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第十二章 真相

 十月最初の日曜日、ジューンは門限までの最後のひと時を、ジョンと共に門番用ロッジで過ごしていた。緑のクロスが掛かった丸テーブルには、二人で料理本を見ながら作ったチキンのカレー料理がある。

 ネザーポート屋敷の改装工事が今週で終わったということを、今日聞いた。

 工事が終わればジョンがここにいる理由はなくなる。その時が、二人の関係が終わる時だ。

 今日のジョンは少し様子が変だと思う。ジューンを見つめたままずっと黙っていたり、考え事なのか、話し掛けても返事がなかったり。

 ついにその時が来た……ということなのだろうか。

 食事が終わると、ジョンはコーヒーを淹れてくれた。この優しさに触れるのも、これで最後なのかもしれない。

 ジョンはコーヒーを一口飲むと、思いつめたような顔をして立ち上がり、ジューンの方へ半歩近づいた。

「今日は、ずっと言おうかどうか迷っていたことがあって……」

 ジューンは心臓が凍り付くようだった。返事をすることも呼吸をすることも出来ないまま、ただ彼を見上げた。

「あ、あの……、その……」

 ジョンは口ごもりながら、急にガタガタと震えだした。視線が定まらず、瞳がゆらゆらと泳ぎ続けている。どきどきしながら見守っていると、彼の身体はゆらりと傾き、次にはジューンの視界から消えた。ジューンは悲鳴を上げて椅子から飛び出した。ジョンは膝からくずおれて、その場に座り込んでいた。

「どうしたんですか! ジョン、しっかりして……!」

「ごめん、急にめまいが……。もう大丈夫だ」

「ああ、動かないで。無理をしないで、寝ていてください」

 ジューンは、椅子に取りすがって立ち上がろうとするジョンを制した。

「そうだね……、ちょっとだけ休ませてもらうよ。大丈夫、すぐに治るから」

 数分の間、ジョンは両腕を顔の上に重ねて横になっていた。やがて起き上がり、椅子に着くと、彼は大丈夫だよと言う代わりにニッコリと微笑みかけ、話を再開した。

「ネザーポート屋敷の改装工事が終わったという話はしたよね? 来週中にはホワイトストン家の使用人が住み始めて、家具を運び込む。そして再来週にはホワイトストン男爵と家族が移って来る予定なんだ。それで、このロッジも使用人が住むことになるから、ぼくは来週中にここを出なきゃならない」

「そうなのですね、分かりました」

 普通なら、次の住所を尋ねるものなのかもしれないが、断られるのが怖くて訊けなかった。

「それから…………しばらくの間、会うことができなくなると思う」

 終わった。

 別れを告げられた時は笑顔で応じようと、ずっと思っていたのに、いざその時が来ると、全然できなかった。頭がぼうっとして、涙が込み上げてくる。

 ジョンは、ジューンが涙をこらえていることに気づいたのかもしれない。困り果てたというような顔をして、言葉を続けた。

「ごめんね。忙しくて、ロンドンを離れられないんだ。大学の恩師を訪ねて、就職先を紹介してもらえないかと思ってね。とにかく、建築家のアシスタントになるために、いろいろやってみるつもりなんだ」

「はい、頑張ってください。わたしは応援していますね。きっとうまく行くように、神さまに祈っていますね!」

 やっと、なんとか微笑むことができた。

 なのに、この笑顔は醜く歪んでしまっていたのかもしれない。ジョンはますます弱り果てたというような顔をした。

「ああ……ジューン、そんな顔をしないで。ぼくも寂しいけど、就職しようと思ったら、ロンドンで活動した方がいいんだ。そうだな……うん、三週間後に戻ってくることにするよ。三週間後は土曜日が午後の半日休暇だよね。その時に会おう。それまでに就職できているといいんだけど……」

「……ほんとうですか?」

 ジューンが思わず尋ねると、ジョンは少し驚いたようだった。

「もちろん本当だよ。何時の汽車になるか分からないから、コッツワース屋敷で待っていてくれるかな。迎えに行くよ」

「分かりました……」

 ジューンは「本当に本当ですか?」と尋ねたいのを飲み込んで、そう答えた。

 いつものように、ジョンは門限に間に合う時間に、ジューンをコッツワース屋敷まで送り届けてくれた。使用人の裏庭の門前で、二人は午後十時ぎりぎりになるまで時間をつぶした。

 ジョンの自転車に取り付けたオイルランプの光が、二人を包んでいた。突然、ジョンは耐えかねたとでもいうように、ジューンの手を握り、その場にひざまずいた。

「あ、あの……、その……」

 ジョンは必死の形相でジューンを見上げた。

「は、はい……」

 ジューンも負けないくらい余裕がなかった。右手を持つジョンの手が熱く震えていた。そして、ジューンも震えていた。

「あなたの手に口づけをする栄誉を、わたしに与えてくださいますか?」

 ジューンは緊張のためと、あまりに耳慣れない言葉だったために、ジョンが何を尋ねたのか、ほとんど理解できていなかった。

「は、はい」

 反射的に答えると、ジョンの表情が緩んだ。彼はジューンの手にゆっくりと顔を近づけ、いとも丁寧に、やさしくキスをした。

「待っていて。就職が決まったらすぐに連絡する。決まらなくても、三週間後に、ね」

 ジョンは切なげな眼差しをして、ジューンの手に手を重ね、両手で包み込んだ。

「はい……」

 ジューンは身体中が、つま先から頭のてっぺんまで熱くなり、燃えて灰になりそうだった。動くこともできないでいると、やがてジョンが「十時になるよ」と促した。慌てて自転車を押して門に入り、振り返った。

 ジョンが手を振っていた。

 それが、別れ際の最後の姿だった。



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