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魔女と出会った日から  作者: 大利畢者
2/7

「フミ≠文=アヤ」


 その少女は先週までと大きく変わっていた。

 明るい茶色がかったボブカットの髪や服装は変わっていない。変わったのは立ち振る舞いから滲む雰囲気だ。先週の彼女はとてもぼんやりした雰囲気で、周りの先生もクラスメイトもつい心配してしまうような子だった。

 今の彼女は正反対で、堂々と自信に溢れているようにすら見える。ランドセルを背負っているのに大人の余裕を感じる。そこに背伸びは一切ない。

 まるで別人のようになった彼女に首を傾げる子は居るが、話しかける気は誰もないようだった。

 ただ一人、意を決して彼女の隣に行く黒髪をなびかせた少女、文がいた。

「ね、ねぇ。あ、えっと……お、おはょぅ」

「はい、おはよう。ええと……」

 大人びた仕草で腕を組み一考する。やがて右手の人差し指を空中でくるくる回して、思い出したのか思いついたのか指が止まって、ビシッと文を指す。

「山田、花子さん」

 文は呆気にとられ、しばらく口をポカンと開けたまま固まってしまった。やがてハッとして「誰っ」と呟いた。

「ごめんなさい、日本人に多い名前を適当に言ってみたわ。……実はど忘れしてしまったのよね、何さんだったかしら?」

 はにかむ笑顔は警戒心を解す。文は知ってるわけないじゃん、とツッコミが口から出そうになるのを堪えて名乗る。

「初夢 文。んと、フミちゃんと同じ漢字。初夢はお正月に見るアレ」

「おめでたい感じで、良い名前ね。それにそう、フミと同じ字か。よろしくね、アヤ」

 文――フミは右手を差し出し握手を求めた。「……うん」文――アヤがその手を握るとフミは左手も使ってアヤの手を優しく握った。

 その光景はどれほど異様だったのだろう。アヤが気づいた時には、登校する生徒だけでなく大人達も何事かと、怪訝な視線を向けてくる。アヤは居づらくなってフミの手を握ったまま駆けだした。

「……っ、早く行こうヒュミちゃん」つい舌を噛んでしまった。フミは失笑しながら着いていく。

「ええ、初日から遅刻してしまうわけにはいかないわ」

「初日?」

 アヤは言葉が引っかかって足を止めた。そしてフミが今度はアヤを牽引する。

「今日は月曜日。一週間の始まりだから、初日でしょ」

「……うん?」

 そういうニュアンスではなかった。しかし、それ以上は言及せず、フミと並走して学校へと向かった。



 5年3組。フミとアヤが所属するクラスだ。男子11人で女子13人、合計24人で、女子の方が若干多い。

 フミの席は窓際の前から2番目、アヤの席は廊下側の前から3番目。アヤはランドセルの中の教科書や筆入れを机にしまい、周りの同級生がランドセルの中身をしまう様をさりげなく観察して真似しているフミの元へと向かう。その姿に、何人かの生徒が興味を示していた。

「フミちゃん、その……」

 友達になって、自分からそう言いたいのだが、喉の奥に言葉が引っ込んでしまい出てこない。

 フミはそれを察してか、一度手を止めて目を合わせる。話してみて、と彼女が発する落ち着いた雰囲気を前にしてようやく、スッと言葉が出てくる。

「と、友達になってほしい」

 フミはくすりと笑って、ランドセルの中身を机にしまう作業を再開しつつ言う。

「さっきの挨拶で、もう友達にはなれたと思っていたけれど。貴女の方はまだそうは思ってくれていなかったのね」

「あ、ごめん」

 すでに友達だと思ってくれていた事への嬉しさと、それに気づけなかった申し訳なさで声が小さくなった。

「……不器用な子なのね、アヤは」

 アヤは確かに不器用だ、工作もそれほど得意ではないし字も綺麗とは言えない。

 そしてフミはそういう不器用を言ったわけではない、理解がすれ違うほどに不器用だ。

「ところでアヤ」

「なに?」

「授業はいつ始まるのかしら」

「……そのまえに、朝の会をしてからだよ……あと10分くらいしたらだけど」

 アヤの中の違和感は強まるばかりだ。

 もう5月、新学年になってから一月経つ。それ以前に、これまでの四年間で学校での一日の流れは特別な行事でも無ければ毎日一緒なはずだ。

 転校生でもないかぎり今更、授業はいつ始まるのか、なんて質問をする生徒がいるはずがないのだ。少し離れた黒板の側に時間割も貼ってある。その事も知らないのだろうか。

「ねぇ、フミちゃん。フミちゃんは本当に「白沢しらさわ フミ」ちゃんなんだよね?」

 先週までの彼女と、雰囲気や話し方――アヤは以前のフミと直接話した事はないが――以外は間違いなく同一人物のはずだ。だが、どうにもよく似た誰かにすり替わってしまったようにしか見えない。あまりにも変わりすぎているから、他のクラスメイトも同様に違和感を覚えている。アヤとフミのやり取りに注目が集まっていた。

「ええ「白沢 文」本人よ。違う誰かに見えるのかしら」

「見えるよ。別人みたいだ」

「別人だったら、どうする?」

「え……やっぱり別人なの?」

 フミは胸の名札を指した。

「白沢 文、それが私よ」

「……土日に、なにかあったの?」

「例えば、歳の離れた彼氏ができたとか?」

「え!?」

 アヤだけではない、聞き耳を立てていたクラスメイトも声を挙げた。フミはそれが見たかったとばかりに笑って、手を振った。

「そんなわけないでしょ。実はこれが素なの」

「そうだったんだ……? それも嘘?」

「分かってきたじゃない」

「……変な子だ」

「人の事言えるのかしらね」

 図星を突かれ、あはは、と乾いた笑いがでた。



 三時間目の算数の授業では小テストが行われた。アヤはそれは散々な結果だったと後日知るのだが、それよりもずっとフミの事が気になっていた。

 給食後の昼休みを除いた、各時間の間に設けられている十分休憩の時間、フミはいつもふらっといなくなっていた。しかし今の彼女は頬杖をつきながらまるで観察するような、良く言えば授業参観に来た親のような暖かみのある目で他のクラスメイトを眺めている。

 ふと目線が合うと、フミは口角を上げて小さく手を振ってきた。アヤはなんとなく気恥ずかしくなって――むしろアヤの方がフミを観察しているようだったと気づいて――顔を逸らした。

 少ししてもう一度フミを見ると、興味はすでに窓の外へと向いたようだ。頬杖を反対の手に変えて窓の外を見ているだけ、それだけなのに独特なミステリアスな雰囲気を放ちながら、活発な男子達が騒いでいる教室の中でフミの周りだけが切り取られているかのように静かに見えた。そしてふと、自分もそうなのかも、と気づいた。

 フミの姿は昨日までの、そして今の自分に似ている。ますます彼女への興味と、彼女の側にいたいという思いが強まっていく。他のクラスメイトは、狭い教室の中でそれぞれが小さい幾つかのコミュニティを作っている。その中でずっと、フミとアヤは浮いていた。

 アヤはどこにも入る勇気が持てずにいた。フミはどうなのだろう。友達になったのなら、聞いてみたいな。アヤが席を立とうといた時、先生が教室に入ってきて、直後に四時間目の始まりを告げるチャイムが鳴った。アヤは長いため息にも似た息で空回りした気持ちを吐いて、席についた。



