※102
ごめんなさい。遅くなりました。
『藍っ!』
『えへへ、転んじゃった』
私が他の子と違うんだと自覚したのは、小学二年のときだった。
朝ふらふらしながら立ち上がって、そのまま壁に激突。打ちどころが悪くて、おでこから血が出てた。
たったそれだけなのに、心配性なお母さんは大袈裟にも私を大きな病院へ連れて行った。
私は、人より血の量が少ないらしい。
頻繁に起きる目眩も、朝気分が悪いのも、酷い頭痛も、全部そのせいだと聞かされた。
命に関わるような病気ではないそうだ。ただ、普通には生きていけないらしい。
小さい私はよく理解できてなかったけど、お母さんはすごくショックを受けていた。
『ごめんね……』
どうして謝ってたのか今でもわからない。
そのときの私は、悔しそうな、泣きそうなお母さんの顔をただ見上げることしか出来なかった。
小二の途中からは、遅れて学校に行くことが増えた。早くて二限目が終わる頃、遅いときは、お昼を過ぎてから。登下校ともお母さん同伴だ。
周りからしてみれば、私は異様に映っていたと思う。
朝早く起きて、自分の足で学校に行き、最後まで授業を受けて家に帰る。
私以外にとってそれは当たり前のことで、普通に出来ることだった。
なのに普通じゃない私が、周りと同じ空間に馴染めるわけがなくて、友達なんて一人も出来なかった。
小四からは保健室登校になった。私がいると学級の雰囲気が悪くなるからだそうだ。
クラスにとって私は、腫瘍でしかなかった。
保健室登校は、教室よりも幾分マシだった。教室に一人でいるのは、とても惨めだから。
陰口や悪口を言われることはないし、気を使わなくてすむし、気を使われることもない。保健室は、私にとって唯一の安息の場だった。
ある日、怪我をした生徒が保健室に来た。驚きはしない。本来保健室は、そういう生徒を受け入れるためにある。
しかし困ったことにちょうど先生のいない時間帯で、私が手当をしてあげた。
『ありがとう。えーと……戸堀さん』
その子は同学年の女の子だった。
顔は覚えてなかったけど、多分同じクラスになったことがある。きっと話したこともない。
それからその子は、よく保健室に来るようになった。自分の友達を連れて。
保健室で出来ることなんてほとんどない。椅子に座っておしゃべりするのが関の山。
たったそれだけ。たったそれだけのたわいのないことが、私は、すごく嬉しかった。
普通じゃない私を、この子たちは受け入れてくれたんだと、そう思っていた。
でも段々とその回数は減っていく。
三日に一回が一週間に一回になり。二週間に一回になり。一ヶ月に一回になり……そして最後は来なくなる。
それは彼女たちだけじゃなかった。
学年が上がればそういう子が一人か二人かは現れる。中学生になってもそんなことが幾度となくあった。
違った。彼女たちは私を受け入れてくれたんじゃない。
私がただ、そう思いたかっただけ。私は、みんなと同じなんだと。
もしそうなら、お母さんはきっとあんな顔をしなくてよかったはずなんだ。
毎日の送り迎えは大変だ。仕事を変えて忙しいはずだ。疲れてるはずなのに私の前では、ずっと笑ってる。
だから私は、せめて学校では普通でありたかった。
それさえも無理だと気づいたとき、ふっと心が軽くなった。街で知らない人の赤ちゃんを見かけたときに芽生える、母性本能のような。
私は、諦めたのだ。普通であろうとすることを。
「それから私は、人を遠ざけてきた」
どうせすぐにいなくなる。だったら最初からいなくていい。
どれだけ言葉を交わしても私との間にある線は越えられない。
私に向ける感情が同情ならまだいい。
でも、中途半端な優しさは、最後に自分自身を苦しめることになるから。
今、目の前にいる彼は、どんな気持ちで私の話を聞いてるんだろう。
初めて会った日は、なんて失礼な子なんだと思った。
開口一番に『幼女だ』なんて言われたら誰だって怒るよね? 気にしてるのに……。
でも話してみたら嫌な子ではなくて、むしろ先輩の私をたててくれる様ないい子だった。
どこか頼りないし、覇気がないし、変わってるとこもあるけど、後輩くんは、今までの誰とも違った。
きっと斗季君のおかげでもある。
太陽みたいな斗季君と月みたいな後輩くん。
二人は、そんな安心感を与えてくれる。
初めてだった。私から離れて行かなかったのは。
