第五話 精神の向上
扉を開けるとすぐに視界に入ったのは、肌に血が行き通っていないのではないかと疑うくらい真っ白な肌を持つ少女である。辺り一面に広がる雪景色なのに、薄手の和服を着ているせいだろうか?
身長や顔立ちから察するに私と同じくらいの年齢だろう。
「わー。扉の前で自慰しようとしたのに、ビックリ」
少女は白々しい表情で驚くのだが、私はそれを無視する。彼女以外に何かがあるかと思い周囲を見回すが、何も無い。ワーウルフになったせいか、寒さは全く感じない。
裏狸の話を信じるのなら、この場所は地下十三階の一室で、私が作り出した世界。しかし、雪景色の願望はない。しかし、願望ではなく、思い出ならこの世界を作り出したといえば納得はいく。
でも、そう考えると、近くにいる少女のような人物との思い出はない。だとしたら、彼女は私の願望なのであろうか。だとしたら、恋人ということになるのだろうか。私の理想の外見の異性は――――。
「お兄さん。お兄さん。私を無視してるみたいだけど、私の言葉分かる?」
少女は構ってもらいたいみたいで、膨れっ面で私の前に立つ。
「分かるよ。無視してゴメン」
それを聞いた少女は笑顔で返す。
「あら、案外素直なのね。でもさ、すぐに返事をしなかったから、そこ凍ってるよ」
少女の指す場所は右頬であり、私が認知した途端にその箇所が凍りつき、反射で私はすぐさま後退して少女との距離をとる。
「敵……なのか?」
私の問いに少女は首を横に振る。
「私はアナタが幼い頃に妄想して生まれた雪女のニル。雪女の伝説を聞いたときにアナタは人を怨む前の雪女をイメージしたのを覚えてる? それが私なの」
雪女伝説を聞いたのは覚えているが、話の内容は雪女が色白で美しかったところだけだ。
当時の私は可愛さと美しさを同一のものと捉えていたため、可愛さを重視した雪女を脳内で妄想したのは、かすかに覚えているものの、絵にしただろうか?
「言いたいことはたくさんあるだろうけど、とりあえず私が出すお題をクリアして頂戴」
笑みを浮かべながら言い放つと、彼女は右手の人差し指を立てて、杖のように振るう。すると、私の頭上から全長一メートル程の雪だるまが降ってきたため、私はそれをキャッチする。
「私はこれから、少しずつその雪だるまに憑依していく。すると、それは徐々に重たくなる。それに耐えながら向こうにある祠まで届ければいい」
ニルは私の正面から見て左斜めを指すが、ここからは何も見えない。
「まあ、このまま雪道を歩くだけだと何の意味も無い。このお題は己の精神力の向上が目的なのだから」
彼女は右の指で音を鳴らすと、いきなり猛吹雪が発生したのであった。突然発生したため、驚いて持っている雪だるまを落としそうになる。
「さて、始めましょうか」
ニルがそう言うと、少しだけ雪だるまが重くなった気がした。私は重さが最大にならないように、綺麗な白い雪を踏みつけて歩き始める。
雪の上を歩くのは初めてではないが、慣れているわけではないため、足取りは私が思っているスピードよりも遅く出ているだろう。しかし、速く歩けば後半、体力切れに陥るだろうし、かといって、遅すぎると、重さに耐え切れずに動けなくなる。体力を切れず、重さに耐え切れるスピードで到達するのは思っている以上に難しいのかもしれない。
「言い忘れていたけど、この雪だるまの重さは到達時間ではなく、祠までの距離感。つまり、祠まで近ければ近いほど、重さは増していき、祠で祀るときが一番重いから頑張ってね」
現在持っている雪だるまからニルの声でそう発せられる。
出来れば聞きたくなかった事実だ。
到達時間に関係がないとは正直考えもしなかった。そのことを聞いてなければ、私は単純に歩く速さが遅くて、体力が持たなかっただけだと思えたのに。それに、現在襲っている吹雪のせいで、視界が悪く、正面を見るのが辛いため、足下を見ているのがやっとだというのに、全く酷いものだ。本当に私の精神力を試しているようだ。
ワーウルフになって、どのくらいの筋力や体力が向上したのかは分からないが、祠まで無事に辿り着けるかどうか不安でいっぱいいっぱいなのであった。
どのくらいの距離を歩いたのかは分からないが、雪だるまは何とか持てる重さであり、吹雪の中に雹でも混じっているのだろうか、雪に触れるだけで斬り付けられたかのように痛む。
「あとどれくらいだ?」
私は雪だるまに憑依しているニルに問いかけるが、彼女は何も答えない。私を安堵させる気はサラサラないようなので、私はそのまま一歩一歩雪に埋まっていく足を踏んでいく。
すると、目の前に私よりも少し背が高い者が立っているのである。
ここは私の精神世界のはずなのに、私はニル以外の空想上の生物を想い描いただろうか?
