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10-7

 このままではいけない。

 ジューンはベッド脇にひざまずくと、メイの顔を覗き込んだ。サー・ウォルターが何事かという顔をした。

「ねえ、メイ、お願いだから、本当のことを言ってちょうだい! その怪我は、ライト夫人に負わせられたんだよね? 普段から虐められていて、でも、外ではそのことを言えないんだよね?」

 祈りながら、ジューンはガーゼが貼られた妹の顔を見上げていた。メイは唇を引き結び、何も答えなかった。眉間を寄せたその顔は、怒っているようにも困っているようにも見えた。

 何秒も何十秒も、二人の紳士は一言も発せずに少女の答えを待ってくれた。長い長い沈黙に耐え、自分たちが何をしているのか忘れそうになったころ、メイが消え入るような声を出した。

「でも……わたし……家に帰るのですよね……?」

 誰も何も答えることができなかった。メイは顔を上げ、困惑したような表情をサー・ウォルターに向けた。

「さっき……『雇うことは出来ない』って言いましたよね? それって、家に帰れっていう意味なんじゃないんですか?」

 そんなこと言っちゃだめ! ……ジューンは心の中で叫んだが、もう遅かった。メイは自分一人の頭の中で、結論をまとめ上げてしまったのだ。

「そうだね、残念だけれど、父親が承諾しなければ、子供を雇うことは出来ないんだ。きみはお母さんと一緒に、おうちに帰るんだよ」

 サー・ウォルターが屈み込んで、やさしく答えた。「おうちに帰る」という言葉が、我が事のように絶望的な響きで、ジューンの頭の中を駆け巡った。ジューンはとにかく反対しようと口を開きかけたが、何を言えばよいのか分からなかった。隣に、アダムス牧師の大きな身体がため息とともにしゃがみ込んできた。

「ジューン、気持ちはわかるが、今日のところは妹さんを帰すしかなさそうだ。我々はすでにライト夫妻から誘拐犯呼ばわりでね……」

 彼はそう耳打ちすると、驚くジューンに参ったという表情をして見せた。彼はつぎにメイに向かって話し掛けた。

「ミス・メイ、何か困ったことがあったら、いつでもグラムトンの教会の牧師に相談するんだよ。コッツワースはきみの家からは少し遠いが、わたしの教会に来てくれても、もちろんかまわない。こっちのおじさんの家に行けば、お姉さんに会うことも出来るよ。サー・ウォルター・ブルームフィールドっていう名前を憶えておいで。誰かに訊けば、家の場所を教えてもらえるからね」

 つづいて、サー・ウォルターが同じような内容をメイに話して聞かせた。メイは困惑したような表情を浮かべながら黙って聞いていた。ときどき彼らを見る眼つきは鋭く、迷惑がっているようにさえ見えた。

 看護師が入ってきて、メイを着替えさせると言い、男たちは出て行った。看護師は、お母さんが服を持ってこなかったからと、文句とも言い訳ともつかない調子で言いながら、メイがもともと着ていたワンピースを再び着せ始めた。ジューンは、うまく身体を動かすことが出来ない妹を手伝いながら、彼女が連れ去られる前にもう一度二人きりで話せる機会がないかと考えていた。メイのワンピースは右側がズタズタにやぶれ、赤黒く凝固した血で固くなっていた。

 廊下の向こうの方から、またライト夫人のがなり声が聞こえてきた。さっきは機嫌が良かったのに、今は何かに追い立てられるように騒いでいる。

「それじゃ何かい! あんたはあたしが悪いとでも言いたいのかい? たかが子供の怪我に大騒ぎされて、こっちはいい迷惑なんだよ!」

 相手は医師のようだが、そちらの声はくぐもっていて聞き取れない。足音が近づいたと思ったら扉が開き、ライト夫人が顔をのぞかせた。

「何をちんたらやってるんだい! はやくおし!」

 首はすぐに引っ込んだ。扉を半開きにしたまま、廊下で待っているらしい。

 ベッドに腰かけていたメイがすっと床に降り、扉の隙間に吸い込まれるように移動した。ジューンは思い切ってその左手を掴み、病室内に引き留めた。まだ看護師がいたが、もうかまわなかった。すぐさまメイの足元にひざまずき、顔を見上げた。

