は潤むが、それでも目を逸らさない。
兵士たちが絞首台から降り、恰幅の良い男は剣を抜き、絞首台の下にある赤く染められた縄に刀身を当てる。そして思い切り振り被り――――振り下ろした。縄が切られると同時に、落とし戸が開き三人は吊るされた。
息を飲む聴衆、堪えきれず声を挙げ涙を流す者も出た。映像の主は瞬きを忘れ、ただ呆然と荒い息のまま少女を見つめていた。
『……メアリー……』
喉からひり出すような声は嗚咽にちかく。ようやく映像の主の母は、娘を抱きしめる。
「そうだ。これでいい! もっと他に、悲劇を持っているだろう!?」
男はフミに詰め寄る。フミは、ふっ、と笑った。
「もう終わりよ、ナイトメア」
その言葉の直後、プロジェクタに異変が起こる。映像と音が乱れだし、ナイトメアが振り返った所でプツッ、と電源が切れた。そして爆発した。
「保証期間中だといいけれど」
フミは電極パットを外し、指を鳴らす。その場に穴が空いて、ナイトメア共々落下する。
「さぁて、人の記憶をタダで観れると思って?」
ナイトメアが落ちた先はホストクラブのVIP席。そしてシャンパンタワーの真上に落下した。悲鳴と驚嘆の声が挙がる。
「誰よこいつ!?」
顔の無いのっぺらぼう達の中、唯一顔のある女性が逃げ出しながら叫ぶように言った。その様を横目に、ナイトメアはなんとかバランスを取ってシャンパンタワーのテーブルから転がり落ちる。
「…………痛ぅ、へへ、結果的に悪夢になってよか――!?」
壁と魚の居ない水槽をぶち破って、巨大な手がナイトメアをわしづかみ、引っ張り出した。赤ん坊が指をくわえている前に差し出される。手の主を見ると、ニヤリと笑った巨大なフミだった。
「この子と遊ぶ?」
フミが赤ん坊に尋ねると、赤ん坊は満面の笑みで手を伸ばした。ナイトメアは狼狽え、フミの手を力いっぱい叩きながら赤ん坊に啖呵を切る。
「おいやめろ不細工! 口の中に入れてみろ!? リナちゃん人形みたいに苦いぞ、俺は!?」
「だーう、あー」
赤ん坊は口を大きく開け、フミは容赦なくそこにナイトメアを放り投げた。ナイトメアは咄嗟に体を丸め、目をつぶった。赤ん坊はごくん、と飲み込んだ。あまりの苦さに泣きだし、泣き声を聞きつけた母親が部屋に入ってきた。魔女はすでにいなかった。
「うわぁぁあぁぁ――!?」
ナイトメアが目を開けると、そこは雲の上だった。ナイトメアの半分だけの仮面が外れ、手足をバタバタさせたまま、厚い薄ピンクの綿あめのような雲に突っ込んだ。
「――そう。お友達に拒絶されて辛かったのね」
パステルカラーの遊園地、その城のテラスでお茶会が催されていた。親子連れ、仲のいい友達、落ち着いた大人の女性、様々な人達がそこで、ウサギのメイド達にお菓子と紅茶を持て成されていた。
アヤと黒髪の少女――アリスは日当たりの良い、窓際の席で向かい合って座っていた。
「……自分勝手だったな、って今は思うんだ。考えてみれば、ずっとフミちゃんに聞いてばっかりで、鬱陶しかったかも」
「…………」
アリスはバタークッキーを皿から取って、身を乗り出してアヤに向ける。
「あーん」
「えっ?」
「さっきから全然食べてないわ。お茶とよく合うクッキーなのよ?」
「あっ……」
最初に紅茶を一口飲んでから、アヤはずっと一方的に話していた。けれど、アヤは恥ずかしくて、応える事が出来ずにいた。アリスは頬を膨らませ、自分の口にクッキーを放り込んだ。
「ごめん……」
「点々の多い子ね!」
「て、点々?」
アリスの意味不明な怒り方に、アヤは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をする。
「ご本に出てくる暗い子ってみーんな点々いっぱいなんだもの。アナタもきっとそうだわ!」
「……あー、そういう。確かに……」
小説なんかにある、三点リーダーの事だとアヤは理解する。ほらまた、とアリスは指を指した。
「もっとハッキリ自分の気持ちを出さなきゃダメ!」
「……アリスくらい、自己主張強くなれたら苦労しないんだけど」
アヤはクッキーを一枚取って、口に運ぶ。久しぶりに食べたクッキーは甘くて美味しいとは思うが、紅茶と合うかと聞かれるとアヤには分からない。
「じゃあ、アヤもドレスを着てみる? そうだわ、形から入りましょう!」
「え!? いや、アリスくらい可愛ければいいけど、私なんか……」
「アヤだって、お姫様にだって何だってなれるわ」
少しその気になり始めたアヤの後ろから手が伸びて、アヤのカップを取った。そして、アヤが聞きたかった声が早口で聞こえた。
「アヤ、ちょっと貰うわね」
振り返ると、フミがカップを仰っていた。音もなく飲み干し、カップをアヤに渡す。
「フミちゃん!?」
「こんばんはアヤ。一人で遊んでちゃ危ないでしょ」
「あらまぁ、アヤのお友達? 御機嫌よう。……あれ? 貴女は招待したかしら?」
「迷い込んだだけ、今出て行くわ。ああそれと」
