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どうやらこれを食べろという命令らしいのだが、一人分しかないところがいかにも怪しい。アイスのように見せかけて、実は絵の具とかモルタルの類なのかもしれない。
「あっちで座って食べろよ」
躊躇していると、ウォルトが壁際の長椅子を顎でしゃくってそう言った。
「あ、はい。では失礼いたしまして……」
指示が細かいなあと思いながら、ジューンは移動して長椅子に腰を下ろした。ウォルトが当たり前のように隣に座った。
ちょこんと前に揃えた、ジューンの小ぶりな両足より向こうに、ウォルトの細くて長い足が持て余すように伸びている。いつの間にこんなに差がついたのだろうと思う。育ち盛りの坊っちゃんは帰省するたびに縦に細長く伸びているのだ。
不意に、ミセス・ウィンスレットの忠告を思い出して不安になった。ジューンは玄関ホールを見回し、他に人がいないことを確かめた。この場を誰かに見られたら、また誤解されてしまうかもしれない。
ジューンは急いでアイスを口に運んだ。粘土かもしれないと身構えたのがばからしいほど、甘く冷たい感覚が舌の上でとろけた。レモン風味の爽やかな味である。
「あ、すごくおいしいです」
ジューンは無意識に顔をほころばせた。ウォルトも笑みをこぼした。
「全部食べろよ。まだ残ってる」
命令する口調が、ぞくりとするほど優しかった。
「はい、いただきます」
ジューンは自らを律するように、身体を緊張させた。
ミセス・ウィンスレットは、ウォルト坊っちゃんはジューンを好きなのだと言っていた。そんなことはあり得ないのに。
ウォルトはブルームフィールド家の嫡男なのだ。まだ十六歳で、将来いくらでも社交界に出て、美しい良家の令嬢と出会うことが出来る。そしてブルームフィールド准男爵家の爵位と莫大な財産を将来引き継ぐ身分であれば、大抵の令嬢は望みどおりに娶ることが出来るだろう。仮に不埒な遊びでメイドに手を出すにしたって、ジューンを狙うわけがない。明るく可愛いアミーリアや、美少女のキャロルなど、コッツワース屋敷には魅力的なメイドが、他にちゃんといるのだから。
「ジューン、結婚なんかやめておけよ」
すっかりさらえたアイスクリームの器から眼を移すと、ウォルトが少し屈んでこちらを覗き込んでいた。深刻な表情に驚いて、返事が出来ないでいるうちに、彼は言葉を継いだ。
「うまくいきっこないよ」
少年の迷いのない瞳が、大人よりも却って、すべてお見通しなのだとジューンに語り掛けるようだった。「うまくいきっこない」という言葉が、重々しく胸に沈んでいった。なんの抵抗もなく、ジューンはその通りだと思った。
「そうですね」
いつものように、結婚なんてしませんよと、言えばいいのに言えなかった。ジューンは心の奥底のどこかで、わずかでもそれを期待していた自分に気がついた。情けなくて、たまらなく恥ずかしかった。
「そうさ。大工なんか、どんな暮らしをさせられるか分からないぞ」
ウォルトはふいと前を向くと、吐き捨てるように言った。ジューンは力なく苦笑いを浮かべた。
「大工はわりと良い職業ですよ。労働者の中では」
「良いもんかよ。怪我をしたら終わりじゃないか。グリーン爺さんの従兄弟は大工だったんだけど、屋根から落ちて、首の骨を折って死んだんだぜ」
ジューンは身震いをして答えた。
「それは……お気の毒なことでした。けれど、わたしは大工と結婚する予定はありませんよ。そんな噂が流れているようですが、まったくのでたらめなのです。彼はただの友達ですから」
その言葉の意味を吟味するように、ウォルトはしばらく何も言わなかった。
「じゃあ、結婚しないのか? 退職は?」
ウォルトは思い切ったように横を向き、ジューンを見据えた。
「結婚も退職もしませんよ」
それを聞いたウォルトが、一瞬だけ嬉しそうな顔をしたのが分かった。きゅっと唇を結んで笑みを収めると、彼はまた前を向いた。
「そうさ。ジューンはずっとここにいればいいんだ。それで、ぼくがブルームフィールド家の当主になって、コッツワースを継ぐところを見る。……そういう約束だっただろ?」
ウォルトが反応を確かめるように、ちらりと視線をよこした。ジューンは息を呑んだ。
「坊っちゃんは、あの約束のことを覚えていらっしゃるのですか?」
「そっちも忘れてなかったみたいだな」
二人は顔を見合わせた。ジューンはウォルトの淡褐色の瞳を見つめながら、お互いの脳裏に五年前の記憶が蘇るのを感じた。けれど、楽しい思い出ではない。二人して痛みの中に身を浸して出ようともしない。そんな陰鬱な眼をして、お互いに見つめ合った。
「では、坊っちゃんはその時までわたしを首にせずに、ずっと雇ってくださいますか?」
ジューンは沈黙に耐えられなくなり、そう切り出した。ウォルトの視線がいつまでも離れて行かないことが息苦しかった。
「ああ、ずっと雇ってやるよ。その時が過ぎてもずっと……。それで、よぼよぼの婆さんになって働けなくなったら、コッツワースのどこかに家を建ててやるから、そこで死ぬまでゆっくりすればいいんだ」
ウォルトは鼻先で少し笑った。
ジューンはよぼよぼのお婆さんになるまでの年月の長さを思って一瞬気が遠くなったが、安心したこともまた確かだった。ジューンを見つめるウォルトの眼には、嘲るような態度とは裏腹な、優しさがあるように思う。
きっと、使用人に対する庇護者としての、自覚がそうさせるのだろう。コッツワースの次期当主として、ウォルト坊っちゃんは成長なさったのだ。
「ずっと死ぬまでコッツワースで暮らせたら、こんなに嬉しいことはありません。ありがとうございます、坊っちゃん」
ウォルトはふんと鼻を鳴らして前を向いたが、その横顔には満足そうな笑みが広がっていた。
「アイスクリーム、うまかっただろ?」
彼は立ち上がり、振り向いてそう尋ねた。
「はい、とても美味しかったです」
ジューンも続いて立ち上がった。
「じゃあ、次はクリスマスだな。また宿題が出るから、それまでしっかり勉強しているんだぞ」
「承知いたしました、坊っちゃん」
ウォルトは、お辞儀をするジューンに軽く手を振って、主階段の方へと去って行った。
せっかくヴィクトリア時代なのに、ヒロインが使用人なもので、ドレスが出てこないのは余りにも残念……ということで、ケイトのドレスが登場してま~す。