「メイ、わたしはさっき、あんなことを言ったけど、あなたがライト家で虐められていることを望んでいるわけではないの。虐待なんて、本当に何もないって願ってる。でも、もし何かあった時には、アダムスさんの話を思い出して、必ず助けを求めて欲しいの」

 メイは何も言わず、小さな身体は動きもしなかった。ガス灯から陰になって眼の表情はよく見えない。ただ、きつく引き結んだ口元が、ジューンの眼には言葉に出来ない恨みと怒りの表現に見えた。胸がざわめき、ジューンは言葉を付け足さずにはいられなかった。

「お、お願い、分かったって言って! そうするって約束してほしいの」

 ふいと、目の前からメイがいなくなった。見ると、ライト夫人が扉を押し開け、そこに立っていた。うつむいたメイの後ろ姿が、母親の姿と重なっている。ライト夫人は大きな眼を爬虫類のように見開いて、ジューンを見下ろしていた。

 鼻息の音が聞こえそうな、憤怒の表情に懐かしさを覚えた。もうさっきほど怖くはないし、九年前ほどには明らかに怖くない。落ち着いている自分が意外で、これでいいのだろうかという気持ちにさえなる。己を試すように、ジューンが見つめ続けると、ライト夫人は先に眼を逸らせ、扉の枠から姿を消した。メイが小走りに後を追いかけて行った。

 ジューンは少しのあいだ放心状態だった。我に返り廊下に出ると、玄関の方から声が響いてきた。

「あーあ、もう疲れたよ! こんなところまで出てくるハメになってよ! なんであたしが来なきゃならねぇんだよ! 誰のせいなんだよ、ええ? お偉いさん方ときたら、まるで人さらいじゃないか! 酷い話だよ!」

 ライト夫人は玄関ホールで、イライラと貧乏ゆすりをしながら周囲を見回し、威嚇するように怒鳴り散らしていた。サー・ウォルターとアダムス牧師が、困惑顔で遠巻きに見つめている。ライト夫人は彼らをちらちらと見るが、視線を合わせようとはしない。

 ジューンは忍び寄るようにサー・ウォルターの傍に近づいたが、それ以上どうすればよいのか分からなかった。今ライト夫人を刺激したら、どんな騒ぎを起こされるか分からない。ジューンだけでなく、その場の誰もが同じことを考えているに違いなかった。

 病院の玄関扉が開いて、若い看護師が入って来た。彼女はライト夫人を迂回してサー・ウォルターに近づき、辻馬車が到着したと告げた。

「やっとかい!」

 ライト夫人はそう言うなり、メイの襟首を掴み、荷物を放り投げるように玄関扉の方へと追いやった。

「ほら、早く行くんだよ! とっとと歩け!」

 サー・ウォルターが駆け寄り、ライト夫人が開けた扉を掴んだ。

「ミセス・ライト、どうか乱暴しないで。お大事にしてあげてください」

 ライト夫人は振り返り、一瞬だけ仰ぎ見たが、何も答えずにまた前を向いた。そしてメイを追い立て、あっという間に、逃げるように出て行ってしまった。

 病院に静寂が戻った。アダムス牧師はやれやれと溜め息をつき、サー・ウォルターは苦笑いを漏らした。

 そのどちらにも、ジューンは失望を禁じ得なかった。



毒親問題っていろんな要素があって奥が深いなあと思います。

わたしは今のところ「毒親」ではなくて「普通の親」のつもりなんですけど、実際、親になってみると、毒親の気持ちも分からなくはないというのが正直なところです。(つづく→)


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