皿からクッキーを取って一口。あら美味しい、と感想を述べてから続きをアリスに言う。
「ちょっと噴水前で暴れることになるかも、お客さんを逃がしておいて」
フミは窓を開けると同時に少し離れた部屋の窓が割れる音がした。フミは何かを確認してから、手すりに足を掛けて窓の外へ飛び出す。アリスがきゃあ、と声をあげてアヤと共に窓に駆け寄った。
フミは箒に掴まって、遊園地のエントランスへ向かう。見れば、いつの間にか人だかりができていた。
「……!」
アヤは居ても立ってもいられず、部屋から飛び出して行った。
「…………」
アリスは目を伏せ、ほぅ、と息を吐く。再び窓の向こう、エントランスの方を見ると人だかりはいなくなっていた。誰かが倒れていて、フミはその側に降り立つのが見えた。
「うっ、ぐ。……夢でなかったら、死んでるな」
ナイトメアは空の彼方から、遊園地のエントランスに落下した。その衝撃はしばらく意識を失う程度で済んだが、身体に上手く力が入らず、立ち上がる事ができない。
「悪夢を見せ続けた報いよ」
箒に掴まったフミが、ナイトメアの前に降り立つ。箒は飛行機の様に上方宙返りをして、そのまま城壁を超えてどこかへ飛んで行った。
「楽しい夢じゃあ、ツマラナイ……じゃないか。もっと皆、刺激的な悪夢を、見るべきだ」
「現実、っていう悪夢から逃れたい人もいるわ」
「そんなの甘えだ!」
ナイトメアは起き上がろうとするが、肘が崩れ、また倒れ込んだ。
「甘えてるんだよ……夢でくらい、とかさぁ……」
「貴方は何で、皆に悪夢を見せたいと思ったの?」
フミは何処からか椅子を呼び出し、座って足を組んだ。
「……夢を見ないからさ。だから他人の良い夢ってやつが羨ましかった……俺は一度も、見た事ない……」
「現実でも、夢を見ないの?」
現実の夢。お金持ちになりたい、彼女が欲しい、苦労しなくて済むようになりたい。そういう願いの事だ。
「夢なんて見てられる程、余裕のある人生じゃ、なかったんだ」
「貴方って」
フミはいつの間にか手に持ったティーカップを口に運び、音を立てずに飲む。ほぅ、と息を吐いて言う。
「ナイトメアではないのか。嫌な記憶から目を背けている人が嫌いな、一種の悪霊のような存在なのかしら。悪意だけで独り歩きして、夢の世界をめちゃくちゃにしている。現実の貴方から切り離されたもの」
「だったら、消せばいいだろ。消えられるか、どうなるかわかんねぇけど」
「そうねぇ。でも私、そういうのは専門外だし」
「はぁ……?」
「ある女の子に悪夢を見せるのをやめてほしい、そう頼みに来ただけなのよ」
ナイトメアはやっとの思いで身体を転がし、仰向けになる。フミは椅子から立ち、カップを椅子に置いて、ナイトメアの手に触れる。そして歩美の顔を想像し、共有する。
「……知らない子だな」
「嘘」
「確かに子供に悪夢を見せた事は何度かある。でも、俺のやり方は知ってるだろ。あの部屋に呼んで、嫌な記憶を再生させるんだ。親友が目の前で死ぬなんて、現実の記憶になけりゃ見せられない」
「……そう」
フミは手を離し、腕を組んで立ち上がる。
フミ――魔女は彼、ナイトメアが犯人と踏んで、探し回っていた。しかし、彼はそもそもナイトメアですらなかった。思えば、魔女はチケットの半券を「辿って」はいない。チケットは言わば「兆し」で、配られた次の日に悪夢を見せる。そもそも半券が落ちていること自体がおかしい。本物のナイトメアがわざと半券を置いて、魔女はまんまと釣られて偽物のナイトメアの相手をさせられてしまったと考えるのが、悔しいが妥当だと魔女は推理した。
では歩美が見たという悪夢はなんだろう? 他の妖怪の仕業? けれど何かにとり憑かれている様子ではなかった、寝不足以外は歩美は健康だ。健康な人間が悪夢を見るかと言えば、それは身体的な不調の兆しか、夢の世界での冒険で危ない目に遭った時だろう。しかしそれでは朱音が死ぬ夢を連日見るのはおかしい。
魔女は逆に考えてみる。友達が死ぬのではなく、友達を死なせる夢だとしたら――――
「フミちゃん」
アヤが息を切らせて走ってきた。
「……あのね」
足元のナイトメアを見て、その事にも疑問を抱いたが、一度息を吐いてから頭を下げた。
「ごめんなさい」
「何の事かしら」
「え、あの……勝手に、ていうか、来ちゃダメって言われてたのに夢に来て……それと、自分、勝手で」
フミは優しく笑んで、指を鳴らした。噴水の水が蛇のような形を取り、ナイトメアを呑み込んだ。水は噴水に戻り、また静かに流れる。
「私こそ、言い過ぎたかもね。頼らなくてごめんなさい」
「あ、いや、ただの女の子っていうのは本当だし……それに、うん。魔法、そう魔法、すごかったね。どこからか箒呼んで――」
「アヤ、また一方的に喋ってる!」
「つまんない映画だったにゃあ。けふ」
アヤの後ろからは頬を膨らませ眉を吊り上げたアリスが、フミの足元には丸々と太った、まおが居た。
