第三話 地下
その日の放課後。
彼女に渡された紙に記載されていた住所に辿り着いた。
そこは人通りの少ない商店街であり、その付近にある地下に通じる階段に、彼女が指定した場所があるらしい。
階段を下っていくと、地下二階でその階段は終わっており、そこにはエレベーターやエスカレーターがなく、どう考えても地下三階より下は通れない構造になっているのである。
やはり、屋上で見たものや、昼休みの出来事は夢だったのだろうか?
この紙切れは夢を見ながら書いた僕の幻想なのだろう。
普通の社会に楽しみも面白みのない人間はこういう風にして時間が過ぎていくのだろうと少しばかり惨めに思った。
「あら、見かけない顔だね」
私に声をかけたのは、高価に見える着物を着た二十代後半くらいの綺麗な女性であった。
「えっと、道に迷っただけです。し、失礼します」
私はすぐさまこの場を離れようとするが、その女性に私の腕を掴まれたのであった。
「怖がりながら逃げなくてもいいのに。本当に迷子かい?」
女性が掴んだ腕には、少女から貰った紙切れを握っていたため、女性はそれを取って見るのであった。
「あー。なるほどね。そういうこと。じゃあ、アナタは新人ってわけか」
私は紙切れを読んだ女性は私を馬鹿にするのだと思ったのだが、女性はその紙切れに載っているお店を知っているみたいだった。
「道はここで合っているわよ。ついてきな」
女性は私の腕を引っ張りながら歩き出す。
「私が人間を辞めたのは二十歳くらいかね。男にたぶらかされて何もかも失った時に、声をお掛けになったさ。正直、人間辞めると、人間のクソみたいな所が更に露見してしまうから、人間をやめて本当に良かったって思うよ。まあ、化物になっても人と変わらないところもあるけどね」
女性はそう言って、通路の奥にある壁をすり抜ける。
それを見てしまった私は少しだけ怖かったが、人間を辞めるための第一歩だと思い、目をつむりながら壁に向けて直進した。
壁に衝突した感覚はなく、ただ女性に引っ張りながら歩いているのは分かった。
目を開けて見てみると、周りは壁をすり抜ける前と同じような通路が視界に広がっていた。
「あの壁は本来なんの意味を果たしていないさ。だから、何の用事もない人間が入ってしまったら記憶操作して商店街のゴミ置き場とかに返したり、私達の遊び道具にしたあと棄てるのさ」
女性は近くにある階段を降りていく。
流石に女性に腕を引っ張られ続けるのは少々苦だったので、振り解いて女性の後をついて行く。
「紹介はだれから?」
「名前は聞いていません。ただ日本人形のような容姿でとても美しい方でした。虹彩の色が赤で強膜が水色でした」
それを聞いた女性は振り返ってジッと私を見つめていた。
「ど、どうかされましたか?」
私は綺麗な女性に対しての免疫があまりないため、ジッと見れられると恥ずかしくて少しだけ顔を赤らめてしまう。
「……いいえ。ただ、彼女が動くなんて珍しいと思っただけさ」
女性がそう言うと、階段を降りきりそこで停止する。
「彼女を知っているのでしょうか?」
「エマ様と呼ばれている。この近辺だと有名な人物さ」
「有名人だったのですか。しかも"様”つき」
私が階段を降りきると、女性は歩き始めた。どうやら、私のペースに合わせているらしい。
「おい」
私達の横を歩いていた、角刈りのいかつい顔をしたサングラスの男性から声をかけられた。
「なにさ」
「お前の連れ。ただの人間じゃねえか。こんな所に連れ込んでいいのかよ」
男は私を見ながら答える。
「この子はエマ様の紹介でこれから私達と同類になるさ。なんならついて来るかい?」
それを聞いた男は私を興味有り気な目で見るのであった。
「コイツがエマ様にね……。普通にどこでもいそうなクズみたいな人間にしか見えねえけどな」
男はそう言って、私達とは反対方向に身体を向く。
「ちょい待ち」
彼女は男を引き止める。
「アンタ見かけない顔だね。“私的刻印”見せな」
彼女は威圧感を放ちながら、男を睨む。
「悪いが、恥部にあってな。そう簡単に見せられない。お前もそうだろ? 知らない女に見せたくないよな?」
男はそう言いながら、私の肩を強く叩いたため、私はその衝撃で一歩前に出てしまう。
「そ、そうですね」
男の見た目が正直って怖いため、怯えながら答える。
「……だったら仕方ないね。まあ、仮にアンタがよそ者で私達の敵ならそう簡単に逃げられないから覚悟しな」
男は彼女の言葉に対して無言のまま背中を向いて去ってく。
「男の恥部に“私的刻印”何か聞いたことがないっての」
彼女はそう呟いて男に向けて何かを投げつけた。
「ところで、“私的刻印”って何ですか?」
私は疑問に思ったことを彼女に問いかける。
「同胞の印に身体に“私的刻印”するの。その箇所は個人によって違うけど、私のはココにあるのだけど見るかい?」
彼女は着物の胸元を徐々にずらしながら答える。
「え、遠慮しておきます」
私は大きくなっていく心臓の鼓動を少しでも押さえようと必死に否定する。
「冗談だよ」
彼女は笑いながら着物を直すと、歩み始めたので私はすぐに彼女の後について行く。
そのお店の名前は残念ながら英語で書かれていて読めなかったが、外装の黒い塗装に赤いペンキで書いた英単語はカッコイイと思った。
それから二分くらい歩くと、そのお店にエマが記した店名が入った建物に到着したのであった。
外見は白を基調としたものであり、外装に展示されたランプはとてもオシャレに明かりを灯していた。
「入るよ」
女性が率先して扉を開けると、私はその後について入店する。
「いらっしゃいませ」
と、手に持ったグラスを拭きながら言ってくれたのは、左目が前髪で隠れている爽やかな風貌をした二十代前半の男性であった。
店内はバーのような作りになっており、男性の後ろにはボトルが綺麗に陳列されていた。
「おや? 彼は人間ですよね?」
男性はすでに私が人間だと気付いたらしく、それを耳にした店内にいるお客達が一斉に私を睨むように振り向いたのである。
「これ」
女性は私がエマに貰った紙切れを男性に渡すと、彼は数回頷く。
「なるほど。脱人間を志した者でしたか。準備しますので少々お待ち下さい」
笑顔でそう言うと、彼は近くにある電話を取って何処かにかける。
「さあ、座って座って」
女性は近くに合ったイスに腰掛けると、隣のイスを引いたので、私はそこに座る。
「リナちゃん。この前の続きをしようぜ」
そう言って、私の隣にいる女性に声をかけたのは、コートを着たオジサンであった。
私がココまで案内してくれた女性の名前は知らなかったが、このオジサンによると、リナという名前らしい。
「続き? アナタが負けを認めていないだけでしょ?」
リナさんは溜息混じりに答える。
「いいじゃんかよ。さっき、昨日ココに迷い込んだ人間をさっき解凍して、盤に貼り付けたところなんだよな~」
人間を解凍。
ということは、人間を冷凍したということだろうか?