恐る恐る前に行ってその正体を確かめようとするが、それは私との距離が埋まっていないらしく、その距離感は変わらない。私自身の影だろうか?
そのとき、急に雪だるまの重さが増加し、私は持っていた手が重力に負けて、積雪に挟まってしまう。そのため、両手がとても痛いのである。
「距離感に比例して重くなるのじゃなかったのかよ」
私は雪だるまに向けて言い放つ。
「あー。あれ、嘘。そうした方が、気が重くなると思ってね。体力配分とか色々思考したでしょ? それが狙いだったりするの」
雪だるまは表情を一つ変えずに言うせいか、顔を見るだけで少しイラつくのである。
「まさか、その祠がどうとか言うのも嘘じゃないだろうな?」
「さあね。信じて前に進むのが一番の近道だと思うよ」
「…………」
この様な答えは私の経験上、嘘である可能性が多かった。まあ、私の場合は今までの生存の期間が短いのだから当てにはならない。ニルの言う通り、信じて前に進むしかないのだろう。例え彼女が言っていることが全て虚言だとしても。
私は重たい雪だるまを持ち上げようとするが、今の私の腕力ではビクともしないのである。
「持ち上げられないの? そっか、それならそのまま野垂れ死ぬしかないね」
「……棄権するといったらどうなる?」
今の腕力では目的が達成できない。腕力を付けてから再度挑戦するのが良い気がするのだ。
「ん? お前の身体を氷漬けにして、凍死させるよ」
どうやら、この挑戦を受けたときから私の敗北は決定していたらしい。
私が手の痛み耐えながら体力を回復するという手があるが、それで持ち上げられるとは思えないのである。
「時間制限とかあるの?」
「うん。あと二十ニ時間四十三分。開始一日分がタイムリミット」
始まる前に聞かなかったのが悪いのだが、時間制限はあったらしい。さて、どうする。私はこのまま死ぬのだろうか?
その時気が付いたのだが、私の目の前にある人影は大きくなり、近くに来ているのである。それは敵か味方かは分からないが、緊張が高まっていく。
「おや? お前、もしかしt――――」
私はこの声を聞いた途端。殺意を覚える。どうして、ここにいるのかは分からないが、殺したくて殺したくて仕方が無いのだ。
すると、雪だるまの重みが更に増すのである。
この時に分かったのだが、これは私の殺意や恐怖心、焦燥感などの感情に呼応して体重が増量しているのである。ニルが課したのは私の精神力の向上。だからこそ、ニルは私に酷なことをさせるのである。
「――――iね――――」
影は身動きを取れない私の顔面を思い切り蹴り飛ばすのである。
「ハッハッハー。いいねいいね。この調子でもう一度俺のサンドバックになれよ」
声を聞くだけで嫌になる。私の精神にアイツがいるということは、私のトラウマだから。影は私の鼻や目、歯やおでこを殴打していく。ワーウルフになったはずなのに、当時と同じ痛みが走るのである。
「いやーー。無抵抗な奴はいいね。逃げないからさ。コイツが女だったらもっと楽しめたのに、ホント、土か種かが無能だったのだろうなーー」
コイツさえいなければ、私はこんなに苦痛を味わうことなく生きることはなかったのに…………。種を受け入れる土が悪いのだろう。受け入れなければ私は生まれなかったのだから……。人間を辞めたら遺伝子的にどうなっているかは分からないが、何も変わらないのなら、コイツとの縁は一生切れることは無いのだろう。
「ん? 何かクッセーな。お前か? あー血がクッセーんだな。サンドバッグの分際で、血なんか流すんじゃねーよ」
影はそう言って、私の頭を鈍器か何かで勢いよく殴打したのである。
ニルはこんなことをされても平常心を保てとでも言うのだろうか?
