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バイトも終わり家に帰宅すると、両膝を抱えてソファに緋奈が座っていた。
「おかえり」
「おう……ただいま」
「……お父さんとお母さんはもう寝たよ」
無愛想に言ってぷいっと顔を背ける緋奈。
寝ている父さんと母さんに配慮してか、小さな音量で流れるテレビのニュース番組は、明日の天気を知らせてくれている。明日はどうやら晴れのようだ。
ここ最近は晴れが続いている。来月からは梅雨の時期に入り雨が多くなるだろう。
「姉さんは?」
「……まだ帰って来てない」
「そうか、ありがと」
大学生の日曜ってこんなもんなのか? 姉さんが特殊なだけだよな? また酔い潰れた姉さんを介抱するのはごめんだぞ……。
頭の隅で姉さんの心配をしつつキッチンに向かうと、今晩のご飯であったであろう生姜焼きがラップされていた。
いつもなら緋奈がお世話を焼いて「温める?」なんて言ってくれるのだが、残念ながら今は喧嘩中で緋奈の優しさには甘えられない。
生姜焼きをレンジで温める時間を利用して、部屋に戻り部屋着に着替える。味噌汁もあったけどめんどくさいので準備はしなかった。
炊飯器からお米を茶碗に入れ、レンジから生姜焼きを取り出す。
準備はこんなもんでいいか。
「いただきます」
そんな俺の様子を見て、緋奈が何か言いたそうに視線を向けてくる。
「……どうした」
「な、なんでもない」
「そ、そうか」
流れる沈黙と気まずい空気。まるで自分の家じゃないみたいだ。
何よりも違和感を覚えるのは、緋奈が無視をしないこと。喧嘩しているときの緋奈は徹底して無視を貫き通すからな、あれマジ傷つく。
黙々とご飯を食べ進めていると、不意に立ち上がった緋奈が前の席へとやって来た。
「……どうした」
「お、お兄ちゃんが私のことを仲間外れにしてないことはわかった」
「お、おう、それはよかった……」
どうやら、父さんと母さんが緋奈にしっかりと説明してくれたようだ。時間がたてば緋奈の怒りもある程度は治る。あの二人もタイミングを見計らっていたに違いない。
この際だ、緋奈の怒りの原因をはっきりさせておこうじゃないか。
「じゃあなんでまだ怒ってるんだ?」
箸を置いて聞くと、緋奈はぷいっと顔を背けて頬を膨らます。
「…………お兄ちゃん、お嫁さん探しは気長にやるって言ってた」
「……は?」
お嫁さん探し? なんの話だ。
「なのに、そんなすぐ彼女作るなんて……私に嘘ついたってことだもん」
「ちょっと待て。俺がいつお嫁さんを探すとか言ったんだよ」
「ゴールデンウィーク前、ここで言ってたもん」
頬を膨らましたままキッと睨んでくる緋奈。目尻には薄っすらと涙が滲んでいる。
頭をフル回転させゴールデンウィーク前の記憶を遡ってみる。
……あぁ遊園地行くとき、緋奈に誰と遊びに行くか聞かれたときか。
あのときは彼女ができるなんて思ってなかったし、お嫁さんの件は冗談だと思っていた。
「あのな、奏と付き合ったからと言って別に結婚するわけじゃない」
「奏……奏さんって言うんだ。じゃあお兄ちゃんは奏さんと結婚したいとか、お嫁さんになったときのこととか考えたりしないの?」
そんなこと聞かれてもな……。俺はまだそんなことを見据えれるほど奏と深く関わっていない。昨日やっと名前で呼べるようになったんだぞ? まだ本人の前で呼ぶのは恥ずかしいし。
……しかし奏がお嫁さん、か。
『おはよう拓人君、朝だよ起きて』
『いってらっしゃい、早く帰ってきてね。はい、お弁当』
『おかえりなさい、お疲れ様。ご飯できてるよ』
『おやすみなさい、ふふ』
うん、おはようからおやすみまで簡単に想像できてしまうな。
「……ほら」
「ち、違うぞ! うん、そうだな……、結婚とかはまぁ置いといて、別れることは考えてない。付き合い始めたのだって最近だしな、うん。それに俺は、緋奈に一番に教えようと思ってたんだよ、奏のこと」
そう、俺は家族の中で一番最初に緋奈に彼女ができたことを教えようと思っていた。
父さん母さんに教えたときのことは安易に想像でき、鋭すぎる観察眼でバレその通りになったし、姉さんは無関心だから教えても「ふーん、あっそ。いいから肩揉んで」で終わっていたはずだ。
なら、まともな反応をしてくれそうな緋奈に一番に教えるのがいいと思ったわけだ。緋奈なら喜んでくれるだろうしな。
「そのなんだ……別に緋奈を騙したわけじゃない。結婚とか俺にはまだ早いし。ただ彼女ができただけで、そこまで怒ることはないだろ」
「……じゃあ、私に彼氏が出来たらお兄ちゃんどうするの」
「そんなのそいつを八つ裂きにするに決まってるだろ」
即答したよね。緋奈に彼氏だと? 誰か認めるか!
