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昼休みを知らせるチャイムと同時、教室から数人のクラスメイトが姿を消した。
学校の近くにあるパン屋さんから届けられる焼き立てのパンを求め、全学年の生徒が昇降口付近に設置させる売店へこぞって押し寄せる、毎日恒例のパンダッシュと呼ばれる現象が起きたからだ。
「……そんな美味しいのか」
いつもなら気にもとめない見慣れた光景なのだが、今日はある事情により、美味しいと噂のそのパンに興味を引かれた。
「ちょっと見に行ってくるか」
しかしその興味も昇降口に足を運んでみれば、一瞬で失われてしまう。
パンを求める生徒で出来た長蛇の列。最後尾らしき人が『ここが最後尾』と書かれたプラカードを掲げていて、お盆と年末に行われるとあるイベントを連想させた。行ったことないけど。
こうなるからあのダッシュなのか……。ここはおとなしく食堂でご飯を食べよう。
「お、たっくんがこんなところにいるなんて珍しい」
「横山か。まぁちょっとな……というか、パン買えたのか」
「ん? 当たり前じゃん。買うために来たんだし。たっくんは?」
「俺は買いに来たわけじゃないからな、今から食堂だ」
と、パンを諦めた俺にパンを勝ち取った横山が話しかけてきた。この列の長さでもう買えたと言うことは、早い段階で売店に並んでいたのだろう。
横山さんどんな速さで教室を出たん? 俺よりも後ろの席だから知らんけど……まさか前日の夜からとかじゃないよね?
「へぇ。いつも弁当なのに」
「今日は食堂の気分だったからな……。いや数日……下手したら数週間そんな気分が続くかもしれない……」
横山にありもしない疑いをかけていると、心の傷に塩を塗られた。
その弁当を作ってくれてる緋奈と喧嘩したからな……。きっちり俺の分だけ作ってなかったよね。普通に泣いたよね。今日から晩飯も危ないかもしれない……。
「ふーん、じゃあ私は一旦教室に戻るから」
「おう……」
興味なさげに相槌を打った横山の背中を見送って食堂に来た俺は、カツカレーの食券を握りしめ、受け渡し口へと並ぶ。
さすがは食堂のおばちゃんたち。見事なコンビネーションでカツカレーがあっという間に出来上がった。
「あら見ない顔だね。初めてかい?」
「食べるのは初めてです」
「そうかいそうかい。特別美味しいわけじゃないけど、また来てね。あとあっちに福神漬け置いてあるから、取っていくといいよ」
「ありがとうございます」
おばちゃんに教えられた通り福神漬けを盛って、空いてる席に腰掛けた。
「いただきます」
やはりカレーは美味いな。むしろ不味いカレーを探す方が難しい。
これから数日はこいつのお世話になるだろう。俺は食事で冒険しないタイプ人間なのだ。
と言っても、毎日カレーは食えないよな……。
「早く緋奈と仲直りしないとな……」
そんなことを思いながらカツカレーを食べ進めていると、近くの席にいた一年生の女子が、小さく声をあげて一緒に来ていた子に耳打ちをした。
「ね、あの可愛い先輩だよ」
「うわ、ほんとだ。食堂で見るのなんて初めてじゃない? いつどこで見ても可愛いよね」
「だよね。でも最近彼氏できたらしいよ」
「マジ⁉︎ どんなイケメンと付き合ってんだろ」
何を話しているのかはよく聞き取れないが、多分恋バナだろう。女子が話すことと言えば大体恋バナと相場が決まっている。
と、さっきまで楽しそうに話していたその二人の視線が俺に向けられた。いや、正しく言えば俺の真後ろだ。
よく見ればこの二人だけでなく、食堂にいる生徒のほとんどが一点に視線を集めている。
「拓人君」
「っ⁉︎ か、奏……。どうしてここに」
「横山さんに聞いて来ました。……拓人君、私はちょっとだけ怒ってますよ?」
周りの視線を気にする様子もなく、奏は目を細めて小さく頬を膨らます。
騒めく食堂。他学年の間ではまだ噂だった社奏の恋人誕生疑惑が、真実になった瞬間だ。
「座ってもいい?」
「お、おう……」
俺の向かい側に座った奏は、持ってきた弁当をテーブルに置いてじとーっと俺を睨んでくる。
「……食堂に行くなら私も誘ってほしかったです」
「一緒に食べる約束してなかったし、奏は弁当だろ? わざわざ食堂まで来る必要はないと思ってな……」
「拓人君が食堂で食べるなら私だって食堂で食べます。それに……お誘いはしました。見てないようですけど」
どうやら奏は、事前にメッセージを送ってくれていたらしい。
今日は朝から緋奈のことで頭がいっぱいで、スマホを触る余裕もなく、授業すら聞いてなかった。
「すまん……」
これは俺が悪いな。こんな人が多い場所に奏を連れ出してしまったのも含めて。
それにしても奏ってちょくちょく敬語になるよな……。怒ったときは特に顕著だ。
「……拓人君はずるい。すぐに謝るのは反則だよ。そんなの許すしかないもん」
「実際俺が悪いしな」
「でも、私もいじわるしちゃったからおあいこだね。ほんとは……全然怒ってないから」
さっきまでのふてくされたような表情から一変、まるでいたずらをした少女のような笑みを浮かべる奏。いや、奏はほんとにいたずらをしていたのだろう。
そんな奏の子供っぽい一面は、俺の心を大きく揺さぶった。
一度咳払いをして、気持ちを落ち着かせる。
「そっちの方が反則だろ……」
「え?」
「……なんでもない。また横山の差し金か」
「ううん、私が考えた。その、拓人君の元気がないように見えたから、ちょっとでも元気になればいいかなって……」
「そ、そうか。まぁいつも元気はないんだけど」
信じられるか? この優しい女の子俺の彼女なんだぜ?