 四時間目が終わり、教室の中が色めき立つ。待ちに待った給食の時間だ。

 本日の献立を楽しみにしている、さっさと食べ終えて外でドッジボールをする、単純に自由時間が楽しみ、理由は色々だが勉強から解放されたカタルシスが生徒達を色めき立たせるのだ。

 しかも五時間目の国語は自習時間となっている。それが終われば下校だ。多くのクラスメイトの気分はもうすでに帰り支度を始めている。

 クラスの中では、二列一組――1列4人――で班分けがされていて、授業中のディスカッションや給食の時には席をくっ付ける。アヤの班は他に比べると大人しい子が多く、給食の時もあまり会話が無い。せいぜい班の中でも仲が良い子達が二三言葉を交わすくらいだ。

 アヤにしてみれば、給食を食べる事に集中できてありがたいが、心の隅では寂しさも顔を覗かせる。ちらと遠くのフミを見てしまう。声の大きな女子が、彼氏が出来たってホント? と質問するのが聞こえる。アヤにしたのと同じく、そんなわけないでしょ、と軽くあしらう。それからも近くの子から質問を受けていたようだが、フミはどれも間を置くことなく簡潔に答えている。変わった返答には小さな笑いが起こっていて楽しそうだ。

 寂しさが募って、それ以上様子を見るのをやめて給食に集中した。本日の献立の目玉は大きめのハンバーグだったのだが、アヤはあまり味を感じなかった。



「フミちゃん」

 昼休みになって五分も経たずに教室の中は閑散としていた。読書をしている子と、隅のエアコンの下で駄弁っている二人組、そしてフミとアヤだけが教室に残っていた。フミはまた、教室から出る様子も無かったのでアヤは話しかけてみた。

「何かしら。質問ならそろそろうんざりだけど」

 フミは苦笑しながら言うと、アヤは言葉を詰まらせた。色々と聞きたかったのだが、うんざりしているなら今は聞かない方がいいのかと迷って、すると今度はなにを話せばいいのか分からない。狼狽えて目線を泳がせていると、フミは「まぁ、前の席にでも座って」と言って席を立ち、前の席の椅子をくるりと回しフミの席の方に向かせた。アヤは言われるがまま、席に座った。

「質問でもいいのよ。うんざりはしているけど、それしか話題を用意してこなかったならそれでいいわ。友達らしく、お話しましょ」

「ええと……」

 頭の中の慌てて話題をしまった引き出しの中はゴチャゴチャだ。どれから聞こう、口をパクパクして逡巡し、アヤは一つ目の質問を決める。

「……今日はさ、学校の中歩き回らないの?」

「歩き回る」

 フミはキョトンとして、そこだけを反芻した。

「私、そんなことしてたのかしら」

「してたよ。……あのさ、もしかして……」

 そこまで言って一度言葉を止める。やっぱり何かあったのだと確信して、けれどそれは聞いていいのか分からない。

「記憶喪失……何か、怪我したとかで? フミちゃんやっぱりおかしいよ」

「…………」

 フミは真っ直ぐにアヤを見つめる。全くの無表情で何を考えているのか読めない。やがて目を伏せ、頬杖をやめて背筋を伸ばした。

「アヤ」

「……ん」

「もっと詳しく聞かせて。私は何をしていたの」

 またも、少し奇妙に思えた。フミの目は興味で満ちている。

「フミちゃんは……休み時間になるとね、教室を飛び出して学校の中を歩き回ってたんだ。それから、何もない所にいきなり声をかけたりさ、普通じゃなかった」

「確かに」フミは苦笑しながら頷く。

「……それから、フミちゃんはもっと子供……私も子供だけど、子供っぽい喋りだったと思う」

「こんなではなかったのね」

「うん。あ、今のフミちゃんの方が話しやすくていいよ」

「ふふ、ありがとう」

 フミは徐に胸の名札を片手で少し上げ、視線を名札に向ける。しばらく名札に書かれた名前を見て、顔をあげた。

「でも……そう。隠すつもりはなかったけれど、知らない子にはなりきれないわね」

「なりきる……?」

 気づけば、教室の中はフミとアヤだけになっていた。

「今二人きりだし、私の事を教えましょうか」

 フミは身を乗り出し、右手の人差し指で耳を指してから、くいくいと耳を貸すようジェスチャーする。アヤが耳を貸すと、フミは小声で言う。

「貴女が知っていた「白沢 文」という少女はすでに亡くなっている」

 アヤは身を引き、短く笑った。

「あ、はは。じゃあ、あなたは誰なの?」

「面白かったならそれはそれでいいのだけれど」

 フミは肘をついて両手を組み、顎を乗せて笑む。

「私は魔女。この体を間借りさせてもらっている魔女よ」

 あまりに突拍子もなく荒唐無稽。けれど不思議とストンと胸に落ちる。アヤは口を開けたまま、頭が真っ白になった。

「今ここで冗談だと言ってもいいけれど。面白いかしら。微妙でしょう?」

「……微妙」

 笑えもしないし、理解もできない。

「二人だけの秘密よ。友達らしく、秘密を共有するのよ」

「……うん……?」

「さてそれじゃあ……もう少し、フミちゃんの話を聞かせてもらえる?」

「その前にさ。どうして、フミちゃんの身体を使ってるの?」

「目の前に消えそうな命があって、貴女に助ける力があったら助ける?」

 アヤは頷いた。フミは「そういうこと」と目を細めて言った。

「……魔女って、なんなの?」

「世間に潜むちょっと変わった人かしら。居たら面白いなって妄想した人が現実にいる、みたいなね」

「どうして、普通に小学校に通うの?」

「フミちゃんが小学生だからよ」

「魔法とか、使えるの?」

「見たい?」

「うん」

 フミは組んだ両手をゆっくりと離す。アヤは固唾を飲んで、何が起こるのか瞬きを忘れて見入る。

 しかし、何も起こらないまま、フミは両掌をヒラヒラさせる。

「なーんちゃって」

「…………」

「どんな魔法を期待したのか知らないけど、見せてあげない」

 教室には少しずつ生徒が戻り始めていた。

「……やっぱり、変な子なんだ」

「ふふふ」

 フミはコロコロと笑って、また頬杖をつく。

「ちょっと、あたしの席に勝手に座らないでよ!」

 フミの前の席の子が戻ってきて、眉を吊り上げて言う。アヤは息を飲み、狼狽えながら席を立つつ消え入るような小さな声で謝った。

「ごめんなさいね、話をするのに立たせておくわけにはいかなかったから」

「じゃあフミが立って話せばいいじゃん、勝手に使わないで」

「なら、今度アヤと話すときに借りるわ。予約」

「え……まぁ、良いけど。あたしが戻ってくる前には退けててよ」

「だそうよ」

「……あ、うん」

 予鈴のチャイムが鳴って、アヤは席へと戻って行った。

「ねぇ」

 前の席の子は変わらずしかめっ面でフミに声をかける。

「何かしら」

「なんでそんな変な話し方してんの」

「これが楽だからよ。ずっとこうだから」

「変。なんか気取っててうざい」

「あらそう、でもごめんなさいね、変えるのはきっと無理な相談だわ」

「うざ」

 鼻を鳴らして、その子は自分の机の方に向き直り、教科書とノートを用意する。フミも同じように授業の用意をする。ふと、フミは窓の外に人の気配を感じた。見ると、スーツに身を包んだ背の高い女性が立っていた。その表情はひどく悲しそうで、視線は前の席の子に向けられている。目を伏せた後、何かを呟いてその場を後にした。