正直無理な話である。
「おい。クソジジイ」
私は影を殺意を込めて言う。
「クソジジイ? 実の親に向かって何だその口の聞き方は」
そう言って、また、頬を蹴られるが、何も思わず、何も感じなかった。
私は手の上にある雪だるまを頭突きで破壊すると、私の手は身軽になったため、私はすぐに立ち上がる。
「やんのk――――」
私はアイツの首を手でもぎ取って、遠くに投げ捨てた。
息をしなくなって安堵しているのか、頭に上った血が徐々に下がっているのが感じる。
「あーあーあー。やっちゃったねー」
後ろからニルの声が聞こえてくる。雪だるまを破壊したからといって彼女は死なないらしい。
「オレがコイツを受け入れるのは無理だ」
それを聞いたニルは少しだけ口角を上げる。
「一人称が“私”から"オレ”になってるね。それほどイラついたの? それとも、これが本性なの?」
「…………」
彼女の問いに何も答えられないでいた。私はアイツの血が流れている。私の本性はアイツのような性格なのだろうか。だとしたら私は化物に変わっても生きるべき存在ではないのだ。
「君にはまだ早すぎたのかもしれないね」
ニルは溜息混じりに呟くと、彼女のひんやり冷たい手が、私の手を握り締める。
「さっき、アナタが殺したヤグザは、“蜘蛛”に殺しの依頼があった人達。その依頼人の正体は未成年の女性の拉致と性奴隷に調教する人身売買の役員」
ニルはなぜか、私が先程出会った人達の詳細を語り始める。というより、なぜ彼女は知っているのだろうか。彼女は私の思考で作られた存在のはずなのに。
「その役人は自身が一番の商品にしようと目をつけていた女性を彼等に強姦されて、商品価値がなくなり、激怒して役員は彼等を対象にヤグザを雇うものの、裏切られて金だけを失う。役員はある都市伝説を聞き、“蜘蛛”と接触。彼の願いはそのヤグザの全滅。それに対し、“蜘蛛”は役員の女性コレクションを全て我々を提供することを提示した」
その女性コレクションって、もしかしたら……。
「役員はその提示に対し拒否した。手塩に育てた快楽のコレクションを手放すのが嫌だったのでしょう。それを聞いた“蜘蛛”は、肉体の寿命を二十年と死後の魂を永遠の地獄に送ることを追加することで、性交よりも快楽に浸れるものを役員に差し出すことを約束した。役員はそれを信用できなかったため、その一部を“蜘蛛”は提供した。もちろん無料でね。そしたら、彼はすぐに快楽に溺れ、すぐに承諾したの。まあ、その女性コレクションはご察しの通りアナタの童貞を奪った人達の一部なんだけど」
彼女達は元性奴隷。その内の一人を殺し、快楽に浸った。何と最低なんだろう。自分が許せないし、それを教えずにただ見ていた“蜘蛛”も酷い。もし、私の子を孕んでいたら……。
「痛い痛い。痛いって」
感情的になり思わず、ニルの手を強く握り締めていたため、すぐに力を弱める。
「ゴ、ゴメン」
「気にしないで。あなたがこれから入ろうとしている世界は、そのような者達と感情移入せずに、接さないといけないことがある。君の精神は保てる? 保てないだろうから、このような試練を私は与えたの」
私が入ろうとしている化物の世界。思っていた以上に、重たい世界のようだ。
しかし、人の世界よりもマシだろう。あっちは理不尽しかない。こちらは人に感情輸入さえしなければ何とかなるだろう。
「あと、君とエッチした人達は君の遺伝子を採取するため、君の精子を取り出した後、拉致する前の居場所に戻ってるらしいよ。まあ、君とした人達の中には、あの役員以外の奴隷や売婦もいたらしいけどね」
私は拉致されて奴隷にされた人達に人でないものを孕ましてしまったのではないかという罪悪感で痛まれていたのに、全て取り出したとはどういう事だろうか。
「私の遺伝子の摂取。一体何のために? そもそも、遺伝子検査は今の技術だと髪の毛一本で出来る気がするのだが、一体なぜそこまでしたんだ」
「ワーウルフの遺伝子になったかどうか。前半のヤグザ殺しは、それを“化招水”を順応させるための準備運動のようなもの。順応出来ていなかったら、その時、君はヤグザ達によって殺されていた」
それを聞いた私は思わず、固唾を飲んでいた。それは、死亡欲求よりも生存欲求の方が大きくなったという証なのだろう。