「拓人君……やっぱり何かあった? それとも私には言えない、かな?」
そんな彼女に無駄な心配をかけさせてしまっている自分が本当に情けない。隠すなら、もっと上手くやらないと奏には通用しないみたいだ。
短く息を吐いて、不安そうに俺の目を覗く奏に小さく笑みを返す。
「言えないことじゃないくて……言うほどのことじゃないって感じなんだよな」
「でも、拓人君は辛そうだよ?」
「俺にとっては死活問題と言っても過言じゃないからなぁ」
「私は、拓人君に死んでもらいたくない。だから私の問題でもあると思う」
「は、え? いやそうはならな──」
「私の問題でもあると思う」
まっすぐな瞳で見つめられると、そうじゃないかと錯覚してしまう。奏ならその効果は通常の五倍(俺調べ)。
……ちょっと、いや、かなり恥ずかしいが、奏には心配をかけたし、大人しく白状してしまった方がいいだろう。
「……笑わないか?」
「拓人君が本気で悩んでるんだから、笑わないよ」
女神や、女神がおる。
やばいな、横山のせいで関西弁が抜けなくなっちゃってるな。
「実は、妹と喧嘩になってな……。今まで喧嘩することは何回かあったんだけど、今回の喧嘩は過去最高に長引きそうなんだ」
「そっか。私は兄弟がいないから、そう言うの羨ましいって感じちゃうな……。あ、ごめんなさい」
「いや大丈夫だ。奏が気にすることじゃないし」
「その、喧嘩の原因って?」
原因か……どう説明すればいいんだ?
緋奈は、俺が奏と付き合い始めたことに対して怒っている。この事実を直接奏に伝えてしまうと、奏が気負ってしまうかもしれない。
緋奈と仲直りする方法で一番手っ取り早いのは、考えたくもないが奏と別れることだ。頭のいい奏は、すぐその答えに気づくはず。そうなると、まるで俺が遠回しに別れてくれと言ってるみたいになってしまう。
心配してくれてるのに、奏を傷つけるようなことはしたくない。
「それがはっきりしてなくてな。間違いないのは、俺が悪いってことだ」
「そっか……。もしかして、妹さんと喧嘩してるから今日はお弁当じゃないの? 拓人君のお弁当、妹さんが作ってるんだよね?」
「おう、最近は緋奈に任せっきり」
母さんと緋奈の交代制がいつのまにか終わっていて、弁当係は緋奈に一任されている。なので今日は母さんから昼飯代を貰った。
「緋奈ちゃんって名前なんだ」
「自慢の妹だ。奏にも会わせてやりたいんだけどな……今は難しい」
「うん、妹さんと仲直りできたらその時に。あと……拓人君に提案があります」
「うん?」
「よかったら、妹さんの代わりに私がお弁当作ろっか? 仲直りのお手伝いはできないからそれくらいしかできないけど……」
奏からの提案は、魅力的すぎた。魅力的すぎて数秒ほうけてしまう。
「拓人君?」
「あ、いや、嬉しい提案だけど……奏に悪いしな」
「私が好きな人に好きなことできるんだから、悪いなんて思わないでいいよ」
奏の無自覚で唐突な『好き』という言葉に、俺だけでなく近くにいた後輩女子二人組も小さく息を飲む。ここが食堂だということを、奏は忘れてるのかな?
「じゃあ、明日から作ってくるね」
何も言えないでいた俺の無言を肯定と受け取ったのか、奏は嬉しそうに笑って弁当の包みをほどくのだった。
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