「……」きたない、と唇は動いていた。

 男子生徒が数人、慌てて入ってくるのと同時に若い男の先生が入ってくる。

「みんなー、席に着こうね」

 線の細い声と、手を叩きながら教卓へと向かう。

「担任の山崎先生に頼まれて来た高等部の虹野です。みんな嫌だろうけど……課題をもらってきてまーす」

 当然、ブーイングの嵐が巻き起こった。



 放課後になりフミが帰り支度を済ませると、アヤがやってくる。

「一緒に帰ろう」

 言葉がスッと出てくるようになったが、アヤはまだその変化に気づいていなかった。

「ええ、いいけれど。アヤの家はどこ?」

「えっとね……」


 アヤとフミの家は近所だった。歩いて十分程度で行き来できる。

「ところでさ」

「うん?」

 下駄箱からずっと無言で歩いていて、校門前の坂を下り終えたところでようやくアヤが切り出した。

「フミちゃん……うぅんと、魔女さん、かな。そっちは何て名前なの?」

「メアリーよ」

「外国人なんだ?」

「……外国……か。まぁそうね」

「? どこに住んでいたの?」

「答えにくい所をついてくるわね」

「あ、ごめん」

「いいのよ。……木のうろ

「うろ、って、木の空洞のところ? リスとか動物が顔出すアレ?」

 木の中には樹皮が剥がれて中が腐ったりして空洞になることがある。フミが言ったのは正にその空洞の事なのだが、アヤが本で見た写真ような物を想像するととても人が住めるようには考えられない。童話なんかでは、木の根元にドアがあって、そこに暮らしているなんてこともあるが、それはあくまで童話の世界での話だ。

「それは嘘でしょ」

「そうだったら面白いでしょう?」

「ありえなさすぎて想像できないよ。じゃあ、家はお菓子の家で、やっぱり大きな釜とかあったりするの? 怪しい薬作ったりとか」

「お菓子の家には住みたくないわね。私だったら、一日で飽きて別な家を建てる。――怪しい薬も作ったし、釜もあったわね。でも釜って大きいし掃除が大変だし、そもそも薬をそんな大量には作らないから、ビーカーや試験管やフラスコの方がコンパクトで使いやすくていいわね」

「なんかそう聞くと、魔女というか科学者っぽい」

 フミは得意げにふふん、と鼻を鳴らした。ようやく見た目通りの子供っぽさが見えてアヤは少しだけ安心した。

「……じゃあさ、フミ、魔女さんは悪い魔女なの?」

 これは冗談のつもりで聞いた。すでに彼女が悪い人ではないことは信じていたからだ。

 フミは――魔女は足を止めた。少し先まで歩いたアヤも足を止め、魔女の言葉を待った。魔女は妖しく笑みを浮かべて言う。

「悪い魔女という可能性もあるわね?」

「そう、なの?」

 魔女はなおも意味深な笑みを浮かべる。徐に右腕を上げ、人差し指でアヤを指す。

「すでに魔法にかかっている、とは考えないのかしら?」

「え……」

 そうだ、ずっと彼女のことが気になっていたこの気持ちそのものが、魔女の魔法である可能性。魔法というものはアヤにとって得体のしれないものだ。もしかしたらそういうこともできるのではないか、今更そういう不安に襲われる。

「魔法がどういうものか分からないでしょう。私が本当に魔法を使っているのか使っていないのか、使えるのか使えないのか」

 おばさんが怪訝な表情で二人の横を通り過ぎる。

「今の人が、魔法使いであるかどうか、わかる? あの人は魔法が使えないでしょうね、けれど私は? 使えないと言い切れる?」

「……言い、きれないけど」

「友達が欲しい私が、貴女に魔法をかけたのよ。だから貴女は私の友達になりにきたの」

 魔女の言うことはアヤの胸にストン、ストンとジグソーパズルのようにハマっていく。内気だと思っていた自分が積極的にフミに話しかけて友達になろうとしたこと自体が、すでに魔女の魔法によるものだった。それはアヤにとって、ありえないと断じる事は出来ない。

「だったら」

 アヤは魔女に微笑みかけて続ける。

「お礼言わなくちゃ」

「ふぅん?」

 魔女は首を傾げた。

「魔女さんのお陰で、友達ができたんだから」

 魔女は失笑し、呆れたような困ったような顔をして首を振った。

「……嘘よ。貴女みたいな純粋な子に、そんな魔法かけるわけがない」

「えー。でも、魔女さんが魔法使ったかどうかなんて分からないじゃん。使ったかも」

「貴女に対して、魔法は何も使ってないわ。貴女の信頼に誓う。……改めて、これからよろしく、アヤ」

「うん。……ん、フミちゃん、でいいのかな? それともメアリーさんの方がいいかな? っていうか、今更だけど敬語の方がいいのかな」

「今はフミでいいのよ。身体の年齢だと同い年なんだし、敬語もいらないわ」

「そっか、じゃあフミちゃん、よろしくね」

 今度はアヤから、手を差し出して握手を求めた。フミは応じ、握手した。


 学校から三十分程歩くと、二人の家への帰路は、信号と交差点を挟んで別れる。今二人が居る位置から信号を渡って直進するとコンビニエンスストアが、その向かいには新築の一軒家があり、そちらは北。一方南で二人が居る場所の右後ろには古い空き家と思しき家があり、向かいには公園がある。車の通りは少なく、赤渡りする人が多い。

 二人は信号の前で止まり、アヤが名残惜しさを表情だけに留めて言う。

「じゃあ、私こっちだから」

 アヤは交差点を右に曲がって五分歩いた所のアパートに住んでいる。フミは信号を渡ってこちらも五分歩いた所にある二階建ての一軒家だ。フミは「ええ」と言って小さく手を振った。

「またね、アヤ」

「うん、バイバイ」

 アヤは同じように手を振り返して、去って行く。後に残ったフミは、信号はまだ赤だが渡った。チラと振り返ったアヤはその光景を目撃していた。ちゃんと青になるのを待つものだと思っていたから、少しだけ意外に思いつつも、自分も車が来てないなら渡るな、と納得して前に向き直った。


 アヤの家庭では――今では珍しくないが――両親は共働きだ。

 合鍵は持たされているし、両親共に帰宅が遅くなる事だって小学二年の頃からもう三年も続いていれば、すっかり慣れてしまった。誰もいない家に、ただいま、と言わなくなってから二年は経つだろうか。一年前くらいまでは思い出してから小声で言ったりもしていたが、やがて誰かが居る気配がなければ何も言わなくなった。

 ランドセルを居間のソファ―に投げて、冷蔵庫の中からペットボトルのお茶を取り出し、自分のコップに注いで一気に飲み干す。宿題を居間のテーブルでさっさと終わらせて、ランドセルを持って自分の部屋に行く。

 部屋と言っても物置部屋で、洋服は収納ボックスに、本や教科書、文房具は安物の二段だけのスチールラックとダンボールや空き箱に入れている。隅には敷布団とシーツ、毛布が畳まれている。窓は無く、机も無い。照明といえば、むき出しの電球が天井に一個あるだけだ。

 四歳の時にこの部屋を貰ってからずっと使っている。親が入ってくる時といえば、虫が出て退治してもらう時と電球を交換してもらうとき位だ。

 去年、友達だった子に部屋の話をした時にひどく哀れまれたのをよく覚えている。一回ちゃんと親と相談した方がいいと言われ、話をしたら――虫の居所が悪かったのか――父親を怒らせてしまい、あの部屋で満足です、とはっきりと大声で言うまで何度もぶたれた。母親はと言うと、アヤが悪いとばかりに一切口を挟まなかった。

