壁ドンと脅迫
人生初の壁ドンは、年上の女性でもなく、強気な年下の女性でもなく、ほとんど面識のない同じクラスの少し可愛い女子からだった。
というか普通は逆のような気がするんだけど……。今は気にしてる余裕ないな。
口元のホクロが嫌に艶めかしく、氷上の顔を直視できない。
「この前、社奏と一緒にいた?」
「……さ、さぁ?」
どうやら、俺の悪い予想は的中しているようだ。
あの日の電車の中に、氷上雫はいた。あれだけ注意していたのに、氷上に気づけなかったのは俺のミスだ。
よりにもよって同じクラスの氷上に見つかるなんて、運が悪い。社はともかく、俺の正体がバレたのは痛すぎる。
目をそらしてとぼけてみせるも、氷上にも確信があるようで、引く様子は見られない。
一度冷静になろう。短く息を吐いて、数秒目を閉じる。……よし、大丈夫だ。
「あれは間違いなく副委員長だった。とぼけても無駄」
言い訳も言い逃れもできないか。ここは観念して認めるしかない。
「……氷上が見たのは、俺と社で間違いない」
「やっぱり」
さて勝負はここからだ。
周りに言いふらすことなく、俺にこの話を持ってきたのには、何か理由があるはず。さっき言うことを聞けとか言ってたし、脅しの材料にするつもりなのだろう。ふん、俺がそんなものに屈するとでも?
「なんでも言うこと聞くので黙っててください」
頭を下げるのにはコツがある。それは躊躇しないことだ。自分を最底辺の人間だと思えば、頭なんていくらでも下げることができるんだぜ……。
壁ドンを解除してもらって姿勢を正すと、向かいの氷上も一歩後ろに下がった。
「一つ聞きたいんだが、社の秘密ってなんだ?」
「社奏が休みの日に男の人と遊んでいる。これだけで充分」
「たしかになぁ……」
「副委員長は社奏と付き合っているの?」
「いや付き合ってないぞ。そう見えたか?」
「見えなくもなかった。でも、その可能性は低いとも思っていた。社奏は、男の人を寄せ付けないから」
周りの社の印象はそうだろう。俺もあの日まではそう思っていたしな。
けど実際は、昔のトラウマのせいで人と関わるのが怖かったからだ。
もし俺といるところを言いふらされでもすれば、変な噂が立ち、そのトラウマが蘇る可能性だってある。
それはダメだ。社のこれまでの頑張りを、無駄にはしたくない。
「どうして副委員長は、社奏と一緒にいたの?」
「あの日は、他の友人と遊びに行く日だったんだよ」
「ふむ。私が知ってる社奏とは違う」
「俺もだ」
社は変わろうとしている。その一歩を俺は見届けた。そしてできる限り、見ていたい。
だから、このことは黙っていてもらわないと困るんだよな……。
「それで、俺は何をすればいいんだよ」
「ああ。付き合ってほしい」
「何に?」
「何にじゃない。私とお付き合いして」
「……はい?」
「交際関係。恋人関係。彼氏彼女になってほしい」
何度か目を瞬かせ、全く変わることのない氷上の表情をじっと見つめる。
「……本気か?」
「本気。ちなみに拒否権はない」
どうやら本気っぽいな。イタズラの可能性も期待したが、後ろからこそこそと笑う声は聞こえてこない。
「理由は?」
「理由は話す。でも先に返事がほしい」
すると氷上は、胸の前で人差し指同士をツンツンしながら、微かに頬を染めて上目遣いになる。
「私と付き合ってください」
わずかに上がった口角に、不覚にもドキッとした。
初壁ドンの次は、初告白……。いや、これはノーカンだな。
「……わかった」
わざわざ脅してまでこんなお願いをするのだ、純粋な好意とは考えにくい。そもそも氷上が俺に惚れる理由がないしな。
「その返事の仕方は不合格。もっとそれらしく」
「意外と注文が多いな」
下手に怒らせても俺が不利になるだけだ。ここは氷上に従っておこう。
と言っても、告白されたことないし、したこともないからどんな返事の仕方がいいとか知らないんだけど……。
「どうすればいい?」
「え、副委員長は慣れてると思ってた」
