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メジャーに入ると途端に誹謗中傷の嵐になる!これはどこの業界でも同じである。

本来、これはアムパサンドさんにやってもらおうってことで決めてたんですが、、、


やっぱりねえ、、


(&・_ゝ・&)<思い入れのある人「だけ」がやればいい、、あなた以外には思い入れのある人はもういない、、突き放すようだけどそういうこと、


っていわれたので今日はせみころーんさんですー。どーも。ととて。


昨日、クシシュトフ・ペンデレツキさんが亡くなりました。


私のおとおさんが留学中に必死で図書館を駆け巡り、彼の大きなフルスコアを何十冊も積んで「全部ひとり占めでも誰もなんにも言わないいいガッコや、誰も読まんもんえーやん」と言ってた日々。結局ガッコにペンデレツキ先生は来なかったんですが、もしかしたらと抜き打ちレクチャーに備えていたのです。


おかあさんは、、ペンデレツキのなんかの交響曲のオケメンとして乗ったんじゃなかったかな。「よくわからない曲だった」「一年で忘れた」・・・おいおい何の曲だったのやら。


シャローネク、セロツキ、バイルト、ブロッホ、シェッフェル、ルトスワフスキ、コトニスキ、グレツキ、チウチゥラ、キラール、キジエレフスキ、トマシュ・シコルスキ、カジミェシュ・シコルスキ、ニコデモヴィツ、バチェヴィツ、マラフスキ、ボグスワフスキ、マフル、サヴァ、全員もういません。


残されたのはクレンツとエシュテニィだけ。前者の本業は指揮、後者はピアノで、作曲は副業見たくなってしまってまして、作曲家という認知は低いです。


ポーランド楽派で、現役の作曲家はもういません。ただポスト・ポーランド楽派にバルギエルスキ、ボルコフスキィがいますが、もう彼らも80代。


なろうの読者には、なぜここまでポーランドが現代音楽の作曲家に手厚かったのか、その理由を説明する必要があります。


ソ連のスターリンが死ぬと、ルトスワフスキは開口一番「スターリンは死んだ」と発言、ポーランドとソ連の関係がちょっと冷え込んだんじゃないかと思われるほどの挑発を行いました。


これは、もうソビエトの影響は絶対に受けないぞ、という意思表明でした。


しかし、ポーランドは西側諸国とは違い、社会主義国家でした。社会主義ということで、国民全員へのベーシックインカムは非常にわずかですが、ありました。


つまり、ポーランドを離れない限り、生活の保障はされる、ひどい貧乏かもしれないが、死ぬことはない。


そこで、ピアノやヴァイオリンのような手のかかる楽器の演奏は富裕層にお任せして、そうでもない人はすべて作曲を目指しました。


しかもポーランドは一応ヨーロッパでしたので、作曲のコンクールやフェスティバルに乗り込むことは日本ほど苦ではありません。


こうして1960年代から怒涛の総攻撃といえるものが始まりました。どこのフェスティバルにもポーランドの作曲家がいるというのはすごいことでは、とまじめに評論される時代でもありました。


イギリスとアメリカはティペットやジョン・ケージとか一部の変人がやってるだけで全体としては乏しいし、やっぱり資本主義の敗北だ、なーんてこんな人もいたくらいです。


その音色は強烈に効きました。ぐっしゃーとトーンクラスターをデザインするだけで、クセナキスとは違った響きになりえる、、これで皆さん特攻したわけです。


しかし


1970年代に入ると前衛音楽への攻撃が無視できないものになってきました。あと、ポーランド楽派の作曲法が攻略され、全人類の共有ソースになってまいりました。


おそらく、ポーランド楽派は今のインターネット社会なら即時に分析されてあっという間に賞味期限切れ、あるいは戦力外通告だったのでは、という評論も見かけますが、、今のクライドラーが進めるコンセプチャル作曲だって2010年から10年持ちましたし、あんま変わらなかったと思います。


いったん攻略されてしまった作曲法は、ほかのひとがやると「またあれかよ」。


なろうの読者の中学生ならだれでも知ってる「またマリオかよ」です。これとまったく同じです。いつでもどこでも同じです。


「おいおいまたあれかよ」と呼ばれて、一番過敏反応を起こしてしまい、木こりになったり、宣教師になったり、指揮者になったり、文化人として講演を行ったり、と「またあれかよ」と呼ばれることだけは全力で避けていたのがペンデレツキでした。


ルカ受難曲以降は、秒数をスコアに書き込む記譜法すら破棄して、完全にクラシックの記譜法の枠内だけで作曲するようになりました。


1980年代はまだ社会全体が新ロマン主義の影響下だったので、さほど悪口も目立たなかったのですが、1990年代に入るとその作曲姿勢へ批判、、、というよりは大音量のブーイングが寄せられるようになりました。


ここで忘れてはならないのは、「大ブーイングを受けた作風でも、ひっこめることはなかった」ことです。


どうしてあんな古色蒼然とした作曲法にこだわったのでしょうか。


それは「作曲は人の役に立つもの」という信念があったからです。この辺に気が付いている日本人は少ない。


前衛音楽の役に立った初期、エリート演奏家の役に立った中期、合唱業界の役に立った後期、何らかの形で彼の音楽は役に立っていました。


私の音楽が役に立つかどうかはわかりません。


けれども、彼は「自分の音楽で人生が豊かになっていただければ」という東方カトリックの教義を唯一守りました。その辺がポーランド楽派としてSchott入りできた最大の要因ではないでしょうか。

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