 いつでも寝れるように、ランドセルを置いた後に敷布団を敷いておく。敷き終えて部屋を出ようとすると、玄関の鍵が開く音がした。

「ただいま」

 母親が帰ってきた。

「おかえり」

 部屋のドアを半分開けて、顔だけ覗かせた。母親は買い物袋を提げ、くたびれた顔でため息をつく。

「もう疲れたし、レトルトでいいでしょ?」

 アヤは「うん」と短く答える。昨日はレトルトのシチューで、その前はご飯に載せるだけの冷凍食品の牛丼と、レタスとトマトとキャベツミックスを雑に混ぜたサラダだった。


 テーブルに並んだ、アヤと母親の分のレトルトカレー。お互い、いただきます、など言わずに食べ始める。皿も半分空いた所で、母親が手を止める。

「アヤ、聞いてよ」

「うん」

 アヤは食べながら、話に耳を傾ける。母親は堰を切ったように、仕事の愚痴を次々とアヤに聞かせていく。

 同僚が今度まとめて休みを取りたいからってシフトが増えた事、間に合うわけない仕事任されて案の定間に合わず怒鳴られた事、最近入った新人が禄にシフトに入らないから困っている事。特に上司の人は余程気に食わないのか、話の途中で拳を握ってテーブルに叩きつける。アヤは途中から、一切聞いてない。食べるスピードを意図的に抑えて、愚痴が終わるのを、嵐が過ぎるのを待ち続ける。

 愚痴も一段落したころ、再び玄関の鍵が開く音がする。父親が帰ってきた。

「ただいま」

 居間に来て、スーツのネクタイを緩めながら独り言の様に小さな声で「またレトルトか、たまにはまともに作れよ」と言う。母親は意に介さず、カレーにスプーンを沈める。

「おいアヤ、俺の分用意しろ」

「うん」

「やんなくていいよ、アヤがやったらまた皿割るから」

 父親は舌打ちして、わざとらしく大きなため息をついて「しょうがねぇなぁ」と吐き捨てる様に言って、上着をハンガーにかけてキッチンへと向かう。

 食べ終えたアヤは父親が戻ってくるタイミングを見計らって席を立ち、皿をキッチンに持っていく。

「おい、スプーン」

 すれ違いざまに、父親はアヤに命令する。アヤは機械的に頷いた。

「自分で用意しろよ」

「スプーン位持ってこれるだろ。いくらガキでも」

 両親の会話は、年々攻撃的になっている。アヤは一刻も早く、この場から去りたいと思うが、ひとまず皿を流しに置いて、言う通りにスプーンを持っていく。

「……お前なぁ」

 父親はアヤが持ってきたスプーンを取り上げて顔の前に突き付ける。

「このスプーンじゃねぇだろ?」

 父親がいつも使っているスプーンは、昔懸賞で当てたという大きめのカレースプーンだ。他のスプーンと違い持ち手に文字が刻まれているのだが、アヤには他のと見分けがつかない。

「ほんっと役に立たねぇな。さっさとデカくなって、中卒でいいから稼げよ。ま、こいつが産んだんだから無理だろうけどな」

「ホントに、さっさと自立してくれた方が助かるわ。あんたと別れられるし」

「ああ、そうだな。さっさと出てけよアヤ。いつまでも養ってられる程余裕ねぇんだからな」

「……うん」

 父親は徐に立ち上がって、自分でスプーンを取りに行った。アヤが持ってきたスプーンは流しに投げ捨て、自分のスプーンを取る。アヤはそそくさと部屋へと逃げた。



 家の中は、一人で居られるこの部屋の中でも、いつも緊張感が漂っている。

 眠っている時くらいだろうか、この家で落ち着けるのは。

 歯磨きを終えて部屋に戻り、明日の授業の用意をする。電気を消して、布団に入る。

 幸いアヤは寝つきは良い。すぐに意識が沈んでいく。



 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆



 今日は、布団がマシュマロの様に感じられたと思ったらものすごくゆっくりと体が沈みこんでいく。そのまま、雲を抜けるように布団の下の、何もない暗闇の中へと沈んでいく。どこまでも、どこまでも。胸に鈍い痛みを感じて、胎児のように体を丸めながら手で優しくさすると、すぐに痛みは消えていった。

 やがて上か下かも分からなくなって、意識を閉じる。


 ――じりりりり……――

 ――――じりりりり……――


 アヤはハッとする。気づけば、近所のコンビニの前にいた。コンビニの中には――ガラス越しだからか――顔がぼやけたクラスメイト達が楽しそうに、買い物をしている。買い物しているというよりは雨の日の休み時間中の教室みたいだ、そう思ったのも束の間、アヤは入口の近くにある古ぼけた公衆電話が鳴っている事に気づく。普段は鳴ることのない公衆電話が鳴る、という出来事がアヤにこれは夢だと自覚させた。出た方が良いのかな。そんな心の声が自分の耳元で囁かれる。振り返っても誰もいない。

 恐る恐る公衆電話に近づき、受話器を取った。

「……もしもし」

 囁くような小声で電話に出ると、向こうでは何やら口喧嘩をしているようだった。内容は聞き取れないが、声には聞き覚えがあった。

『――あ、アヤ? もしもし私よ、分かる?』

「フミちゃん?」

『そう、出てくれてありがとう。……ね?』

 向こうで小さく「わぁすごい」という棒読みな声が聞こえた。

「ねぇフミちゃん、今どこにいるの? 会いたい」

 アヤはストレートに、思ったまま口に出した。くすりとフミが笑うのが聞こえた。

『じゃあ、目を閉じて』

 アヤは言われるがまま目を閉じる。

『「こんばんは、アヤ」』

 受話器の向こうと目の前から声がして、目を開けるとそこはいつもの教室だった。

 アヤは自分の席に座っていて、机の上にはテレビドラマでしか見た事がない黒電話が置かれていて、いつの間にかその受話器を持っていた。フミは前の席の机に腰かけて、手には同じ黒電話と受話器が握られていた。彼女は自分が魔女だと主張するかのように、大きな黒いとんがり帽子を――頭に乗せているかような不思議な重力で――被って、首にはペンダントのような懐中時計を提げていた。そして、満面の笑みを浮かべると、受話器を黒電話に戻して机から降りる。アヤも真似して受話器をそっと戻して、顔を上げるとフミの手には何もなくなっていた。