「生き残った場合は、ワーウルフの遺伝子であり、異常精子でないかどうか。精子の搾取はエッチが一番だからね。まあ、首領の意向で、アナタが童貞で、大した知識がなかったらしいから、それ含めての実践課題だったらしいけど」
ニルは冷ややかな目で私を見るが、私は無視する。
それが試験の本当の目的とすれば、裏狸の言ったことは全て嘘だったことになる。もしかしたら、彼女は私の精神の弱さを見抜いており、私を煽っただけなのだろう。
「結果として、お店に落ちていた“化招水”を飲む前の毛髪と比較すると、アナタは人間の時と異なる遺伝子を持ったワーウルフになったそうよ」
その言葉を聞いた私は心の底に少しだけ歓喜と言う名の光が現れる。
「じゃあ、もうアイツの遺伝子はないということなのか?」
込み上げて来る嬉しさを押し殺しながら問いかける。
「遺伝子では無くなったけど、でも、アナタがソイツのようにならないとは言いきれないわ」
ニルが放った言葉を聞き、少しだけ落胆する。
「人間からワーウルフの構造に変化しただけで、中身は何も変わっていない可能性だったあるから、調子に乗らないように」
“化招水”を飲んで、遺伝子の中身まで確実に変われるのなら、多分ノーベル賞ものだろう。
遺伝子の中身を変わらなくても、私自身、アイツと似ていない全く違う者だと、人だったときのように思い込ませよう。そうでもしないと、精神が保ちそうに無い。
というより、“化招水”ってどのような効能があるのだろうか?
「さて。私は君に謝らないといけないことがあります」
さっきの試練のことだろうか。それならば、別に謝らなくても良いのにと思ってしまう。
「私の正体は、アナタが想像した雪女ではなく、エマ様の一部になっている雪女。彼女の身体が人形のように冷たくなるのは、私がいるから。まあ、彼女にとって温感という機能は死んでしまっているから、そのような関心はないのだろうけど」
途中から口調が変わりつつ、試練の内容をしっているため、おかしいと思っていたが、彼女がエマ様の一部なら頷ける。
「精神面の強化は思った通りにならなかったけど、何があっても心を壊れないように」
そう言い残して、ニルが消えると同時に吹雪が収まり、私の傷が全て癒えていたのであった。
置き土産というやつだろうか?
すると、私の前に裏狸を連れ去った蜘蛛の首領が上空から現れたのであった。
「精神の向上が上手くいかなかったようだな」
威圧感を醸しながら言い放つ。
「はい。申し訳ございません……。もしかして、試験は失格ということでしょうか?」
試練に失敗すれば、失格するのは当たり前だ。せっかく人間を辞めれたのにショックしかない。
「“化招水”を馴染ませ、人でない遺伝子に変化させるための試験だ。ワーウルフの遺伝子に変貌したお前に、勧誘をしてやってもよいが、ちと問題があってな」
「問題ですか……?」
私は固唾を飲むこんで、問いかける。
「お前に“蜂”の“私的刻印”が施されていてな。お前がスパイなのではないかと疑っている」
私がスパイだと……。そもそも、このような世界があったのは今日知ったばかりだというのに、私がいつ余所の“私的刻印”がつけられたというのであろうか?
「潔白を証明する方法は?」
「記憶の読み込みだ。だから、部下を呼んである」
そう言うと、彼の近くに扉が出現する。
「入れ」
その一言で現れたのは、短い茶髪が特徴的な少女であった。彼女は私を軽蔑するような目で見るが、なぜか、懐かしい感じがしたのである。
「彼が例の新人でしょうか?」
「ああ。エマが連れて来た」
「エマ様がね……。まあ、“強行契約”による“私的刻印”なら、我々で解除できるから、彼を連れて来た理由は分かるけど、そうでないのなら、私は彼を殺すかもしれませんが構いませんか?」
殺気を放ちながら言い放つ彼女に、首領は溜息を付く。
「リア。お前がエマを溺愛しているのは分かるが、度が過ぎる。殺害指示は彼の記憶を私に見せてからでも遅くは無い」
リアという名の少女は表情が更にむっとした表情になると、私のおでこに彼女の右手が置かれる。そして、もう一方の手は首領の一番前の脚に置かれる。
「私が記憶を読む際、きっとお前は意識を失う。私のは強引だから、あの世に行く可能性もあるから宜しく」
彼女がそう言い終わると、私は次第に意識が薄れていくのであった。