第八話 方向音痴
私はまさかエマ様によってどこかに飛ばされると思ってもなかったため、数十秒ほどその場に立ち止まっていた。
ふと振り返ると、リナさんと一緒に入ったおしゃれなお店があった。
お店の名前は“oculus”。英語が苦手な私は何と書いているのか全く分からない。そもそも英語ではなく、イタリアやフランス、私の名の由来になっているラテン語なのかもしれない。
この場所に飛ばされたのは、シーさんが周辺にいるからなのだろうが、生憎、私は彼がどのような人物なのかが分からない。そのため、私は再びオシャレな店に入ることにした。
「ここにいるということは、認めてもらったということかな?」
聞き覚えがある声がしたので、振り返るとそこに私の精神世界に入り込んでいた茶い短髪の少女がいた。名は確かリアさん。
「“私的刻印”なら、してもらいました」
私は彼女にその証拠を見せたかったが、身体のどの部位にあるのか分かっていないため思考だけで済ませる。
「そっか。私はアナタの過去を見たんだけど、幼少期の記憶が興味深くてね、“蜂”の首領が目をつけるのも分かるよ」
幼少期の記憶か……。私は記憶の保持が苦手である。
三、四年前の運動会に幼稚園の時の先生に声をかけられたのだが、私はその先生の顔と名前を一切覚えていなかった。その時に一生懸命当時の記憶を振り返るが、全く覚えていなかったのである。この日を境に、私は記憶の保持が苦手であると自覚した。
そのため、彼女の言う興味深い記憶が何を指すのか分からない。というより、彼女の記憶の読み取る力は忘却した記憶さえも掘り出せてしまう性能に驚愕である。
「今のアナタの反応を見ていると、何を指しているのか分かっていないみたいから、別にいいのだけどね。あ、アナタに“蜂”の“私的刻印”を付けたの、誰か教えてくれた?」
彼女の問いに私は首を横に振る。
「アナタがリナさんと一緒に来たときに絡まれたサングラス男」
そういえば、リナさんが不審がっていた。彼は初対面の私に対して必要以上にボディタッチしてきた記憶がある。そのときに彼はそれを施したのだろう。
「彼はそのことについて吐かせた後、すぐに殺したから、彼から襲われることはないよ。彼からはね」
彼からはない。ということは“蜂”の誰かから報復されてもおかしくはないということだろう。
「警告はしておいたから。アナタがこれから何をするかは知らないけど、外出の際はお気をつけて」
そう言い残して、彼女は去っていった
「おや。こんなところにいましたか」
聞き覚えのある声が聞こえたので、私は身体ごと向けると、そこには先程出会った中年の男性であった。彼がシーさんなのだろうか?
「アルゲンさん。エマ様からお聞きになっていると思いますが、今から向かう場所は人間界の牝馬町です」
彼がシーさんなのかどうかは分からずじまいのまま、彼は突然話し出す。
「えっと……。あなたが、シーさんですか?」
「はい。……ああ。そういえば、自己紹介をしていませんでしたね。私は炭素生物のシーと申します。以後お見知りおきを」
そう言って、最敬礼ををするが、私のような新人にそこまで丁寧に扱われるのも、かえって困るのである。
「私はアルゲン・ルプスです」
私も彼に倣って最敬礼をする。誰かに対して丁寧に腰を曲げるのは初めてなのではないかと思うくらいに久しぶりなのである。
「アルゲンさん。私達は今からどの分野のお仕事をするかお聞きになりましたか?」
私は腰を起こして、シーさんを見る。
「いいえ。全く知りません」
「そうですか……。今回はスカウトです。人間から化物に目覚め、制御不能になった生物と、化物になろうとしている少女をね」
シーさんの言葉を聞き、少しだけ緊張感を持つことが出来た。
制御不能の生物。それは、私が手に負えるものだろうか。化物になろうとしている少女の方は、まだ人であろうから、そこまで恐怖することはないだろう。
「では、行きましょう」
そう言って、数歩踏み出すと、急にシーさんの顔が青ざめた。
「……どうかされましたか?」
「……いえ。久しぶりにこの場所から牝馬町に行くのは久しぶりなので、どちらに行けばどの道に出るのか忘れてしまいました」
「…………」
私は先程の者達をキチンとスカウトが出来るのかどうか心配になった。そういえば、シーさんは遭難して“炭作水”を飲んで炭素人間になったって聞いたけど、それって、極度の方向音痴も原因の一つたっだのではないだろうか。エマ様が先程、彼に毒を持っていくのを拒否したのが分かった気がした。