「さぁ、遊びに行きましょうか」

「どこに行くの?」

「そうねぇ、楽しい夢とスリルのある夢なら、どっちがいい?」

「楽しい夢がいい。スリルは現実だけで十分だし」

「そうね、現実はいつでもスリル満点だものね」

 フミは曇っている窓の方へ歩いて行くので、アヤも席を立ってそれに着いていく。曇ったガラスは薄ぼんやりと、その先の景色を映している。

「んで、どうやって開けるのさ?」

 アヤは不意に聞こえた知らない声に驚き、声の方を見る。机の上にいつの間にか黒猫が乗っている。大きな琥珀色の瞳でアヤの方をじっと見つめ、にゃあと鳴くと。

「やぁ、アヤちゃん。はじめまして」

 子供の様な高めの声が副音声のように聞こえてくる。それは間違いなくその黒猫が発した、脳はそう処理する。

「イメージすると繋がるのよ。湖、だとか、学校、だとか。アヤ、何かない? 楽しいところのイメージ」

「それよりも、この子は? 喋ったけど」

「それは家の飼い猫「まお」よ。着いて来ただけだから気にしなくていいわよ」

「気になるよっ」

 黒猫――まおは目を細めて、ふにゃぁ、と鳴く。

「にゃはは。僕はちょっと喋れるだけの普通の猫さ。大体ここは夢なんだ、猫くらい喋るよ」

「それも……そう、かな?」

 まおの、夢なんだ、という言葉が潤滑剤となって腑に落ちる。アヤはそれ以上は気にしない事にして、フミの質問に答えようと想像力を働かせる。

「うんと……楽しい……夢……遊園地、とか?」

「良いわね、遊園地くらいならすぐ行けるでしょう」

「僕、動物なんだけど? 遊園地なんて絶対入場制限かかるじゃないか。神社の境内とかの方が良くない?」

「アンタ、夢の中でまで寝る気ね? ここで寝てなさい。まおの事は放っておきましょ、アヤ」

 フミは手を差し出し、アヤはその手を取った。

「すぐに行けるって?」

「遊園地をイメージしてて」

 アヤは目を閉じて、観覧車をイメージした。一度も乗ったことが無いが、図書館で見た雑誌の表紙や漫画で見たイメージをそのまま頭に描く。するとガラスの曇りが晴れて、遊園地のエントランスが見えるようになる。

「もういいわよ。そして、この窓を超えると――」

 フミは窓を開け、窓枠を乗り越える。アヤも続いてまおも飛び込んだ。


 雲一つない晴天の中、パステルカラーで彩られた遊園地。

 園内は子連れからカップル、ベンチや噴水の周りでのんびりしている大人や子供、皆が一様に表情が明るく楽しげだ。

 アトラクションは観覧車とメリーゴーランドしかないが、それらよりも奥に建っている城が目を引く。

 広い原っぱもあり、そちらではバドミントンに興じる人や寝そべって青空を見上げる人等、思い思いにこの空間を楽しんでいるのが見える。中央の噴水の周りでは、わたあめやドーナツといった食べ物や、色とりどりの風船を売る屋台もある。

「わぁ……」

 アヤは目を輝かせ、フミの手を取って走りだそうとする。

「行こう、フミちゃん! まずはどっちに乗ろう」

「二人で行っておいで、僕はあっちの原っぱでのんびりすることにするから」

 まおはそう言い残して、原っぱの方へ歩いて行く。途中で小さな子供に抱きかかえられ、そのまま連れていかれた。

「どっちも捨てがたいけれど」

 フミは懐中時計の蓋を開けて、アヤに見せる。

「時間切れ」

 懐中時計の文字盤には1から15まで描かれており、長針と秒針だけしかなかった。そして長針はもうすぐ15を指す。

「遊園地で遊ぶのは、また明日ね」

「ええ〜……」

 落胆するアヤを他所にフミは赤い手帳を取り出し、サラサラと何かを記入していく。

「明日、もう今日か。良い物をあげる」

「良い物?」

 アヤは落胆した気持ちを眉だけに残して顔を上げる。フミは手帳をしまうと、両手を広げ。

「アヤ、良い目覚めを」

 パンッ、と手を叩いた瞬間――



 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆



 アヤは目を覚ました。夢の内容はハッキリ覚えている。

 まだ目覚め切らない体を徐に起こし、部屋の灯りを点ける。目覚まし時計は鳴りだす十分前。

 フミが夢の中で言っていた、良い物とは何だろう、と楽しみな気持ちを動力に支度を始める。



 同じ頃、フミも目を覚ましていた。上半身を起こして大きく伸びと欠伸を一つ。

 机の上で寝ていた黒猫も同じく欠伸をして、体を伸ばす。

「おはよう、魔女さん」

 黒猫は、にゃぁ、という短い鳴き声で挨拶をする。

「アンタの事、アヤが見たらどんな顔するのやら。おはよう、まお」

「ぽかーん、てしちゃうだろうね」

 フミはベッドから降りて、朝日が差し込む二階の窓のカーテンを開け、踵を返してパジャマのボタンを外しながらクローゼットへ行く。クローゼットの中から、すでに決めていた一着を取り出して、着替えを始める。まおは机から、椅子を伝って床に降りてベッドへゆっくり近づく。

「それで、昨日枕元に仕込んだアレはなんだったの」

 ベッドの上に飛び乗って、頭で枕を退かし、その下の赤い手帳を出す。フミがまだ着替えているのをちら、と見てから、まおは前足を上手く使って手帳を開く。

 挟まっていた一枚の名刺程の紙切れには円の内側に「5−3教室」という一文を中心に幾つもの図形や細かい文字が組み合わさった、魔法陣のような図が描かれていた。そして挟まっていたページには、ぐちゃぐちゃで意味の分からない円と大小様々な図形が組み合わさった、名刺に描かれた魔法陣に似たものが描かれている。

「夢を楽しむ魔法と、あの遊園地の所で「しおり」を挟んだの」

「本の? ふぅん、しおりねぇ。それにしても、子供よりへったくそだなぁ」

「しょうがないじゃない、時間なかったんだもの。学校で清書すればいいのよ」

「で、それをアヤちゃんにも渡しておくと」

「そう。それであの場所から夢を再開できる」

「あの遊園地ゆめが次もあるとは限らなくない?」

「大丈夫よ。あそこは一度で消えてしまう夢ではなく、夢を見ている本人があの遊園地を意図して閉園させない限り在り続けるのよ」

「なんで分かるの」

「みーんな、顔のある人ばかりだったの。気づかなかった? 一晩で消えてしまう夢の場合はね、顔の無いにせものの方が多いから」

「なるほどね。24時間営業の遊園地か。十五分程度しか夢の世界には居られない、って昨晩君が言った事が本当なら、あのアトラクションの少なさも納得だね。何度もあそこで観覧車に乗っても、最近観覧車に乗る夢をよく見るな、くらいにしか思わないわけだ」

 フミは着替えを終え、姿見で確認を終えると、くるりとその場で回った。

「そういうことよ。さて、それじゃあ今日の小学生ごっこスタートね」

「いやぁ、似合ってる似合ってる」

 まおは目を細めて、煽るようなニヤついた口調で言う。黒猫の顔では殆ど無表情のように見えるが、心なしかニヤニヤと不快な笑みを浮かべているようにフミには感じられる。

「この子の年齢は間違いなく小学生よ」

「そうだね。じゃあ、中身は一体幾つなの」

 まおの問いに、フミは子供がおねだりする時のような、猫なで声で言う。

「十歳♪」

 まおは前足で手帳を閉じながら失笑し、雑に放り投げるように言う。

「一桁忘れてない? さ、来るよ」

 まおはベッドから降りて、フミの足元へ行く。フミは紅潮した顔の熱を冷ます様に咳払いをして、まおとすれ違いながらカーテンを開けに窓際へ。部屋の扉の向こう、二階と一階を繋ぐ階段から足音が近づいてくる。足音は入口の前で止まり、コンコン、と二度のノックの後に声がした。

「フミちゃん、起きてるかい?」

 フミの父親の声だった。

 白沢 文は父親と二人暮らしだった。二か月前に母親を病気で亡くしてから、父親は仕事を続けながらフミの面倒を見ている。温厚で優しい父親だが、最近はやはり疲労の色が目立つ。

