11.運動しましょう3
恐怖は生物にとって必要不可欠な感情だ。
恐怖とはつまり、自身に危険が迫っていることを知らせる警告。防衛本能。
心拍数を上げ、体内に巡る血流を速めて、即座に身体がその恐怖から逃れられるよう態勢を整える。恐怖を正しく認知出来れば、一時的な身体能力の向上と言っていいだろう。
……なぜこんな話を始めたかって?
「紫瞳くん、大丈夫?震えてるみたいだけど……」
「ダイジョブ」
俺の隣に恐怖の対象(夢有亜紀)がいるからだよぉ!
待って、何でナチュラルに俺の隣を走ってるの?
確かに男女同時スタートではあるけど、男子が女子と一緒に走るってある?体力的にさ。
そもそも長距離走は個人記録だ。しかも今回は計測。ジョギングじゃないんだから、各々が自分のペースで走るべきじゃないのかな?
何を考えているんだ……夢有亜紀……!?
いや、この際何を考えているかはどうでもいい。
一番の問題は、『夢有が俺の隣を走っている』という事実だ。
この長距離走は校庭ではなく、この高校校舎を外周する形で行われる。だから隣を走られても、他の生徒の妨害などにはならないが……
早くも息が上がり始めている隣の夢有をちらりと見る。
「はぁっ……はぁっ……」
見えるんだよなぁ……!走っている反動によって、彼女の胸元で揺れているあるものが……!!
……もっと詳しく言い表せって?
擬音で表すとポヨンポヨンですね、はい。後は想像してください。
いやね?いくら視力が低いと言っても、目が見えない訳じゃないんですよ。ただ限りなく見えづらくなってぼやけて、他との境界線がなくなって見えるだけで。
遠くなら問題ないよ。でも隣という近さで走られたらね?動いているのが絶対に目に入る訳ですよ。動いているものを目で追う、これは生物として正常な反応なのです。
あと忘れてるかもしれないけど、俺は男の子だからね。健全な男子高校生。
だから何が言いたいかっていうと……勘弁して下さいよマジで。
はっ……!まさか俺の隣を走っているのは、そうして俺の集中力を削ぐために……?
……何でもいい。とにかく、彼女の隣を走り続けたらよろしくないことになるのは間違いない。桂音も言っていたが、わざわざこれ以上変に注目される必要はないんだ。
ということだ。
残念だが、俺はペースを上げて彼女と距離を取らせてもらう……!
「はっ……はっ……はっ……」
「はっ……!はっ……んっ、はぁっ……!」
……
「はっ……はっ……」
「はぁ……っ!はぁっ……!ん……!」
……
……何でついてくるのこの子!?
いや、同じコースを走る長距離走だから、ついてくるのは当然だよ!?でもずっと俺の隣をキープし続けているのはどういう訳!?
君、走るの苦手って言ってたよね!?
俺も運動部とかには敵わないけど、自主的に健康維持のための走り込みとかはやってるのだ。それなら視力が低くても関係無いし……それなのに、男の俺と同じペースって、男としてショックなんですが。
「はぁっ……!んんっ、ふぁ……っ!ふ、んんんっ……っ!あ、は、あぅ……んんっ……!」
そのあえg……ゴホンゴホンっ!息切れ止めて!それも隣で!
どう考えても普通の息切れの仕方じゃないでしょ!?『んんんっ……っ!』って何!?それちゃんと呼吸出来てるの!?
違うから!
『運動しましょう』ってそういう運動じゃないから!俺は真剣に長距離走をやっているだけなんだっ!
ううっ……!誰か助けてくれ……このよく分からない状況を……!
「はぁ……っ!はぁ……っ!は、こほっ!こほっ……!」
「……!」
……どう考えても普通の息切れの仕方じゃない、か……。
「夢有、無理、すんな……っ」
「ふえ……?はあ……っ、はあ……しど、くん……?」
俺は走るのを止めて、歩きに変えた。
夢有の肩に手を置き、彼女を走るのを止めさせて。
「俺が見たって、身体がガクガクに、なってたぞ。それにその呼吸じゃ、ぶっ倒れる。無理しすぎだ」
荒い呼吸のせいで、言葉が切れ切れになってしまった。
……この判断は、俺の自分勝手なものだ。もしかしたら彼女は純粋に、この長距離走を限界まで頑張っていただけかもしれない。だとしたら、それを無責任に邪魔して止めたことになる。
だけどもし……仮に、彼女のこの行動が、無理に俺に合わせたものだったとしたら。
その理由は分からない。それでも、もし。もしそうならば。
夢有にそんなことしてほしくないし……させたくない。
「しど……く……はぁ……はぁ……こほっ、こほっ……」
「まともに呼吸出来てないじゃないか……とりあえず歩こう。急に止まるのはよくない」
「う、ん……はぁ……はぁ……」
「気持ち悪いとかないか?俺じゃ顔色は分からないし……」
「だい、じょうぶ……はあ……はあ……」
走りを止めた今になって、身体が暑くなり、汗が流れる。
聞こえるのは、街中の雑音と二人の呼吸だけ。そういえば他の生徒はどうしたのだろうか。もしかして俺ら最後尾?
「紫瞳、くん……ごめんね……迷惑、かけて……」
……正直、夢有が何を思ってこんな無理をしたのかは分からない。最近の彼女の言動さえ理解出来ていないのだ、分かるはずもない。
ただまあ、学年一の美少女とも言われる夢有を、疲労からバテバテにしたくもないし……。
「……いいんじゃないか。友達なんだし」
「……うん……ありがとう……えへへ……」
なぜ彼女が可愛らしい声で笑ったのか。
それもまた、俺には分からない。
そんなこんなで、どうにか完走?した俺と夢有。
夢有はやはりというか、顔色が随分悪かったらしく、すぐにジャージ先生の判断で保健委員が保健室に連れていった。
そして長距離走のタイムは散々かと思いきや……俺たちの後ろにも半分ほどの生徒がいたらしい。俺たちは途中から歩いたというのに、何をしていたのか。
「あの空間に近づけなかった」
「亜紀ちゃんも辛そうだったけど、しどっちがいたし、遠くから見守ることにした」
真人と桂音が続けてそんなことを言っていた。意味が分からん。
とにかく、やっと体育が終わったのだ。
早く着替えて涼みたい……
「あ~、紫瞳~、ちょっといいか~」
解散した校庭で、俺を呼ぶ声。
……あの派手なジャージはジャージ先生だ。ホント分かりやすくて大好きです。
「何ですか?夢有のことでしょうか」
「いや、夢有ちゃんは後で私も様子を見に行くし大丈夫。それよりちょっと……提案があってね」
「……提案?」
何の話だ?
夢有と言い、真人と桂音と言い、今日はよく分からないことが多すぎる。
「紫瞳さ、風紀委員会に入ってみない?」
「……はい?」