「アリス。あの、仲直り出来た……!」
アリスはそう聞いて、ぱぁ、と明るい表情になる。
「本当? それはよかったわね」
「尊い友情だなぁ」
真ん丸のまおを、フミは抱き上げる。
「アンタねぇ。一人だけ逃げるのはあんまりじゃない」
まおは、ごろごろ、と喉を鳴らし、悪びれもしない口調で言う。
「その代わりにポップコーンをたらふく食べられたよ。ジュースも浴びる程飲めた。君を売った甲斐があったってもんさ」
「売った!?」
「厳密には違うけど、ナイトメアに媚売って特等席とVIPサービスを受けていたのさ。君の記憶は今年度最高の駄作だったけどね」
「ろくでなし!」
「今度はあっちが喧嘩しているわ。もう!」
アリスの笑っていた表情が、また膨らんだ。フミはまおを下ろし、懐中時計を開く。
「――お説教はまた今度、起きる時間だわ」
フミは手を叩く準備をする。
「あ、待って」
アヤは手を叩こうとしたフミを制止し、アリスの方を向く。頭の中でこれから言う言葉を反芻するために、少し間を開けて問いかけた。
「あの、またお茶会に参加してもいい?」
アリスは屈託の無い笑みでアヤを歓迎するように、両腕を広げる。
「もちろんよ。アヤ、いつでもいらして」
「それじゃあね二人とも、良い目覚めを――」
パンッ、手を叩いた音と共に、フミとアヤ、そしてまおはその場から姿を消した。
残されたアリスは、ふぁぁぁ、と大きな欠伸をした。遊園地には、人が戻ってきていた。
「私も、もう寝なきゃ……」
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
机の上で寝ていたまおは大きな欠伸をして、身体を起こす。その姿は いつも通りスラッとしていた。
ナイトメアが用意した劇場のVIP席で、バケツサイズのカップに山盛り盛られたソルト味とキャラメル味のポップコーンをそれぞれ二カップ、2.5Lのオレンジジュースを三本開けてたらふく飲み食いしたのに、夢から覚めてみればあるのは朝の空腹感だけ。
「あー、虚しい。けど食べ物があれば食べちゃうジレンマ、っと?」
ベッドで横になっているフミは、目を覚ましているが息が荒く、顔も赤かった。
「……頭、痛い。だぁるい……」
「なるほど、夢の世界での活動時間を延長するとこうなるのか」
フミは徐に体を起こし、枕の下から手帳を取る。
「まお、ペン無い……?」
「枕元にあるじゃないか」
「ああ、そうね……」
「重症だなぁ」
フミは弱って力が入らないのか、枕元の棚に置いたペンを取るのに苦戦する。やっと握って、手帳を開いて空白のページにペンを走らせる。
「そんな状態で描いて大丈夫なの?」
「……うるさい」
「さいで」
度々手を止めながら、十分程掛けて新たな魔法陣を描き終えた。そのページを破こうとするが、力が入らなくて破けず、フミはまおを手招きする。手招きに応じ、机から降りてベッドへ向かいながら、人型、フミと同じ姿を取る。
「このページを、アヤに渡して……アヤから歩美に渡してもらって……」
「僕をパシる気? 僕は高いよ」
「今おふざけに突っ込んでられないの……お願い……」
「しょうがないなぁ。もう啓一さん来るから、上手い事言っておいてね」
まおは手帳の今描かれた魔法陣のページを破り、折りたたんで口に咥え、黒猫の姿に戻ってベッドの下へと潜った。
フミは額に手を当て、ベッドに倒れる。頭の中で夢の世界での出来事と、過去の魔女の記憶がぐちゃぐちゃにフラッシュバックする。激しい痛みは肩こり頭痛にも近く、吐き気も感じる。身体は寒気はなく、ただただ暑くて布団に包まっていられない。とにかく冷たい水が飲みたかった。
コンコン、とドアがノックされる。
「文ちゃん、起きてる?」
しばらく返事が無く、再びノックして呼ぶが反応がない。
「入るね?」
ドアが開き、フミの父が入ってきた。様子のおかしい娘の姿を見て、瞬く間に青ざめた。
「文ちゃん!? 大丈夫!?」
「……パパ、水、飲みたい……」
「お水? 分かった、今持ってくるから、飲んだらすぐ病院に行こう」
父は慌てた様子で、部屋のドアは開けたまま部屋を飛び出して、一階へと駆け下りて行った。
「……隙を見て、私の分も描かないと……」
いつもは心の中で呟く事も、頭も心も余裕が無ければポロリと口から零れる。
「…………最悪ね、ホント」
悪夢の原因はナイトメアではなかった。では偶然悪夢が重なっただけなのだろうか、いや違う……確か……思い出そうとするが、頭痛が邪魔をする。
小児科医が診察した所、軽い風邪だと診察され、フミの父親――「白沢 啓一」は安堵した。フミの母親だった彩愛を病で亡くした経験から、大きな不安を抱いていた。処方された薬を薬局で受け取り、車で帰る途中、信号で一時停止している時にふと、フミの顔を見る。目は虚ろで、車のエアコンで冷風を浴びているが暑そうだ。
「文ちゃん、大丈夫?」
「……うん」