すると、緋奈の目尻に溜まった涙がブワっと吹き出した。
「私だって……それと同じだもん! お兄ちゃんに彼女なんて……嫌っ!」
「お、おい、緋奈!」
「ついてこないで! お兄ちゃんなんて大っ嫌いっ!」
最後にそう叫んで緋奈はリビングから出て行った。
どたどたと階段を上り、バタンと勢いよく扉の閉まる音がリビングまで届く。
「なんで泣いてんだよ……」
緋奈が泣くことなんて滅多にない。小さい頃からそうだった。
自分が転んで怪我をしても、近所の悪ガキにいたずらをされても、緋奈は泣かない。自分で立ち、自分で解決する。そんな強い妹なのだ。
緋奈になんて声をかければいいのか思い浮かばず、俺は浮かした腰を静かに下ろして、残りの飯を一気に掻き込んだ。
「ん、拓人まだ起きてたんだ」
「姉さんただいま。もう寝るけど」
飯を食べ終え、風呂に入ったあと食器の片付けをしていると、薄っすら頬を染めた姉の茉里が帰ってきた。どうやら外でお酒を飲んでいたという予想は当たっていたようだ。
「今日はあんまり飲んでないんだね」
「この前は拓人に迷惑かけたからね、最近は控えめにしてる」
「迷惑って自覚はあったのか……」
「当たり前でしょ、それに明日は学校あるしね」
「そっか」
冷蔵庫から水を取り出しコップに注いで姉さんに差し出す。
「ん、ありがと」
「じゃあ俺寝るから」
「待ちなさい」
「え、何」
「何って、こっちのセリフなんだけど? なんかあった、緋奈と」
チラッとキッチンを見やった姉さんは、隣に座れとソファを優しく一回叩く。
この人にごまかしは効かない。いつもは緋奈がやっていることを俺がやっていた。何も見ていないようで、この人は何でも見ている。何でも見えている。
そもそも姉さんに呼び止められた時点で俺に拒否権なんてない。俺はこの人に頭が上がらないのだ。
「まぁ、ちょっと」
「拓人の件でしょ。家を出るときには、お母さんが緋奈に説明してたけど?」
「やっぱりか。でも、緋奈が怒ってたのはそこじゃなかったんだよね」
姉さんは「ふん?」と首を傾げて続きを促す。
「なんか、俺に彼女が出来たこと自体が気にくわないっぽくて」
俺がそう言うと「……なるほど、ね。さすが私の妹だ」と、小さく呟いた姉さん。じろりと視線を向けられ反射的に目をそらしてしまう。
すると突然、姉さんが俺の手をキュッと控えめに握りしめてきた。
「ね、姉さん……? やっぱり酔ってる?」
「んー、そうかもね。……ねぇ、拓人は彼女ともうこんなことしたの?」
「いや、付き合ってまだ一週間くらいだし……」
「そっか。拓人はその子のこと好き?」
「……うん、好きだけど」
「……ふーん、あっそ」
「えぇ……」
しかしそれもわずか数秒。すぐにパッと手を離す。
ほんとこの人は気分屋だな……。昔からそれで振り回されてきたわけだけど。
「で、拓人はなんで泣いたの?」
水を一口煽り言って、姉さんは呆れたようにはにかむ。
これもバレたか……。シャワー浴びながらだから目立たないと思っていたのに……。
「どうせあれでしょ、緋奈に大っ嫌いとでも言われんたでしょ。いつもそうだし」
「まぁね……。あれが一番傷つく。俺に彼女が出来たくらいであんなに怒ることないと思うんだよな」
「今の緋奈にとっては、大きな問題なんでしょ」
「いた」
頭を軽く小突かれた。
俺の恋愛事情と緋奈に何の関係があるのだろう……。それにしても冗談にしては結構痛かった。
「まぁあのブラコン妹は私が慰めとくから」
「え……緋奈ってブラコンなのか⁉︎」
「いや、どっからどう見てもそうでしょ。あの年で兄にべったりとか普通ないからね」
「知らなかった……」
と言うか、あれが普通だとばかり……。
「じゃあ私お風呂入るから」
「あ、うん、いってらっしゃい。あと、緋奈のことよろしく」
「拓人も大概だよ」
リビングをあとにする姉さんを見送って、俺も部屋に戻った。
布団に潜り込み天井を見つめる。
「緋奈がブラコン、ね」
兄としてどう受け止めればいいのだろう。
俺も緋奈のことがもちろん好きだ。可愛いし、何でもできる自慢の妹。
「緋奈とは、距離を置くべきなのかもな……」
俺もそろそろ妹離れのときが来たのかもしれない。
……でもやっぱり寂しいなぁ。
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