102 もふもふ(イケメン)
「あの、ところで、レオ君? 君のその手、どう見ても蹄――」
「ああ、そうだった! 近頃は妙な病気が流行っていて、握手は厳禁だったな! ついいつものクセでやってしまった、すまなかった!」
と、レオは俺のツッコミをさえぎり、俺からすぐに離れてしまった。そして、またすぐに何か液体の入った小瓶を口にくわえて戻ってきた。
「こういうときは、酒で手を清めるといいらしいぞ」
「そ、そうね。こういうときの手指の消毒はアルコールか次亜塩素酸水よね……」
とりあえず、素直にそれを受け取り、手を消毒した。まあ、人畜共通の感染症とかもあるしい?
「ところで、お前はなんという名前なのだ?」
「ああ、トモキ・ニノミヤだが」
「そうか。名前だけではなく、名字もよい響きだな」
黒ヤギさんは、フルネームを教えた俺に、何か敬意を表したようだった。ああ、そうか、確かこのルーンブリーデルって世界では、地球と違って、名字ってものにあまりこだわりがなく、名前だけで暮らしてる連中も多いんだっけ。名字があっても、人に名乗るときは名前だけとかザラだしな。だからまあ、名字までわざわざ教えた俺に対して、今みたいな黒ヤギ君の反応ってわけだ。
なお、日本だと教師とかの呼び方は「田中先生」だったりするが、こっちだと名前+肩書で「リュクサンドール先生」とか呼ぶのが普通だったりする。
まあ、しかし、そんなことより今はだな……。
「レオ、お前、本当にこの学院の生徒なのか?」
「もちろんだが」
レオは実に堂々としたものだ。どう見ても黒ヤギなのに。
ただ、よく見ると、普通の黒ヤギとは外見はいくらか異なっていた。まず、大きさ。ヤギにしては妙にでかい。ポニーぐらいの大きさだ。また、頭に生えている二本のカールした角の間に、もう一本、まっすぐに生えている角があった。さらに、胸元には×印に白い模様が入っていた。瞳は琥珀色で、草食動物らしからぬ知的な光をたたえていた。
もしかして、コイツ、ただのヤギじゃなくて、モンスターの類なのか? モンスターの教師もこの学院にはいるわけだしなあ。
と、俺が小首をかしげた瞬間だった。
「おーい、レオ! いるかー?」
一人の男子生徒が扉をノックしてきて、こっちが何か言う前に部屋の中に入ってきた。
「実はさー、明日までの課題の、ここの問題がわかんねえんだよ。お前、もう終わってるだろ。ノート写させてくれよ」
男子生徒は実に親し気な様子で、レオにノートを差し出している。見たところ、こっちはヤギでもなんでもない、普通の人間のようだ。
「何を言っている。課題というものは自力で解いてこそのものだ。俺のノートを写させることはできんな」
レオは実につれない態度だ。
「えー、頼むよ、マジで。俺、ほんと、全然わかんねえんだよ」
「そうか。では、どこがどうわからないのか教えてもらおうか」
「え?」
「ノートを写させることはできんが、解を出すための手助けならしてやらんこともない」
「お、勉強教えてくれるのかよ、サンキュー!」
というわけで、なぜか唐突に俺の前で、黒ヤギさんは男子生徒に勉強を教え始めるのだった。床の上にノートと教科書を広げて。
やがて、すべての問題がすっきり解けたらしく、
「サンキュー、レオ! お前、マジ頼りになるわ!」
男子生徒は満足げな顔で黒ヤギに礼を言い、部屋を出て行った――って、ちょっと待てい! 俺はあわてて部屋を飛び出し、廊下でそいつを呼び止めた。
「お、お前、なんであんなやつに勉強教わってんだよ?」
「そりゃ、俺と違って頭いいからに決まってんだろ?」
男子生徒は不思議そうに首をかしげる。
「いや、だからって、なんであんな黒ヤギに?」
「黒ヤギ? なんのことだ?」
「え、いや、だからレオは黒ヤギだろ? どう見ても――」
「はあ? レオのどこが黒ヤギだよ? 少しも似てねえじゃねえか」
男子生徒はとたんにおかしそうに笑った……って、あれ? あれあれ?
「もしかして、お前にはレオは、ヤギっぽく見えてない?」
「当然だろ。どっちかというと肉食獣系だろ、あいつは」
「に、肉食獣系?」
「どう見ても、あいつはそういう、ワイルド系のイケメンって感じだろ。実際、女子には超人気あるみてえなんだせ。うらやましいよなー」
男子生徒はそう言うと、「じゃあな、俺急ぐから」と、俺の前から去って行った。
「女子に人気のワイルド系イケメン、だと……?」
おかしい。あんな黒ヤギがそう見えるはずがない。癒し系ならまだわかるんだが!
俺はそこで、寄宿舎内をうろついている他の男子生徒たちにも、片っ端からレオの容姿について尋ねてみた。すると、みな同じように、レオがヤギには見えていないようだった。そう、俺以外の人間の目には、レオは人間の男子で、しかもワイルド系のイケメンとして見えているらしいのだ。
そういえば、部屋に入る前に、あの呪術オタの教師は言っていたな。俺にだけは、彼の姿が少し風変りに見えるかもしれない、と。つまり、あいつは、なんで俺と他の生徒とで、こんなふうに見え方が違うのか知ってるってことか?
そこで、俺はすぐに寄宿舎を出て、学校に戻り、一階の職員室に乗り込んだ。その窓際のほうを見ると、確かにリュクサンドールの姿があった。ルーシアの言っていた通り、窓際族で間違いなかったようだ。職員室の窓からは室内に陽光が差し込んできていたが、やつの机の前の窓だけは厚いカーテンが引かれており、薄暗くなっていた。そして、その薄暗い席で、何か書類仕事をしているようだった。
「あの、先生。レオ君のことで話があるんですが!」
俺はすぐにその薄暗い席に近づきながら言った。周りの教師たちがそんな俺の剣幕にぎょっとしたようだったが、
「あー、はいはい。彼のことなら後で話しますから」
肝心のリュクサンドールはいかにもめんどくさそうに俺をあしらうのだった。なんだコイツ? 俺は瞬間、カチンときた。
「いや、後でじゃなくて今話しましょうよ」
俺はただちに、やつの目の前のカーテンを全開にした。そして、ヤツが苦手な陽光を突然浴びてひるんでいるスキに、その長身の体を肩にひょいとかついで、職員室の窓から外へ、学校の中庭のほうへ飛び出した。