フミの様子がおかしいのは、啓一は何となく気づいていた。一昨日位からだろうか、部屋から聞こえる会話が聞こえてきて、飼っている猫――啓一はまおの「言葉」は聞こえていない――と時々話をしている事は以前から知っていたのだが、フミの喋り方がすっかり変わってしまっていた。信号が青になり発進しつつ、今、その事について聞こうかと思うが、切り出し方が出てこず、結局無言のまま車を走らせる。
啓一から見れば、それ以外に娘に特に変化は感じられない。だが、ほんの二か月前に母親を失った娘だ。何か変化があって当然だと思ってはいる。もし兆候を見逃せばどうなるだろう。啓一の心には、雨が止んだだけで晴れる事の無い曇天が広がっている。
「文ちゃん。何か、悩みとかあったら遠慮なく相談していいからね」
フミは啓一の顔に目を向ける。真っ直ぐ、前を見て運転するその顔は曇っている。誰が見ても、むしろ悩みがあるのは啓一の方だった。
「パパこそ……悩んでる」
「あ、はは。……そうだね。僕もまぁ、色々あるけど」
家の駐車場に車を停め、シートベルトを外しながら続ける。
「僕は君のお父さんだからさ、話しにくい事もあるかもしれないけれど、困ったり悩んだりしたらちゃんと話してほしいんだ。……って、今言われても、か。ごめんね」
フミは答えない。ありがとう、とだけでも言おうかと思ったが、真実を話せない後ろめたさから答えないという楽な道を選んでしまった。
啓一は運転席を下りて、助手席のドアを開けて、フミの手助けをする。
「パパ」
「ん?」
「お仕事は、いいの?」
啓一は、そんなことか、と笑って、フミの頭を撫でて言う。
「ああ、心配ないよ。午後から出勤するって連絡してあるから。それと、今日は早く帰って来れるようにする」
「ごめんなさい」
「いいんだ。誰でも風邪くらい引くから。それにこういう時位しか、お父さんらしいことできないしね」
啓一は笑ってみせる。しかし瞳は曇ったまま。
フミが自室に戻る頃、アヤは学校で、二時間目の終わりを迎えていた。十分休憩の間にトイレに行き、用を足して個室から出ると、目の前に知らない女子が居て思わず息を飲んだ。
「アーヤちゃん♪」
その子はおかっぱの黒髪に白いブラウス、赤いサスペンダーに赤いスカート、まるで怪談話に出てくる「トイレの花子さん」を思わせる出で立ちで、アヤを待ち構えていた。
「だ、誰だっけ……?」
アヤは元々、フミ以外のクラスメイトの顔さえあやふやだ。クラスが違う生徒の顔など見分けがつかない。それにしたって、こんな格好の子が居れば印象に残っているはずだと思うのだが、やっぱり分からない。
狼狽えるアヤを面白がるように、クスクスと笑う女子は、ポケットから折りたたまれた一枚の紙を取り出した。
「フミちゃんからの御届け物でーす」
え、と声を挙げて目をパチクリさせて、アヤは紙を受け取る。
「……フミちゃんの知り合い?」
「一つ屋根の下の関係。それよりも、これを歩美ちゃんって子に渡してほしいって」
「え」
差し出された紙を開いてみると、そこには記号が外から内へと収束しているように見える、記号の渦巻きのような魔法陣が描かれていた。
「どうやって渡したら……フミちゃんからだって言ったら、朱音ちゃんが怒りそう……」
「僕はそこまでは責任もてないよ、上手くやりな。ちゃんと渡したからね、それじゃあね」
女子は開いている個室に入って行った。扉を閉めてすぐ、きぃ、と音を立てて扉が開く。そこにはもう、女子はいなかった。
「……本当に花子さんだったりしたのかな」
アヤは怖くなって、そそくさとトイレを後にする。
教室に戻り、歩美の姿を探す。授業の用意を済ませ、机に突っ伏している。前の席には朱音が居て、時折心配そうに歩美の頭を撫でている。声をかけようにも、言葉を探している内に十分休憩は終わってしまう。
昼休み、朱音は歩美を保健室に連れて行った。
アヤは途方に暮れていた。結局、色々と考えてみたが朱音を怒らせずに歩美に紙を渡す方法を見出せていない。
今からでも保健室に行って渡せば、だが昨日のように取り付く島もない朱音が、一方的に拒絶してくるのが目に見えて、フミならきっと、押し切ってでも渡すのだろうがアヤにはそんな勇気はない。
ぼぅ、っと窓から中庭の花壇を見ていると、花に水をあげている少女に目が留まる。
「……あれ? アリス……?」
アヤは駆け足で教室を出て、昇降口から花壇へと急ぐ。
鼻歌を歌いながらジョウロで花に水を与える、夢の遊園地で出会ったアリスに似た少女。
しかし、夢で会った時と大分見た目が違っていた。まずふわふわカールの髪が宝石のオパールのように何色もの色で彩られていた。服も土いじりをする格好とは思えない繊細な薄紅のドレス。まるで童話のお姫様が目の前で生きているようだ。夢の遊園地で出会ったアリスの方がよほど現実的な見た目だった。それほど違うのに、アヤは彼女がアリス本人であると感じ取っていた。
「あの」
「はい?」