「起きてる。おはよう、パパ」

 フミは入口のドアを開けて、父親に挨拶した。

「おはよう、フミちゃん。朝ごはん出来たから、下に降りておいで」

「うん」

「まおちゃんも連れてきてよ。まおちゃんはごはん食べるのが大好きなんだから」

 振り返ってまおを見ると、欠伸をしていた。

 それじゃあ、と言って、父親はドアを開けたままにして、階段を下りていく。フミは机の下に置いておいたランドセルを取りつつふと、笑みをこぼして言う。

「本当に、良いお父様だわ」

 まおがくしゃみにも似た、鼻を鳴らしたような声を出して、目を細めてにゃあ、と鳴く。

むすめに執着しているのさ。本当にあの場で文ちゃんが死んでいたら、彼も迷わず後を追うね」

「私、文ちゃんを演じられている?」

「がんばっているけど、全くの別人だね。気づかないふりをしてくれているんだ。妻を失った上に、娘が娘じゃなくなってしまった、なんて、いくら彼でも耐えられないだろうからね。そういうとき、現実から目を背けるのは間違っていないだろう?」

 そうね、とフミは素っ気なく答えるが、目を細めた表情には不安が表れていた。

「さぁさ、朝っぱらから湿っぽい話をするもんじゃない。空きっ腹に良くないよ」

 まおは半開きのドアから先に出て行く。

「同感ね。朝の気分は雲一つないくらい晴れやかでないと。それにしても、料理のおいしいお父様で良かったわね、まお」

「にゃはは」

 ランドセルを半分背負って、フミは部屋を後にする。その後、出かける間際になってフミは慌てて部屋に戻り、赤い手帳を回収してから家を出た。





 授業の合間の短い休み時間、フミは手帳に描いた魔法陣を、別の紙に写していた。アヤは良い物というのを、いつくれるのか楽しみにずっと待っていた。フミはずっと忙しそうで、声はかけなかった。


 そして昼休み、外は十時過ぎ頃から曇りだし、給食の時間の終わりにはとうとう雨が降り始めていた。

 フミはアヤに折りたたんだ二枚の紙きれを机に置いた。アヤは目をぱちくりさせた。

「これが、良い物?」

「ええ」

 アヤが紙を開いてみると、そこには観覧車をモチーフにした魔法陣が描かれていた。

「綺麗な絵だね」

 もう一枚を開くと、そちらにはフミの手帳に挟まれていた名刺程の紙に描かれた魔法陣と同じものが描かれていた。

「絵じゃなくて、魔法陣なのよ」

「まほうじん……もしかして、これが魔法?」

「それを枕の下に敷いて眠ると、魂が肉体から離れやすくなる頃に魔法陣が作動して、肉体を休ませつつ、生命の集合無意識が作った場所に精神体で入って……まぁ」

 アヤはぽかん、として、目にはクエスチョンマークを浮かべている。

「簡単に言えば、夢の記憶って大抵すぐに忘れちゃうでしょ」

 アヤは少し記憶を辿ってから、うん、と言って頷く。昨夜の夢でさえフミが、良い物をあげる、と言ったことしか思い出せない。それまでだって、楽しい夢も怖い夢も沢山見てきたはずだ。しかしその多くはすでに忘れてしまった。

「それと、既視感デジャブって感じたこと無い? あれは、魂が旅した夢の記憶と重なった時に感じるのよ」

「魂……心は覚えてるってこと?」

「そう。で、その魔法陣を使うと、夢での冒険も現実と同じように思い出として記憶できるの」

「それって便利」

 アヤはそこまで言って言葉を止め、表情を曇らせる。

「便利……だけど、嫌な夢も全部覚えちゃう、ってことだよね」

「そうね。それと、ころころ場面が切り替わったりして情報量の多い夢だと、肉体に戻った時に脳が情報量に耐え切れず、夢から覚めた後しばらく頭痛に苦しむことになる。酷いと記憶が混濁して、自分の寝ていた場所や親しい人の事が分からなくなる」

「楽しい夢だけ覚えてられたらなぁ」

「ちなみに、自分の夢には入れないのよ」

「それが一番気になるのになぁ。じゃあ、行けるところは他人の夢なんだ?」

 フミは頷き、「そう、例えば」そこまで言った所で、二人に近づく気配に気づいて言葉を止めた。

「なんの話してるの?」クラスメイトの女子が二人、立っていた。一人はくせっ毛混じりの短髪でボーイッシュ、もう一人も短髪だが、気弱そうな表情と寝不足故か目の下にくまができてて、足取りもふらついている。

「楽しい夢を見られるおまじないの話よ」

 ボーイッシュな方の目が光る。隣の気弱そうな少女を一瞥し、食いついた。

「それさ、この子にもやってあげてくれない? 気休めでいいからさ」

「ふむ」

 フミは気弱そうな少女を見る。目が合うと恥ずかしそうに目を逸らして、小さくお辞儀する。

「貴女、お名前は?」

「私は田村たむら 朱音あかね

「ええと、そちらの子に聞いたのだけれど」

 朱音は、知ってる、と言ってあっけらかんと笑う。

鹿島かしま歩美あゆみ

「元気な貴女が朱音、慎ましやかな貴女が歩美ね。それで、歩美にもしてあげてもいいけれど、朱音は良いのかしら?」

 朱音は歩美をまた一瞥した。

「私はいいよ。それより歩美がさ、最近、怖い夢ばかり見るんだって。それで夜に目が覚めちゃって、そのまま朝まで起きてるって、ね?」

 歩美はぼぅ、っとしていて、朱音が肩を触れると目を瞬かせて返事をする。

「……あっ、うん」

「ふぅん。歩美、右手を貸してちょうだい」

 歩美はおそるおそる、右手を差し出す。フミはその手を握る。

「目を閉じて、ゆっくり深呼吸するの。私と貴女の呼吸が合わさると――すぅ」

 フミはゆっくりと深呼吸をする。歩美も深呼吸をする。その呼吸は最初はフミの方が早かったが、二回、三回、と回数を重ねるにつれ、呼吸は重なっていく。そして呼吸がシンクロし、三度目の呼吸が合わさった時。

「歩美!?」

 歩美の身体は力を失い、膝から崩れ落ちそうになるのを朱音が止めた。見ると、歩美は寝息を立てて眠っていた。その眠りは深く、朱音が揺すっても目覚めない。

「私も手を貸すから、その子の席に連れて行きましょう。どこかしら」

「こっち。何したの?」

「辛そうだったから眠らせてあげたのよ。今から十五分、ぐっすり眠れるわ」

 昼休みは後十五分程で終わる。歩美を席に座らせ、体育着が入った袋から長袖ジャージを出して羽織らせ、袋は枕にして寝かせた後、フミは朱音に「チャイムが鳴る頃に目覚めなかったら、ほっぺたにくすぐるように「の」の字を書いて。すると目覚める。頼んだわよ、王子様」と指示を出して、アヤの元へと戻る。

「今の魔法?」

「催眠術、倒れそうだったから倒してあげただけ」

「……この紙、あの子にあげた方がいいよね」

「そんなことしなくても、もう一枚描くわ。そうそう、使い方を話して無かったわね」

「枕の下に敷くの?」

「あら、知ってる?」

「うん。さっき言ってたし。前に図書室で読んだ本に載ってた。でもあれには、夜中の0時でないといけない、ってあったような。それから……そもそも願いを叶えるおまじないだったと思う」

「それは別な畑の話ね。まぁとにかく、今日はその紙を枕に敷いて寝なさい。私が迎えに行くわ。それじゃあ私は歩美の分を描いてくるわね」

「あっ」

 アヤはもう少しフミと話をしていたかった。でも魔法陣を描くのならば自分は邪魔になってしまう、と自制心が働いたが、止めきれなかった本心が声として挙がってしまった。フミはそれを察してか、くすりと笑って言う。