斗季君は強引な部分があって、来なくていいよって言っても二日に一回は保健室に遊びに来た。
先生は呆れてたけど文句は言わなかった。
後輩くんは斗季君の頻度ほどではないけど、何かと理由をつけて保健室に足を運んでくれた。
一番の思い出は二年の文化祭だ。
本当は行く気なんてなかったけど二人に誘われた。来るの遅くなるって言っても、大丈夫だからと二人は笑っていた。
出店を回って、演劇やバンド、吹奏楽の演奏も観賞して、ちょっと疲れたら二人も一緒に休憩してくれた。
斗季君は顔が広いからたくさんの人から話しかけられていた。
後輩くんは、自クラスの出し物に一生懸命取り組んでいた。バリバリ働いてるって感じではなかったけど、周りをよく見てさりげなくフォローしていた。
一番損する役回りだ。目立たないよう過ごしてるせいで、誰にも気づいてもらえてない。斗季君とは正反対だ。
後輩くんはみんなよりちょっとだけ大人なんだと、そのとき気づいた。
なら、彼になら、自分の思いを、悩みを打ち明けてもいいのかもしれない。
そう思っても勇気は出なかった。
今まで人に冷たくしてきたのに虫がよすぎるのではないか、今度こそ私から離れちゃうんじゃないか、もしかしたら……実はもう何か気づいてて何も聞かないようにしてるんじゃないか。
後輩くんは、引かれた線をわざと跨がないようにしてる。だから、無闇矢鱈に私に会いにこない。でも、適度に会いにくる。それが後輩くんなりの気遣い。大人な対応だ。
そして今日、そんな後輩くんが線を跨いだ。私のことを大切な友人だと言ってくれた。
だから……もう後輩くんの前で、大人ぶるのはやめていいよね?
「私だって……普通がよかった。普通に学校に行きたい。普通に友達が欲しい。保健室は寂しい。一人は辛い。我慢した。いっぱい……いっぱい我慢してきたんだよ……」
ぽろぽろと情けなくこぼれていく涙は、スカートの上でシミになっていく。
鼻の奥がツーンと痛い。のどがぐっと詰まる。
泣き崩れないのは、まだ私の中に先輩であることの自覚があるから。
「……話してくれてありがとうございます」
「う、ううん。私の方こそ聞いてくれてありがと。ちょっと楽になったよ。こんな私でも……友達でいてくれる?」
あ、今のはちょっと恥ずかしい。
「当たり前です」
即答かぁ……。かっこいいじゃん。
「でもちょっとわからないことがあって」
「うん? 何?」
涙を拭って顔を見やれば、後輩くんがいつもよりかっこよく見える。
大人ぶってた私よりはるかにかっこいいけどね。
「先輩の今の話と、先輩が斗季を遠ざけることになんの関係が?」
「え、いやだって……こんな私を知ったら斗季君幻滅するかもしれないじゃん……。それに私は、面倒くさいんだよ」
「性格が?」
「ちがわい。……こんな話をしたあとによくボケれるね」
「場を和ませようかと……」
無駄な気遣い……でもないか。この方が私たちらしい。
「た、たとえば私と斗季君が付き合うとして、デートは遅い時間からになるし、疲れやすいから長時間は出歩けないし……とまぁ、色々面倒くさいんだ。斗季君には、普通の恋をしてもらいたい」
「……なるほど」
納得してくれたかな。そうじゃないとしても、後輩くんはきっと口にはしない。
自分なりに私のことを考えて落とし所をつける。
そうやって私たちの関係は出来上がってきたんだ。
「じゃあ……斗季のこと諦めるは、そのままでいいんですね?」
「うん。それが斗季君にとっても……私にとっても一番だよ」
「わかりました。そろそろ帰ります」
これで私の初恋はお終い。
これから斗季君とどんな顔して会えばいいんだろう。
もしかしたら、もう会うことも出来ないかもしれないけど。
何度も経験してきたのに……斗季君と会えなくなるのは辛いなぁ。
そんなことを思いながら私は、後輩くんの背中を見送った。
※※※
保健室を出てからすぐ、俺は通話中になっているスマホに耳を当てた。
学校での使用は原則禁止。俺だって廊下でこんなに堂々と使ったことなんて今までない。先生に見つかったら一発で没収されるだろう。
でも、今はそれでもいい。スマホなんかより友人二人の方が何倍も大切だ。
「だそうだ」
さっきまでの会話を聞いていたもう一人の友人は、スマホの向こうで何を思ったのか。
ただ俺が確信していることは、戸堀藍のラブコメはこんなことで終わらないということだけだ。
読んでいただきありがとうございます。