「迷ったのなら、私がここに来たルートから牝馬町に行きましょう。出るのは牝馬町の隣の弼町ですけど、良いですよね?」
「今回の案件は地下から牝馬町に行くルートではないと、実は色々困るのです。だから、それは出来ません」
それを聞いて、私は溜息をつきたくなった。
人選ミスじゃないのか。方向音痴ではない者はたくさんいるはずなのに、どうして彼を選んだのだろう。そのルートがここから遠い場所なら、迷う回数もその分増えるため、先が思いやられる。
「仕方がありませんね。しらみつぶしに道を行けばいつかは知った道に出るでしょう。だからこそ、アルゲンさんに休むことなく、こちらに来させたのですから」
彼は近くに設置してあるアナログ式時計を見ながら答える。
ちなみにその時計は現在、午前十時十二~十三分を指している。午前と午後の区別ができるのは中心付近にAM・PMの表示があるからである。
「一つお伺いしたいのですが、交渉は何時からですか?」
「明日の午前一時です」
牝馬町とは、リナさんと出会った場所から徒歩およそ四十分の場所にある。シーさんの発言から、“蜘蛛”の敷地面積は牝馬町まで繋がっているため、結構広いことが窺える。広いということはそれに比例して道が複雑になって迷いやすくなるということである。
「誰かに聞きませんか? そうした方が早いです」
私は近くにいる男性に声をかけようと一歩踏み出すが、シーさんは私の腕を掴んだため、私は振り返る。
「実は今回の交渉は極秘なのです。理由は深夜の牝馬町に行けば分かりますが、誰かに尋ねるというは辞めて戴きたい」
深夜の牝馬町と聞いて、ある都市伝説をおぼろけだが思い出した。
本当におぼろけなので、どういった話だったは忘れてしまった。唯一覚えているのは悪夢に関係があるということだけだ。
早く牝馬町に到着しても夜になるまでおそらくすることがないだろう。そのため、シーさんが迷っている最中は、私がこの近辺の道を覚えながら、道を探すのが一番いい時間の潰し方なのだろう。
そんなことを思っていると、彼はいつの間にか前へ進んでいたため、私は慌てて彼の後をついて行くのであった。
シーさんと出会ってどのくらいの時間が経ったかは分からないが、少なくとも五時間は経過したと思う。
彼は、一度来た道をすぐに忘れてしまうほどの極度の方向音痴であったため、私が先頭に立ち、右往左往して近辺の道を覚えつつ歩き回ると、ようやくその場所に着いたのであった。
そこは私がやって来たルートと同じく、階段を通じたものであった。
「いやー。若いって良いですねー。知らなかった道をすぐに覚えられるのですから」
シーさんは関心しながら呟く。
「いえ。褒められるようなものではないですよ。地理が得意な人ならきっと、二、三時間で済ませていると思いますよ。道を見つけたので、今から牝馬町に行くのでしょうか?」
私の問いに、シーさんは左手首に装着している腕時計を見て、首を横に振る。
「今は午後五時二十五分。まだ早いです。早くても午後九時に行かないと意味がないですからね」
ということは、三時間半ほどの余裕があるということだ。それまでに、何をして暇を潰したら良いのだろうか?
その時、ふと思ったのだが、私はここに来てヤグザの人肉しか食していないのに、空腹ではないのである。その食事から二十時間は経過していると思うのだが、なぜだろうか。ワーウルフに空腹のサインはないのだろうか?
「あのー。食事にしませんか? 今日は何も食べていないのですよ」
「飲食ですか……。確かに、何かあるか分かりませんからね。時間もあることですし、万が一のことを考えて体力をつけた方が良いでしょうね。あそこで良いでしょうか?」
彼が指した場所は外壁が黒色で覆われており、正面には窓がなく、出入り口しか存在しなかった。お店に掲げている看板はまたアルファベットである。おそらく、お店の名前だろう。
“carbunculus”
カーブンクルスと読むのだろうか?
五教科で一番英語が苦手であるため、全く違う読み方である可能性の方が高いだろう。まあ、意味が分からなくても、一日何も食べていないと認知してから、何かを口にしたかった。
「はい。早く行きましょう」
私達はそのお店に入っていったのであった。