「描くところ、見てる?」

「いいの?」

「いいのよ」

 アヤは席を立ち、席に戻るフミに着いていく。フミの前の席では、昨日椅子を借りた女子が友達二人と雑談している。フミが机の中から赤い手帳と名刺サイズのメモパッドを取り出して、席に座る。アヤは机の左側に立って、フミがメモ用紙に魔法陣を描くのを眺める。手帳を開いて、走り書きでぐしゃぐしゃになっている魔法陣が描かれたページを開き、それを参考にスラスラとボールペンを走らせる。

「ボールペンなんだ……」

 羽根ペンで描いていたら、すごく雰囲気が出るのに、そうアヤは思った。ボールペンで描かれたと知ってしまうと、現実的だがなんだか安っぽく感じてしまう。

「羽根ペン持ってないの。それにインクも持ってこなきゃいけないし、乾くまで時間かかるし。ボールペンは楽でいいわ」

「なんか、夢がないなぁ」

「そんなもんよ」

 フミは言って、ぴた、とボールペンを動かすのを止めた。アヤは自分が話しかけたからかと一瞬焦りを感じたが、短い呼吸の後何事もないように再開した。魔法陣は、観覧車をモチーフにしたものが出来上がっていく。

 気づけば、前の席の女子とその友達二人も魔法陣が描かれる様子を見物していた。

「何描いてるの?」

「おまじない、よ」

 前の席の女子は鼻で笑った。

「くだらない」

「ええ、くだらないけれど」

 フミは決して言い返したわけではないが、相手は言い返されたように受け取ったようで、眉を吊り上げる。

「私のおまじないはちゃんと効く。なんなら、貴女にも描きましょうか?」

「いらない」

「そう。夢見が悪い時はいつでも描いてあげるわ。ところで、私貴女の名前をまだ聞いていないわね」

「は?」

「出席を取る時、確か……山根、と呼ばれていたかしら。下の名前は?」

 山根と呼ばれた少女は逡巡し、渋々名乗る。

けい……去年と一昨年クラス一緒だったでしょ」

「クラスメイトの名前なんて一々覚えてないよ……」

 アヤは小声で言った。「山根 恵」の眉間に更に皺が寄り、フミは「そうね」と困ったように笑いながら、描き終えた魔法陣をもう一度確認して、よし、と呟く。

「届けてくるわね」

 フミはそう言って、席を立ち、歩美と朱音の方へと向かう。

「ねぇ、初夢さん」

 恵の友達の一人にいきなり声を掛けられて、アヤは思わず肩を震わせた。

「な、なに?」

「そんな驚く? いや、白沢さん変わったよね、って」

「…………」

 その理由をアヤは知っている。口を滑らせてしまいそうになるのをなんとか堪えて、返事を考える。しかし考えている内に、恵が話し始める。

「なんか気取った喋り方がキモイ」

「ね。ドラマの影響とか?」

「あれが素なんだってさ」

「変なの」

 フミが好き勝手に言われている事に、アヤは苛立ちを覚えたが、何て言えばいいのか分からず言葉が出ない。恵はアヤの事を気にせず続ける。

「前から変だったじゃん。幽霊が視えるとか言っててさ。絶対嘘だろうけど」

「あー、そうそう。去年の校外学習の時に、いきなり何もない所に行って、大丈夫?とかって言いだして先生が困った事件」

「あったあった。皆で笑ったっけね」

 けらけらと、恵の友達二人は笑う。恵は更に続ける。

「あたしさぁ、三年の時にタギ達と一緒にあいつの事からかったんだよ。幽霊が視えるなら、なんて言ってるんですかー?ってね。そしたらなんて言ったと思う?」

 アヤはちら、とフミの方を見る。朱音に魔法陣の紙を預けて、それの説明をしているようだった。

「どうしてそんな汚い言葉遣いをするの? どうしてそんな一方的に面白がるの? どうして皆仲良くできないの? そう言ってる、って言うの」

 友達二人の顔から笑みが消えた。本当に危ない子だと、察したようだ。

「意味わかんない」

「デマカセじゃない? ユーレイならうらめしや〜でしょ」

「顔色一つ変えずに言うもんだから気味悪くてさ。それからずっと無視してたんだよね」

「確かにキモイ、それは」

 その時、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴って、山根の友達は短く挨拶して自分達の席に戻って行く。フミは朱音に歩美の頬に「の」を描くように指示して朱音がその通りにすると、歩美は徐に顔を上げて伸びをした。どうやら元気になったらしい。アヤは自分の席に戻ることにした。

 フミは席に戻る道すがら、また、窓の外に人影を見た。昨日よりもハッキリと苦悶の表情が窺えた。「どうして」と口を動かして目を伏せた。席に着いて改めて見ると、そこにはもう何もいなかった。



 五時間目が終わり、十分休憩が挟まる。フミの元に歩美がやってくる。

「フミちゃん。さっきのおまじないのお陰で気分がすっきりしたよ」

「それは良かったわ。ところで、あまり思い出したくないでしょうから、無理強いはしないのだけれど、怖い夢ってどんな夢を見たのかしら」

「えっ……ごめん、覚えてない」

「そう。そうね、それがいい。おまじないで良い夢が見られると良いわね」

「うん……ありがとうね」

 歩美はお辞儀をして、席に戻って行った。


 六時間目は国語だった。

 フミは、彼女が夢見が悪いのは何かしらの理由があるはずだと推測している。

 夢を見る、とは、健康的な状態であれば肉体から魂が離れ、精神体となった姿――大体の人は現実と同じ、あるいは理想の姿――で、人間に限らないあらゆる魂が存在する「生命」の集合無意識の世界で旅をしている状態だと、魔女フミは知っている。夢の世界は誰かの「常識」と別な誰かの「常識」が混ざり合った混沌カオス

 だが現実の肉体にどこかしら異常がある時は別で、肉体が警告を意味する悪夢を見せてくる。突然歯が抜ける、外の光が眩しくて目が開けられない、楽しい場所や落ち着ける場所にいるのに身体のどこかが痛くて楽しめない、両腕、両脚あるいは片方が切断されるような、そういった悪夢だ。これは肉体の異常を知らせる一種の自己防衛機能だ。

 しかし、歩美は悪夢による寝不足以外では特に体に異常はない。

 あの時彼女を眠らせる為に手を触れた時、フミは――魔女は調べていた。

「えー……では、白沢さん、五行目から音読してください」

「はい。んんっ――」

 座ったまま読もうとして注意を受け、クラスメイトの半数がくすりと笑う。音読そのものは緩急良く、噛むこともなくスラスラと読んだ。

「――……はい、白沢さん音読上手ですね。……ここの行では――」

 席に着いて、フミはちらと歩美の方を振り返る。歩美の目は遠目から見ても冴えている、体調もこれと言って不調はなさそうだ。


 魔女は彼女に魔法をかけたのだ。十五分で約八時間分の睡眠を取るとても便利な魔法さいみんじゅつ




 放課後、昨日と同じくフミとアヤは二人で下校していた。

「あのさ、まだ……幽霊とか見えるの?」

 アヤが切り出すと、フミは目を瞬かせ、アヤの顔を見て話の続きを待った。

「えっと魔女さんじゃなくって、フミちゃんなんだけど、本当に幽霊が視えていたらしいんだ」

「へぇ」

 フミの表情が真剣なものになる。

「それでね、フミちゃんは幽霊の声を聴いたんだって。「どうして皆仲良くできないの?そう言ってる」、って」

 恵はもう少し言っていたが、アヤはそこだけしか思い出せなかった。アヤの話を聞いて、フミはハッとする。

「……なるほど、アレはやっぱり幽霊だったのね」

「見た事あるの?」

 ええ、とフミは言って腕を組んだ。

「恵と話すたび、窓の外に現れるのよね。それで、「どうして」とか「きたない」とか呟いて消えるのよ。今日の表情だと……我慢の限界、って感じだったかも?」

「それってマズくない?」

 まずいわね、とフミは言って、直後に肩をすくめて続ける。

「かといって、私にはどうしようもないわねー」

 アヤはぽかん、と口をあんぐり開けて固まった。

「だって誰かも知らないし、あっという間に消えちゃうし。丑三つ時か霊感のある親しい人か、とにかく何かしらの条件を揃えて、あっちから出てきてくれなければ対処のしようがないわ。そもそも、除霊は専門外だし」