声をかけると、少女は水を与えるのを中断し、アヤの方を向いて首を傾げる。
「あ……えっと。夢で会ったの、覚えてる?」
言ってから、自分は何を聞いているのだろうと恥ずかしくなって、アヤは赤面して俯いてしまう。
「夢で? それはロマンチックね」
ころころと笑う少女は、ジョウロを置いて人差し指を頬に当てて考える。
「うーん。……んー、ごめんなさい、分からないわ。夢の中の事って、私全然覚えてないの」
「そ、そうだよね」
「私は「春里 純花」。アナタは?」
「あ、「初夢 文」。えっと、五年生。同じ学年? だっけ」
「まぁ、私も五年生よ! 私は一組」
「私は三組。純花ちゃん、すごく目立つのに全然覚えてなかった……」
「うふふ、髪をこうしたのは最近だから。この前までは赤色だったのよ」
「そうなんだ。すごいね」
「お母さんがね、ヘアアーティストなの! それにお裁縫も得意でぇ、私の服もお化粧もぜーんぶお母さんがやってくれるんだぁ」
純花はその場でくるっと回って、嬉しそうに話す。よほど母の事が好きなんだな、とアヤの心の隅に羨望が顔を覗かせるのを感じた。
「ところで、アヤは夢の世界の事が分かるの?」
純花は目を輝かせ、アヤに詰め寄る。ふわりと香る花の香りと、慣れない距離感がアヤを戸惑わせる。
「え、えっと。分かるって言うか、あの、友達が魔法で夢の世界を……はっ」
アヤは思わず口走ってしまい慌てて口を抑えたが、純花は目を見開いて、アヤの手を強く握った。
「魔法!? アヤの友達に魔法使いさんがいるの!?」
「あ、あぃ、いや、その」
「すごいわ! やっぱり魔法は存在するのね!」
「違うの、あぁ……」
すごいわ、すごいわ、と純花はアヤの手を離して嬉しさが暴走して飛び跳ねる。
「ねぇねぇ、私会ってみたいわ! 何と言う子なの?」
「……えっと、今日はその子、風邪で休んでる」
「まぁ、そうなの? ……きっと風邪なんて方便だわ、なにか新しい素敵な魔法を考えているのね!」
「そうかな……? うぅん?」
「ともあれ、風邪なら仕方ないわ。とっても辛いものね」
純花はアヤの手を取って、花壇の端にあるベンチへと連れて行く。
「今はもっとアナタとお話したいわ。夢の話でもいいけれど……何か、悩みでもあるのかしら」
「え。どうして分かるの……?」
「なんとなく。アヤはすっごく悩んでる気がしたの」
夢での出来事が、無意識にそう思わせているのだろうか。アヤは夢の世界で純花に話したように、正直に話すことにした。
「……うん、実は――」
ぼかしつつ、アヤはフミから預かった魔法陣の描かれた紙を、歩美に渡さなければならない事を話す。
「――でも、その歩美ちゃんの友達がさ、歩美ちゃんの事本当に大切みたいで。この魔法陣があれば、すぐには何とかできなくても、きっと今よりは良くなると思うんだ」
「良くなる、って思えるのは、魔法陣を描いた子の事を信じてるからなのね」
「……うん。少なくとも、私が貰ったのはちゃんと効果があったし」
「なら、やっぱり思い切って渡すしかないわ。私も一緒に行ってあげる」
「いいの?」
「うん! さぁ、すぐに行きましょ!」
純花はまた、アヤの手を引いて行く。
保健室に行くとちょうど保健の先生が職員室へ向かう所で、そこにいた朱音に留守番を頼んでいた。
歩美をベッドに寝かせ、朱音は心配そうな面持ちでその手を握っていた。
「あの」
アヤはおずおずと、朱音に声をかける。
「なに」
朱音はアヤに対して別段警戒する様子はない。内心でほっと一息を吐いて、用件を話す。
「フミちゃんから、歩美ちゃんにこれを渡してって」
フミの名前を出すと、朱音の表情は険しくなる。すると、眠っているように見えた歩美が目を開けて、朱音の手を引いた。
「朱音ちゃん……」
「あ、ごめん、うるさかったよね」
「ううん」
歩美は体を起こした。目の下にはクマが出来ていて、今にも眠ってしまいそうな程にうつらうつらとしている。
「話には聞いていたけれど、とっても辛そうね」
純花が朱音の反対側に行って、歩美の頭を撫でる。朱音は怪訝な眼差しを純花に向け、アヤに問う。
「この子は?」
「あ、と、友達……?」
アヤは純花の事を友達だと思っているのだが、純花の方はどうだろう、と、以前と同じ自信の無さから疑問形になり、つい上目遣いで純花に視線だけで確認してしまう。純花は視線に気づき、笑みで答えた。アヤは、ほっ、とするのを心だけに留め、言葉を続ける。
「の、純花ちゃん」
「アヤってちゃんと友達居たんだ。……やっぱり変わってる子だけど」
朱音はどこか安堵したような声色で言った。アヤは愛想笑いを浮かべつつ、歩美にフミから預かった紙を差し出す。
「これ、フミちゃんから」
「…………」
歩美は受け取ってしばらく紙を見つめ、呟く。
「……前の、効かなかったよ」
「今度は大丈夫だよ。悪夢を見せてたヤツは、フミちゃんが倒したから」
「倒した、って? 夢の中でって事?」
「うん」
「バカにしてるの?」
