灯 -Goldfish scooping- 【暑中御見舞】@ひろかな
「英一さん」
土曜日の夕食後。妻のジャスティナから唐突に差し出されたそれに、寝室でベッドメークを終えた高遠英一は、困惑とともに首をかしげた。
「これは?」
「浴衣です」
確かに浴衣ではある。しかも伝統的な笹柄の。そして当の彼女もまた――藍地に金魚柄の浴衣姿だった。
だが、今聞いているのはそういうことではない。
「夕涼みしませんか?」
「え。一体どこで……」
「リビングで」
にこにこと迷いもなく言う彼女だったが、こちらは混乱が増すばかりだった。ひとつ息をついてから、改めて問う。
「突然どうしたんだ? それに、この浴衣はどこから?」
静かに促すそれに、あ、とそこで小さく声が上がる。次いでごめんなさいと謝ってきた。
「そうですよね、説明もなしに一人で浮かれてしまって……あのですね、実家の母が浴衣を二人分送ってくれたんです」
妻ジャスティナの母は外国籍だが、日本の文化に惚れ込み、和物の収集を趣味にしている。今回の浴衣もしっかりとした染め具合からして、きっとそのコレクションの一環だったのだろう。
「でもこの近所ではイベントがなさそうだったので……ならせめて気分だけでもと思って」
「それで、家の中で『夕涼み会』を企画したわけか」
「はい。飲み物とおつまみを用意しましたから。それに、ちょっと素敵なものも見つけたんですよ」
だから是非! と醸し出されるその意気込みに、結局押しきられるように英一は小さく息をついた。
「今年は暑さが厳しいから、夜でもおいそれと外に出られないしね……折角だから、誘われてみようかな」
途端にぱっと明るさが弾ける。
「いいんですか?!」
「ああ」
じゃあ早速着付けをと言うなり、シャツのボタンに手をかけようとした彼女を慌てて制する。
「ちょっと待っ……だ、大丈夫、ひとりで着られるから!」
「え。そうですか?」
何気なくそう返してくるものだから、かえってこちらが恥ずかしくなってしまう。とりあえず一式を貰い受け「着替えたらリビングに行くよ」と最後の抵抗を丁重にかぶせた。
「じゃあ向こうで待ってますね」
それを気にした様子もなく、ウキウキと彼女は寝室を出ていく。やっと得た平静に、英一ははぁと安堵の息をついた。
「さて……」
口から出たでまかせを、なんとかカバーしなければならない。
シワにならないよう浴衣をベッドの上に置いてから、英一は「浴衣の着付け」について早速動画検索を始めた。
*
悪戦苦闘しながらも、なんとか人生初のセルフ着付けを終えた英一は、リビングに戻るなり感嘆の声を上げた。
「これは」
照明が落とされた壁や天井に、淡い灯りが踊っている。光源を探し、テーブルの上に置かれたそれを見つけた。
「回り灯篭?」
「ぴんぽーん、です!」
キッチンから聞こえてきた声。トレーの上にグラスと瓶、そしていくつかの皿を載せ、こちらへやってきたジャスティナが楽しそうに言った。
「『素敵なもの』って、これのことだったのか」
「はい。製作キットをお店で見つけたので。サマーキャンプのクラフト体験をしてるみたいで楽しかったですよ」
得意げな言いよう。その言に記憶の中にある夏休みの匂いを思い返しつつ、誘われるままソファに腰を下ろした。
「はい、どうぞ」
そうして隣に座った彼女から渡された氷入りのグラス。シュワシュワと音を立てる黄みがかった液体に、促されるままゆっくりと口をつけてみた。
「これはなに?」
「冷やしあめのソーダ割りです」
ああこれが、と驚く。関東ではほとんどお目にかかれない季節の味。それをまさか家庭で再現できるとは思っていなかった。甘さも生姜の風味も丁度よく、喉を適度に潤し冷やしていくそれに、これはくせになりそうだなと思った。
「こっちは?」
皿の方を覗き込みながら問う。
「これは春巻きの皮でチーズを巻いて揚げたものと、たこ焼きと……カットしたりんごあめです」
「えっ、りんごあめ?」
「はい。このあいだ友達に、都内に専門店があるって教わったので」
「わざわざそこから買ってきたのか?」
「英一さんと一緒に食べようと思って」
無邪気そのものの笑顔を向けられ、頬を掻きつつ照れ隠しにあめをもう一口含んだ。彼女もまた同じようにグラスを手に取り傾ける。からからと涼しげな音が二人同時に鳴り、顔を見合わせ笑いあった。
「まさかここまで本格的な夕涼み会だとはね」
「まだまだ、お楽しみはこれからですよ」
いたずらっぽく笑った彼女。言うなり回り灯篭に手を伸ばし一度スイッチを切ると、漏れいる月明かりの中で何やらごそごそと作業を始めた。しばしの後「できました」と宣言するや、再び灯りをともす。
パチ。
すると。
「えっ……金魚?」
室内に流れていた光の川の中に、突如真っ赤な金魚が浮かび上がる。空中をゆっくりと泳いでいるかのようなその映像に、しばしの間我を忘れて見入った。
「きれいだな」
解け出た心からの言葉。まさか縁日の風物詩をこんな形で――自宅にいながら楽しめるなどとは思わなかった。
そうして改めて彼女が作った回り灯篭を見つめる。くるくると回リ続ける回転灯をみていると、それだけで童心が呼び起こされる気がして。
「きれいだ」
再び口をついて出た言葉と、自然に湧き上がってきた笑み。自覚して気付いた感謝に、それを彼女に伝えようと顔を向けて……驚いた。
グラスから滴る水滴にも構わず、頬を染め瞳を潤ませ、こちらをじっと見つめてくるその表情。
「ジャス?」
熱に浮かされたような、ふわふわととけてしまいそうな。それでいて、宿るものに焼かれてしまいそうな、そんなまっすぐなまなざし。
「英一さんったら」
「ん?」
「どれだけさらえば気が済むんですか」
そこまでうわ言のように言ってしまってから、我に返ったらしく慌てて弁解を始める。
「いえあのっ! 今のは単なる心の声で」
「え」
「あ、そうじゃなくて! その、罪作りというか女泣かせというか、なんていうか」
もはや何かを口にするほどに、墓穴を掘っていく状態。あまりに甘いその吐露に、かえってこちらが羞恥心を煽られ、その勢い余ってグラスをあおる。一気に中身を干した後、英一はわざと畳みかけるようにそれを差し出した。
「すまないジャス。おかわり、くれないか」
「え、あ、はっ、はい! 今すぐに!」
わたわたとグラスを受け取り、テーブルの上に置いていた瓶をかき集めて次の一杯を用意し始める。その横顔、髪を耳にかける仕草、そして浴衣の襟から覗く肌を染める色。ごくりと高揚を一度飲み込み、それから努めて冷静さを取り戻しながら声をかけた。
「ジャス」
意図的に逸らされた視線をこちらに捕まえたくて呼んだはずが、その後に続く言葉が見つからずに、結局途切れる。
「英一さん、あの」
少しためらうように、おずおずと差し出されたグラス。からん、と鳴ったそれを受け取ろうと手を延べて。
そうだ。
ふと、気づく。
「そういえば、ここにも」
いたね、と心の中だけで次いだそのまま。
愛おしさを載せて彼女を引き寄せると、肩口に泳ぐ金魚を、唇でそっとすくい上げた。