「……魔法じゃ、どうしようもないの?」

「直接対決なら、どうにかできるでしょう。でも今は、どうしようもない。まぁ」

 フミは振り返った。そして、小さく見える学校に向かって言う。

「せっかくだし、調べてみるのも面白いかもね」

 その笑みはいつもの大人びた笑みとは違い、強く興味を惹かれる対象を見つけた子供のようだった。



 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆



 その夜フミとアヤ、そして黒猫まおは昨晩と同じ夢、パステルカラーで彩られた遊園地に来ていた。

「昨日もここに来たんだよね……?」

 アヤは首を傾げる。可愛らしくデフォルメされた動物達が、観覧車のゴンドラに描かれている。メリーゴーランドには七色のペガサスとユニコーン。奥に聳える城に、その側に広がる原っぱや湖。仄かに香る甘い焼き菓子の香りに、春を思わせる温い風。印象に残りそうなものはいくらでもあるのに、まるで記憶になかった。

「覚えてない方が、飽きが来なくていいのかもね」

 アヤの足元で、まおが言った。アヤは「どういう意味?」と聞くが、まおは答えずドーナツの出店の方へ歩いて行く。

「ネコにドーナツっていいのかな」

「夢だし好きにさせておけば。夢で満腹になっても現実でお腹が膨れることはないと分かってるくせに、出店があると真っ先に飛びつく食いしん坊は放っておいて」

 まおは出店の裏に回って、店員のお姉さんの気を引く。気づいたお姉さんはまおにドーナツを与えている。

「それよりも、二つしかないけどどちらか乗る?」

「うん。じゃあメリーゴーランド!」

「ええ、行きましょう」

 アヤはフミの手を引いて、メリーゴーランドへと走りだす。途中、フミはある二人組を見つけた。その二人組はクラスメイトで、悪夢に悩まされていた歩美と、その友達朱音だった。フミは一安心して、笑みをこぼした。


 待ち時間は存在しない。乗りたいと思ってアトラクションの元へ行けば、すぐに乗ることが出来る。これも夢ならではね、とフミは言う。二人乗り用の紫のユニコーンに乗り、ガーリーな曲と共にくるくると周回する。しかし、二人の表情は周りの子供達と比べると幾分浮いている。メリーゴーランドに乗る子供達は一様に楽し気で、保護者らしき顔の無い大人に無邪気に手を振ったりしているが、二人は当然手を振る相手などいないし、なまじ明晰夢のように意識がはっきりした状態なものだから、夢の雰囲気的な「まやかし」が無い為か、ただただ地味なアトラクションで気分も盛り上がらないのだ。

 アヤは、乗り終えてみると思いのほか楽しくなかった事実にがっかりしていた。

「……なんか、微妙だった」

「考えてみれば、二人で乗るのも微妙だったわね。他の子と違って親子連れというわけでもないし」

「うーん、なんだろう。そういうんじゃないんだ」

 がっかりした気持ちはもっと別なものだ、頭では分かっていても言葉にするとなると、アヤは腕を組んで唸る。

「何て言うんだろう……乗る前は、すごく楽しみだったんだ。でも乗ってみたらなんか違った」

「多分、昨日の貴女だったら楽しめたかも。雰囲気に呑まれていれば楽しめるものってあるし。覚めた状態じゃ楽しめないものだったのよ」

「夢の世界を自由に動ける、って、それほど楽しいものじゃないのかな」

「そうねぇ……客観的になってしまうのよ」

「客観的?」

「第三者視点でもいいわ。一歩ないし二歩、離れて物事を見るような感じね。夢の世界を自由に歩くと言うのは」

「さっき言った、雰囲気に呑まれていれば、ってこと?」

「そう。今の私達は雰囲気から少し離れている。だから純粋に、無邪気に心から楽しむという事が難しいの。ただ」

 フミは観覧車を指さして続ける。

「現実を模して創られるのが夢だから、現実と同じく、例えばカップルだったら良い雰囲気になれるわ。ここの雰囲気に呑まれれば、六十歳のカップルも十代の子供同士みたいになる。呑まれなければ少し大人の雰囲気を楽しめる」

「よく分からないけど、乗ってみればわかる?」

 アヤは観覧車を指さす。

「観覧車から見える風景は、きっと寂しいものだと思うけれど」

「それでもさ、乗ってみようよ。私は乗りたい!」

 ええ、とフミは笑んで、二人は観覧車へと向かう。



 ゴンドラが上がるにつれ、景色は寂しいものへと変わっていく。遊園地を囲む城壁の向こうには、草原と地平線だけが広がっている。まばらに低木と丘が見えるものの、人気も動物の気配もない。

「これも、雰囲気に呑まれれば綺麗だって思うのかな」

「でしょうね」

 一つ先のゴンドラが頂点に差し掛かり、中の様子が見えた。顔の無い両親は座っていて、兄妹が下を見てはしゃいでいる。城壁の向こうへは目もくれない。

「……雰囲気ってなに?」

「夢の主が、ここではこういう気分になる、っていう命令的なものね。ここに入ると無意識にその命令に従って、気分が変化するの。気味が悪いかもしれないけれど、悪夢から逃れた先がここなら、気を紛らわせて夢から覚醒できるでしょう」

「ふぅん……じゃあこの夢を創った人は、楽しい気分でいたいんだね」

「そうかもしれないわね」

 外は何も見るものが無く、頂点に達したものの下を見てはしゃげる気分でもない。アヤは座席に座って、退屈を紛らわせようと脚をぶらぶらさせる。ふと、学校での出来事を思い出して声をあげる。

「あ、そういえば。歩美ちゃんも、ここに来てるの?」

「ええ。この夢のどこかで楽しんでいるはずよ」

「そっか。ここなら悪夢に悩まされることもないよね」

「そうね。……っと」

 フミは懐中時計を開く。アヤは座席を立ち、懐中時計を覗こうとしたその時。


 ――ァァァァアア!!


 真下から悲鳴が聞こえた。アヤが窓に駆け寄り、下の様子を見ようとするが、支柱が現場を隠してしまっている。

「時間切れよ」

「えっ、そんな――」

 フミが手をパンッ、と叩く。



 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆



 アヤは体を起こした。夢でのことは、今度はしっかり覚えている。メリーゴーランドに乗って感じたがっかり感、フミと交わしたよく分からない会話。そして最後に聞いた悲鳴。すべて、昨日の晩目の前で起こっていた事のように感じる。悲鳴の原因を確かめられなかったモヤモヤが気持ち悪いが、アヤは学校へ行く準備を始める。どうにか確かめる術がないか、フミに聞かなければならない。



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