「してないよ、だって――」
だって見てたもの。そう言って信じてもらえるか。アヤは二の句を次げずに、言葉を詰まらせる。
「――だったら、今試してみたらいいじゃない?」
純花は歩美に言う。歩美は純花を一瞥し、こくりと頷いた。
「歩美、本気?」
「……これで最後。ダメだったら、もう信じない」
アヤは魔法陣を描いた本人ではないのだが、思わず固唾を飲む。
歩美は枕の下に紙を敷いて、横になった。とはいえ、すぐには寝付けないようだった。
「子守歌でも歌いましょうか?」
「いらない。……寝るまで、みんなここに居てくれる?」
「もちろんだよ、歩美」
朱音は握っていた歩美の手に、もう片方の手も重ねる。
「私も、居ていいの?」
おずおずとアヤが聞くと、歩美は頷いて答えた。歩美が寝ようとしている横で、ガヤガヤうるさく話をするわけには行かないと、アヤと朱音は空気を読んで黙って歩美を見守る。一方で純花はそれぞれの顔に視線を移しながら、指を胸の前で組ませて思案する。やがて歩美に「ちょっと離れるわね」と声をかけて、保健室の隅に重ねられた丸椅子を取りに向かった。自分とアヤの椅子を持って、戻ってくる。
「退屈しのぎに、お話しましょ」
「話してたらうるさくて歩美が寝れないじゃん」
そうだよ、とアヤも同意するが、純花は笑みで押し切る。
「二人のお名前、教えてもらえるかしら?」
「……アタシは」
朱音は自分と歩美の自己紹介をし、続いて純花は二人の関係について質問を投げかける。
「朱音さん、二人はずっと友達だったの?」
「歩美とは幼稚園の頃から、二年生まで一緒だった。三、四年生の頃はクラス変えで別れて、今年また一緒のクラスになれたんだよ。ね、歩美」
歩美は頷く。その眼は眠くなってきたのか、うとうとし始めていた。
「歩美さんに会いに行ったりはしなかったのかしら。私だったら、お昼休みに花壇のお花に水をあげに行きましょう、って誘いに行くのに」
「……それは。アタシだってさ、新しいクラスで友達とかできるわけじゃん。だから歩美だって友達作ってると思うじゃん。それに、アタシどちらかといえば外で遊ぶ方が好きだし。ドッジとかバスケにハマってたからさ」
「そうねぇ。新しいお友達が出来たり、楽しい事を見つけてしまうと、それはしかたなかったのかもしれないわねぇ」
「朱音……ちゃん、いい?」
睨まれるのが怖くて、おずおずとアヤは朱音に問う。朱音は視線を移して応えた。
「あの、もしかして今も、外で遊びたかったり……するの?」
朱音はちら、と歩美を見る。すっかり寝息を立てて、魔女が魔法で彼女を眠らせた時のように、ぐっすりと眠っている。朱音は声を小さくして、申し訳なさそうに眉を顰めて言う。
「正直に言うと、うん。五年になって、一緒のクラスになれたことは嬉しかったよ。でもさ、歩美は外で遊ぶのはあまり好きじゃないんだ。ドッジだって、ボールが当たると痛いからって、やりたがらないし。アタシは図書室で本読むとかって好きじゃないし、教室で二人で駄弁るのも退屈だから」
アヤはふと、去年仲の良かった友達の事を思い出した。その子は誰にでも分け隔てなく接する子だった。だからアヤとも仲良くしてくれたのだ。クラスが離れた今では、もう遠くの人のようで、もし来年同じクラスになったとしても前みたいに接せられる自信がない。
「それ、歩美さんに言ったことあるの?」
純花が聞くと、朱音は首を振った。
「言ったことは無いけど……」
「言わない方がいいよ」
「言った方がいいと思うわ」
アヤと純花は全く正反対の意見を同時に言った。顔を見合わせ、先に純花が謝った。
「……けれど、言わなければこのままずるずる関係が続いてしまうわ。それになんとなくだけれど、それが原因だと私は思うの」
「どうして?」
「だって朱音さん、辛そうだもの。歩美さんが辛そうだからじゃなくて、そうね、お外で遊ぶのが好きな子犬を無理矢理檻に閉じ込めているようだわ」
朱音はハッとする。気づいていながらも誤魔化していた気持ちを、純花がハッキリとその姿を照らした。
「朱音ちゃん……でも、でもさ、朱音ちゃんは歩美ちゃんと仲良くしていたいよね?」
アヤが聞くと、朱音は歩美の寝顔に目を向け、握っていた手を離す。
「……また悪夢を見るようなら、もう付き合いきれないよ。アタシじゃどうしようもないじゃん……」
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
教室の窓の向こうには校庭が広がっている。歩美の所属する5年3組の教室の窓からは中庭が見えるはずなのだが、今は昼休みに外で遊ぶ子供達の賑やかな声に溢れた校庭が広がっている。
「悪夢の原因が分かったわ」
歩美は校庭の向こうを見つめたまま、その目は朱音を探し続ける。
「ナイトメアっていう、悪夢を見せる厄介者の仕業だと私は思った。でも違った。彼には悪い事をしたわね」
窓ガラスに触れ、歩美はそこに薄いガラスがある事を認識した。