「いや……恥ずかしながら告白されたことなくてな、今のが初めてだ。まぁカウントしていのか微妙だけど」
「意外。……なら、少しだけしてほしいことがある」
そう言って氷上は、俺と位置を変えて、自分の背中をを壁に向ける。さらにサイドテールを解いて、髪をくしゃくしゃっと乱し、そのまま壁にもたれかかった。
「副委員長の利き手は?」
「右だな」
「じゃあ右手を貸して」
言われるがまま右手を差し出すと、くっと引っ張ってくるので、氷上との距離が急に縮まる。
社とは違う匂いがした。なんで女の子からは、こんなにいい匂いがするんだろうね。
俺の右手をそのまま自分の顔の横に持っていき壁につけると、顎を上げてじっと見つめてくる。
「私が言ったことを後に続いて言って」
「お、おう」
距離の近さに少なからずドキドキしているものの、この体勢の意図が全く理解できず、何をしたいのかという疑問の方が大きい。
「なぁお前」
「なぁお前」
「俺の女になれよ」
「俺の女になれよ……。あ、え、ちょっと」
何も考えずとにかく指示に従っていたら、とんでもないことを言わされていた。しかもこの体勢よく見れば壁ドンじゃねーかよ。
我に返った俺の目の前では、わずかに頬を染めた氷上が、さっと目をそらして、コクリと頷きながら言った。
「うん……なる」
ちょっと待て。俺はいつの間に告白する側になってんだよ。そんで氷上もノリノリで答えなくていいよ。言い方可愛かったけど。むしろ逆だからね? 脅されてるの俺だよ?
すると、満足したらしい氷上は、ポケットから取り出したスマホの画面を一度タップする。ピコンっと鳴った短い音は、どこか聞き覚えがあった。
「氷上まさか……今の録音してたのか?」
「ううん違う。今のだけじゃない」
「マジか……」
絶句する俺とは違って、氷上は嬉しそうだ。心なしか肌のツルツルが増しているよう気がする。
スマホを操作する氷上の横顔を見ていると、氷上が小さく声を上げた。
「そろそろ予鈴が鳴る」
「もうそんな時間か」
きっと氷上は、時間を伝えるためにスマホを見せてくれたんだろう。でも俺は、時間よりもその奥に見えた美男子の二次元画像が気になってしまった。
……うん、薄々は感じてたよ。趣味というか欲望が漏れてたからね。
「理由、条件はまた放課後に話す」
「お、おう」
「でももう私と副委員長は付き合っている。呼び方が他人行儀じゃ付き合ってるとは言えない」
「そう……なのか?」
「私のことは雫、もしくはお前と呼んで」
「雫、雫って呼ばせていただきます」
「なるほど。照れ屋さん。私は……香西君だから、かーくんって呼ぶ」
「……好きにして」
「じゃあかーくん、放課後にまた」
無表情のまま踵を返した氷上を見送った俺は、深く息を吐いてその場にしゃがみ込んだ。
氷上雫……。まさかあんなやつだったとは思ってもみなかった。
まぁでも、悪いやつではなさそうだな。まだ断定はできないが。
とりあえずは氷上の言うことに従って、恋人関係を演じるしかない。これも社のためだ。
しかし朝から疲れたな……。ココアのカロリーがなかったら今頃倒れてる自信がある。緋奈に感謝だな。
「俺も行くか」
よいしょと立ち上がって昇降口に向かっていると、ポケットのスマホがぶるっと震えた。取り出して画面を見れば、社からのメッセージが届いていた。
『おはよう。今日は遅いね、寝坊?』
『おはよう。いや、もう着く』
すぐに返事を送って、さっさと靴を履き替える。早足気味に廊下を進み階段を上がれば、すぐに教室だ。
さっきまで一緒にいた氷上は席にいない。多分トイレにでも行ってるのだろう。
教室後方に目をやれば、社が俺に気づいて胸の前で小さく手を握り、「うっす」と、微笑んでいる。
そんな社に俺も小さくうなずき返して、席に着いた。
氷上とのことを社に話すべきだろうか。いや、これは俺のミスだ。社に迷惑はかけたくない。黙っておこう。
それにしても、今日は一段と眠いな……。
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