課金の更新に合わせた作品展開の山場の調整等も含む熾烈な競争
おーい!いきなり新年早々ごついネタを、、って感じのせみころーんさんですーどーもーととととととてててっててて。
中国の文壇はいったい何を考えているのか、、ってとこでしょ。普通の日本人にとっては。
こういう国がノーベル文学賞とかもらえますかってとこですよ。でも、Mo Yanさんはもらったのか。でも、あれは私小説ではなくとも、実際の中国で起きた悲話をもとにした創作だから。それだと取れる。
そういうのじゃない話で、なんかいい小説ってあるのか?ってことです。
昨日はおせちだった分、今日は反動でジャンクフードを買い込んできたころーんさんは「作品展開の山場の調整ってのは滝沢馬琴ですらできなかったんじゃ」って言ってますけど、馬琴がやってたのは単なる引き伸ばし。でも完成させただけすごい。あれが未完ならとっくに文芸史から落ちてます。
引き伸ばし芸ってのは日本にあったみたいです。こういうのは中国では絶対に受けません。
共産圏ってのはソ連もそうですが、長ったらしい話を「うざい」ってすぐ切ります。役人の教育程度が低かったのかなあ?とにかく彼らは徹底して「人の話を聞かない」人たちでした。
そのため、ソ連はあっさりとなんでもダイジェストにする慣習のようなものがはやりました。ミャスコフスキーは交響曲第27番の第3楽章でスケルツォとフィナーレを混合させて一つにするなんて離れ業をやっちゃってますが、こんなの西洋のどこにもありません。スケルツォはスケルツォでしょ。そんなの。
ロシアになってからはながーくくどくどくどってのがちょいと復活したような気がしますが、ソ連時代は非常にコンパクトな在り方でした。シチェドリンのカルメンもおいしいとこだけの「組曲」にされてしまている。
そのくせ弦楽器は16型を要求するという、非常に不可解な時代だったのです。ショスタコーヴィチは18型か。すごい多いですよね。
ソ連では大オーケストラの伝統が残っていることを証明したかったのでしょうか?この大編成の弦に固執した理由は今でも謎です。
一度共産圏になってしまうと、非常に不可解なルールが、なかなか元に戻らないってのはあるかもしれませんねえ。
共産圏になっちゃうと、人間の創作の在り方に制限がかかるため、かかったなかで文体を調整しないといけないわけでしょう。
それでー、先進国はどう思うかってことですよね。まるで学芸会の発表と変わらんのではないかなと思うんですよ。
最近の中国の作曲家、それも1990年代生まれあたりからは相当強い人が出てきているそうなので、作曲の世界は一安心だと思います。しかし、彼らは西洋で自由を謳歌した例外です。
中国の文壇の誰一人として、自由を謳歌した例外はいません。
課金の更新に合わせた習近平への忠誠度の変化によるマルチエンディング、これくらいでしょ。今の中国人がやりそうなのは。
これはあるんじゃないかな。でもこういうの見てると「中国という国家は何でこう文学にまでみっともない恥をさらすのか」ってのがわからないんですよねえ。
田舎の滞在経験が比較的長かったすらあっーしゅさん、、私の滞在経験すら超えるんですが「田舎の文壇がちょっとだけ中国の文壇と似てる」っていうんですよ!
「違う点は課金があるかないかだけ。ご当地ネタで書くってのは確かに存在した」と。へー。
「よけいおもしろくない」といまさっきポテイトゥチップス (うすくないしおあじ) を食べ終わったころーんさんが言いました。
いや、でも、、
当人同士は面白がってるんだから、、それはそれで、、、ってことですかねえ。。。
意外にも共産圏の文壇というのは、田舎のアマチュアを救済したのかもしれませんね。なぜかというと平等ですからね。党に忠誠を誓うってのだけ満たしてりゃあとは何とでもなるわけでしょ。
目標があるから到達してくださいさあどうぞってことでしょ。
それだと、今の中国のクラシック音楽がああなのもぜんぶ納得がいきますよそりゃ。目標を満たせってのがまずあって、個人の意思は二の次なんですよね。中国版社会主義リアリズムといってもいいかもしれない。
そういう国、、実は日本も50年前はそうだったんですが、そういう国は海外の文献その他を絶対に万人に教えないんですよね。しっててよませないとかいうの。
でー、弟子だけに読ませて、その弟子に勝たせるとかいうやつ。そういう業界が日本には確かに存在しました。
今はきれいさっぱりとなくなってしまい、音楽評論の賞も一切盛り上がらないというのは、こういう共産圏時代が尾を引いているからでしょう。天に唾すると降ってくるんですよ。
まだ中国は「振ってこない」からあのようにふるまっているのだ、そう思うことにしてます。こんなのなろうの読者ですらない小学生でも気が付くんじゃないでしょうか。精神の成熟とは難しいものですね。