「それにしても、酷い悪夢だわ」
音もなく、空から校庭の真ん中に落ちてきたそれ。歩美は静かに息を飲み、窓ガラスに触れた手を握った。
「こんな悪夢を見たと言えば、そりゃあ心配するわよね」
歩美は振り返る。そこには机に腰かけた、真っ黒い三角帽子を被ったフミがいた。そしてフミから見て、歩美の後ろの窓の向こうには、無数の糸の切れた人形のような『朱音』が横たわっている。血をイメージした赤い色水が口や眼孔から湧き水の如く溢れるモノもあれば、関節や首があらぬ方向を向いているモノ、どこかしらが欠損しているモノ。
空は青空に雲が疎ら、初夏の日差しがその『校庭』という異界を照らしている。
「悪夢を見せていたのは、貴女自身だったのね」
フミは、ほぅ、夢の雰囲気に呑まれ始めた心を落ち着けるために息を吐く。
胸の奥にのしかかられるような重みを与えてくる。不快感を与え、出て行かせるのが狙いだ。
「貴女、朱音しか友達がいないのかしら。朱音に執着しなければいけない理由は何? ……いえ、そんなことはどうでもいいか。貴女の中の空洞を埋めていたものだったのでしょう。けれど、これでいいのかしら」
フミは机から降りて、窓に触れる。
「一体どれだけの朱音を殺したのかしら。でも仕方ない事ね? だって、なんとしても引き留めたかったのでしょう」
歩美は膝を付いて泣き始める。フミの胸にのしかかっていた重みが引いていく。
「解決する手段はもう、分かっているのでしょう。歩美」
校庭の『朱音』が消えていく。代わりに、外で元気に遊ぶ子供達が現れた。正面玄関の方から、男子達に混じって、屈託の無い笑顔の朱音が駆けて行く。
「それでいいのよ。後はそれを、現実で実行するだけ」
フミは歩美にハンカチを差し出す。受け取って涙を拭き、徐に立ち上がって校庭の方へ目を向けて言う。
「……白沢さん」
「なあに」
「私、最低なことしてたんだ。友達を夢で殺して、悪夢を見た、怖いって言って、構ってもらうの」
「酷いマッチポンプ」
歩美は意味が理解できず首を傾げた。
「自分で火を点けて自分で消す、自作自演、て言えば分かる?」
言い直すと、歩美は理解できた。
「……貴女がしたことは、自身の夢を操っていただけ。決して悪い事ではないし、子供はわりとよくやること。すこしやり過ぎだけれど、自分の中でだけ完結していればよかった。けれども朱音を強く引き留めなければならなくなって、貴女は貴女を傷つけ、夢が現実を蝕んだ」
「私は、これからどうしたらいいの?」
朱音を消した歩美の世界には誰もいない。両親さえも、今のこの場所にはいない。
「歩美、私はもう貴女のことは友達だと思っているわ。アヤとだって仲良くなれるでしょう」
「すぐには無理だよ。だってまたこんなことしちゃうかも」
再び窓の外へと目を向ける。外にいる朱音は生きて、動いている。
「そうよね。今気づけたって、きっともう癖になってる。でも癖は直せる」
「フミちゃんの事も、夢で殺すかもしれない」
「殺すくらいなら、いっそのこと親友にでもしてくれて構わないわよ」
歩美はハッとして、フミを見る。フミは微笑み、ほら、と促す。
教室の中にもう一人のフミが現れ、彼女の席に座る。その前には半透明のアヤが現れて、声は聞こえないが何やら話している。
「そう。こうして、いつかこの教室の半分くらい埋まるといいわね」
「でも、朱音は戻ってこない」
「そうね。……でもいつか、違う形で交わることもあるかもしれない」
歩美は夢の中のフミに近づいて、声をかける。フミは歩美の事を優しく迎えたのだった。
教室の風景が白み始める。目覚めが近いのだ。
フミ――魔女は胸に手を当て、細い試験管を取り出した。穏やかな笑顔を浮かべながら消え始めた歩美から、紫色の多面体の結晶が分離する。魔女はその結晶に試験管の口を向けて手招きをすると、結晶はゆっくりと試験管の口へと吸い込まれていく。結晶が試験管の口に触れると、ドロドロの液体になって底に溜まっていく。結晶が完全に試験管の底に溜まったのを見て、魔女はコルクの栓をして試験管を胸にしまった。
白一色の世界の中、魔女は目を閉じて手を叩いた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
歩美が目を覚まし、身体を起こした。保健室の中は薄暗く、茜色の西日が差し込んでいて、今が夕方だと分かった。
誰かが保健室に入ってきて、電気が点けられた。足音は歩美のいるベッドを遮るカーテンの前で止まり、声がかかる。
「歩美ちゃん、起きてますか?」
「は、はい」
保険の先生が保健カーテンを開け、安堵した笑みを歩美に向ける。
「具合はどう?」
「大丈夫です。……あの佐々木先生、もう放課後ですよね」
「ええ。ずっと眠っていたんですよ」
佐々木は歩美に体温計を渡し、それを脇に挟んだ。間もなくピピピ、と電子音が鳴り、体温計を返した。
「熱は無いみたい。帰れそうですか?」
