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緋奈との喧嘩が続いたまま迎えた朝。
今日も緋奈は、弁当を作ることなく一人足早に家を出たと母に聞き、俺は憂鬱な気持ちで制服に着替える。
時間がたてば、なんて淡い期待は泡沫に消え、状況はむしろ悪化の一途を辿っている。
「ブラコンは嘘だな……」
緋奈の機嫌をどう直せばいいのか……。一晩考えてもいい案は思い浮かばなかった。まず話してもらえるところから始めないとな……。
気持ちが晴れないままリビングに下りると、テーブルの上にお金が置いてあった。いまさっき仕事に向かった母さんがお昼ご飯代として置いていったのだろう。
しかし今日は、奏が弁当を作って持って来てくれるのでこのお金は受け取れない。
「言ってなかったな」
「なーにが」
「っ⁉︎ ね、姉さんか、びっくりした。起きるの早いね」
「なんか目が覚めちゃって」
ふにっと柔らかい感触が腕を襲ったあと、華やかな匂いが鼻腔をくすぐる。姉の茉里が後ろから抱きついてきたからだ。
朝のこの時間に姉さんと顔を合わせるなんていつぶりだろう。
と、じーっと目を合わせた姉さんが抱きついたままぽんっと手を頭に乗せてくる。
「拓人大きくなったね」
「ま、まぁ。急にどうしたの? それに早く離れてほしいんだけど……」
姉とはいえ、この密着度はよろしくない。
平静を装いつつ腕から姉さんを剥がそうとしてみるも、まるで磁石のように姉さんは離れようとしない。
昨日も夜遅くまで飲んでてまだ酔いが覚めてないのだろうか……。最近多すぎるだろ、飲み会。
「何センチになったの」
「この前測ったとき174だったよ」
「うわー成長したなー。褒めてあげる」
乗せた手を撫でるように動かす姉さん。俺はされるがまま姉さんの気まぐれが去るのを待つ。お酒は程々にしてほしいな……。
「それでー、言ってなかったって何のこと?」
数秒後、腕から離れた姉さんは椅子に座りながらそう聞いてくる。
「このお金母さんが置いて行ったんだけど、今日いらないんだよ」
「何で?」
「……彼女が弁当作って来てくれるから」
「……ふーん。優しい彼女だね」
聞いてきた割には、つまらなさそうにそっぽを向き、背もたれに体重を預ける姉さん。
うーんと伸びをすると、薄着のおかげでそのスタイルがより強調され目のやり場に困ってしまう。
朝から姉さんと自分の彼女のことなんて話したくない。見るからに興味なさそうだし。
テーブルに両肘をついて手を握り、そこに頬を乗せた姉さんは、微かに笑って俺の表情を覗き込んでくる。
ほんとこの人は一挙一動も洗礼されて綺麗だ。とても俺に同じ血が流れているとは思えない。むしろ流れててほしくなかったけどな……。
そんな現実から逃れるため姉さんから視線をそらし、ソファに置いてあるカバンへ手を伸ばす。
「あれから緋奈と話したの?」
「……いや、話せてない。姉さんは緋奈のこと慰めてくれた?」
「一応ね。でも、緋奈はまだ子供だから。私と一緒で」
姉さんは自嘲気味に言って小さく笑う。
「姉さんが子供って……。子供って言うなら俺が一番子供な自信がある」
「拓人は……大きくなってるからね」
「身長だけだけど。じゃあそろそろ学校行ってくる。お金は姉さんが預かっといて」
「わかった」
カバンを肩にかけリビングから出ると、少し遅れて姉さんが玄関へ見送りに来てくれた。
普段はこんなことするような人じゃないはずなんだけどな……。何かあったのだろうか。
「何?」
そんなことを考えながら呆けていると、腕を組んだ姉さんに軽く睨まれてしまった。
「あ、ご、ごめん、行ってきます」
「ね、拓人」
慌ててドアを開けると、ぬるい空気が頬を撫でる。
姉さんに呼び止められ肩越しに振り返ると、姉さんは何かを言いかけてやめてしまった。
それを誤魔化すかのように、玄関脇の傘立てから傘を一本取り俺に差し出す。
「今日午後から雨だって。持って行ったら?」
「……ありがとう。行ってきます」
「行ってらっしゃい」
空を覆う雲はまだ雨を降らす様子はない。
手に持った傘を一瞥して、俺は足早に住宅街を進んでいく。まるで、昔に戻ったような姉さんのことを不思議に思いながら。
午後より少し前に降り出した雨。昼休みになるとその勢いは増したように思える。
「拓人君。お弁当持ってきたよ」
聞いてなかった先程の授業の教材をカバンに直していると、奏が俺の席にやって来た。手には弁当が入ってるであろうバックと水筒を持っている。
「すまんな荷物増やして、重かっただろ」
「ううん全然気にしないで。どこで食べよっか」
「そうだな……」
奏と俺が弁当を食べるとなったら、やはりあの非常階段だろうか。
しかし今日はあいにく雨。一度雨の日にあの場所で一緒に食べたことがあるが、そこそこ暗かったよな。せっかく奏が作ってきてくれたのだ、明るい場所で食べたい。
なら昨日と同じ食堂? いや、二日連続はさすがに俺の身がもたない。なぜ奏や横山はあの大衆の視線が気にならないのか。俺はやっとクラスメイトたちの視線に慣れてきたところだと言うのに……。
「あー、ならここで食べるか」
「うん。拓人君がいいなら。ここの席借りていいのかな?」
「いいんじゃないか?」
俺と奏が付き合っていることは、クラスに周知されている。ならわざわざ教室から移動してこそこそする必要もないだろう。
それに彼氏彼女で昼飯食べるって普通……だよな?
「えーと、これが拓人君のお弁当で、こっちがご注文の煮物だよ。お弁当箱大きいのなかったから、ちょっと少ないかもだけど」
「文句なんて言える立場じゃないからな」
前の席に座った奏から弁当を受け取る。
包みを解くと小さめの弁当箱が顔を覗かせた。どうやら奏が使っている物と同じでそれの色違いのようだ。
「可愛いな」
俺に似つかわしくないサイズ感と柄だ。片手で簡単に持ててしまうほど小さい。中身も野菜中心のおかずと白米に分けられていて、見るだけで健康になりそうだ。
こんなに美味しそうな弁当を目の前にしたらもう我慢なんてできない。
「食べてもいいか……って、どうした」
と、向かいに座る奏が前髪を触りながら俯いてしまっている。髪のかかった耳は驚くほど赤い。
「な、なんでもないっ。どうぞ召し上がれ」
「お、おう……」
奏の仕草に違和感を覚えながらもいただきますと手を合わせ、まずは煮物に箸を伸ばす。山芋の粘り気、ニンジンの甘さ、しいたけの食感、どれも味が染みていて美味いの一言に尽きる。
「美味い。お金払ってもいい?」
「い、いらないよ……。拓人君が喜んでくれるだけで私は満足です」
「そうか……。お店出したら絶対教えてくれな、通うから」
「……別に通わなくてもいいのに」
褒めたつもりだったのだが、奏は不服そうに頬を膨らます。この前と同じ褒め方はダメだったか……。
あのときの煮物も美味しかったけど、今日の煮物はあのときの煮物よりずっと美味しくなったような気がする。きっと何度も練習したに違いない。
そんな奏の努力に応える方法は、一つしかないのだ。
「美味しいな。ほんと」
緋奈も言ってた。作った料理を美味しいって言ってくれるのは嬉しい、と。
俺は料理ができないからなぁ。これしか言えないのが心苦しいところだ。
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