「はい。ありがとうございました」
お辞儀をして、ベッドから降りて保健室を後にする。
人気の減った校舎を歩き、5年3組の教室へと向かう。明日、朱音と話そう。そう胸に決めて教室のドアを開けた。
「歩美」
教室の中には、朱音とアヤの二人がまだ残っていた。朱音は歩美に駆け寄る。
「歩美、もう大丈夫? ……また、悪夢を見た?」
「……あ……」
「歩美? ……どうしたの? やっぱり効かなかった?」
「…………朱音。あのね」
歩美は拳を握り、短く息を吐いて、目の端に涙を浮かべた。
「ごめん、なさい」
頭を下げ謝罪する歩美に、朱音は困惑して目を瞬かせる。
「悪夢は……ね……朱音に構ってほしかったから、私が私に見せていたの」
「え……どういうこと?」
「朱音に、側に居てほしかったから……! ごめんなさい……!」
嗚咽を堪えて謝罪する歩美を、朱音にはどうすることも、掛ける言葉さえ見つからない。
「……つまり、嘘だったってこと?」
「嘘じゃないけど……でも、そう」
歩美は一度服の袖で涙を拭いて、訴える。
「お父さんもお母さんも先生も、誰も私を見てくれないから……! 私を見てくれるのは朱音だけ! だから、私は……」
「もういいよ」
朱音は歩美の肩に触れる。
「わかったよ歩美。ずっと、友達でいよう」
「朱――」
乾いた音。朱音は歩美を叩いて、突き放した。
「――そんなことを言ってくれる人が現れるといいね。さようなら」
振り返った朱音の顔に表情は無く、何事もなかったように机の上のランドセルを取って背負い、教室を後にした。
取り残されたアヤと歩美は、しばらく呆然とするしかなかった。
「…………あ、歩美、ちゃん」
先に沈黙を破ったのはアヤだった。声をかけるだけで勇気を使い果たし、近寄る事はできない。
「歩美ちゃん、私も……その……親にちゃんと見てもらえてないんだ、んと、だから…………大変、だよね?」
歩美は徐に立ち上がり、短く鼻をすすってアヤの言葉を無視して帰りの支度を始める。アヤはそれ以上声を掛けられず、逃げるように教室を去る。一人残された歩美はしばらく、泣き続けたのだった。
その晩、フミの家。啓一は早めに――それでも七時になる頃に――帰宅し、キッチンでお粥を作っている。フミの体調は相変わらず、頭痛が続いていた。大人しく一寝入りすれば幾分マシになっていたハズだったが、「歩美の夢」に乗り込んで悪夢の元凶が歩美自身であることを伝えに行った事で「ぶり返し」たのだ。
お粥が出来るまでの間フミは、まおと共にリビングのソファに座りテレビのニュース番組を観ていた。
『魔女さんや』
不意にイヤホンからする音のような近さで、まおの声が右耳に入る。フミはまおの方へ顔を向けて、その背を撫でて応えた。
『見事、歩美ちゃんと朱音ちゃんは仲違いしたよ。バッドエーンド』
キッチンに居た啓一が土鍋の火を弱めて、リビングを出て行く。トイレに向かったようだ。フミはテレビの方を向きながら、小声でまおに話す。
「それでいいのよ。今までが不健全だったのだから」
「へぇ。それにしても自分自身に悪夢を見せるなんて。リストカットみたいだ」
「癖になるものだから、これからが大変よ。まぁ……それでも十五、六歳を過ぎれば、次第に夢を操る力も弱まっていくから。それまでに彼女が、心の内の小さい部屋にいつでも友人を呼べる位になっていれば大丈夫」
「僕はね、朱音ちゃんに突き放された後、アヤちゃんを新たな依存先にすると思ったんだ。けれどそうはならなかった。君に依存するのかな?」
「しないわ」
「ふぅん?」
フミは自分の胸を叩いて言う。
「その依存心は、私が貰った」
「げぇ、じゃあ君が依存ちゃんになるの? よしてよ、依存体質は僕の専売特許だ」
「なりません。それにアンタは寄生体質でしょ。……他者への強い依存心、それは心の汚染物質。あるだけで徐々に精神を蝕んでいく病巣と言ってもいい。けれどね、利用方法があるのよ」
「そりゃあいいね、方々探して廃棄場所を選定する必要も、隔離病棟に閉じ込める必要も無いんだ?」
「魔法を使うには精神的なエネルギーがいるのよ。空っぽの身体に魂をコピーしただけの今の私は、ろくな魔法を扱う事ができないの」
「汚染物質が出す負のエネルギーを魔法を使うエネルギーに利用する、と」
「そう」
「それで、何ができるようになるのさ。今時、蝋燭に火を灯すのにだって魔法は必要ないよ? それとも自家発電でケータイの充電でもするのかい?」
「限定的な空間を形成する魔法」
「君の領域ってことか。なるほどね、それがあれば学校のお化けとやらとも戦えるわけだ」
「戦いませんけど」
まおは先程のようにフミの右耳に『戻ってくるよ』と耳打ちし、欠伸をした。程無くして啓一がリビングに戻ってくる。
「文ちゃん、お粥そろそろ出来るからね」
「うん、ありがとう、パパ」
フミの猫かぶりに、まおがくしゃみのような声で失笑し、フミは肩をすくめた。