私は少しだけ怖くなって、身体が震え始める。
「そうかい。じゃあ、勝った方がコレをもらえるということで」
リナさんが懐から取り出したのは不透明のビニール袋であった。
「コレは?」
「殺しの依頼があった男の睾丸。若者のだし生きたまま取ったから美味いよ」
リナさんは笑顔で答えた。
睾丸って確か、男が付いている金色の玉だよな……。殺しの依頼とか。本当に今まで私が生きてきた社会とは違うのだと思った。
ココに来る前は好奇心や高揚感で一杯だったけど、今は恐怖心や後悔の気持ちが勝っていた。
「人間の睾丸か。俺は男だが美味いく感じられるのか?」
「生だと匂いがきついけれど、調理すれば絶品よ」
「だったら、やるぞ人間ダーツ」
男が叫ぶと、その他の客達が一斉に盛り上がった。
「人間の少年さん」
私に声をかけたのは、先程まで電話をしていた青年であった。
「は、はい」
恐怖心が拭いきれず少しだけ声が震える。
これ飲んで。
そう言って、差し出されたのは炭酸が入った赤色の飲み物であった。
「こ、これは?」
「“化招水"。これを飲まないと人間を辞められない。アナタはすでにエマ様によって、それと同類の何かを身体に注入されていますが、効き目は日付が変わればなくなるでしょう。どうしてそのようなことをなさったのかは私には分かりませんがね」
彼女は私の身体に何かを入れた……。
そういえば、私の手を握り締めたり、頭を撫でたりしていた。その時だろうか。
昼休みに、私が獣の体毛が生えていた気がしたのは幻覚ではなく。彼女がこの飲み物の成分を入れたから。
先程まで恐怖で身体が震えていたが、いつの間にかそれは止まっていた。
「じゃあ、それを飲んだら、オレの厨房の裏にあるエレベータに乗って試験会場まで行って下さい。僕等が手を貸せるのはここまでです」
「試験会場ですか……?」
ココに来ればすぐに化物になれると思ったのだが、どうやら違うらしい。
「ええ。人間を辞めれる権利を無性に得られるとでも思いましたか? 残念。ここも人間と同じように対価を払う場面もあります。まあ、エマ様の紹介なら余裕だと思いますよ」
青年は笑って答える。
自分がどういった化物になるかは分からない。昼休みに窓ガラスの反射で見た姿は一部分だけの変化であり、目の前にある赤い飲料水を飲んでなれる姿は別物かもしれない。
ココに居る人達は私から見たら普通の人間にしか見えない。きっと外見はエマ様のように身体の一部分や精神的なものが人とは異なっているのだろう。だとしたら、私のあの姿は人間というよりも獣寄りの姿だった。彼等と比較すれば人の姿から遠い。それは、正しい変化ではないということだろうか?
私は不安を持ちつつ“化招水”という赤い液体が入ったグラスを手にとって、それを飲む。
赤色のため、多少鉄の味がするものだと思っていたが、味が無いどころか、匂いすら感じなかった。ただの無味無臭の炭酸水を飲んでいるようだ。
グラスの中のものを全て飲み干したが、身体に変化は見られなかった。
「よし。じゃあ行こうか」
青年は笑みを浮かべながらそう言うと、私は席を立って彼の後をついて行く。すると、青年の言っていたとおり、エレベーターがそこに存在していた。
青年がスイッチを押すと、エレベーターの扉が開いたので、私はそれに乗った。
中に入った私はここにあるスイッチを見ると、地下一階から地下十五階までそれぞれ一個ずつ存在していたのであった。
エレベーターに乗ると聞いていたので、この階よりも下の階があると容易に予想が付いたのだが、まさか十五階まであるとは思っていなかった。
「――――iて。聞いているのかな? 地下十三階を押して」
青年は何度も言っていたらしいが、私はスイッチの数で驚いて耳に入っていなかった。
青年の言うとおりに私は地下十三階を押すと、扉が閉まりエレベーターは動き出した。
その時、不意に思ってしまった。スイッチを押した時、何か違和感を覚えなかったかと。
数字が大きい方を押したのに、上ではなく下の方向に移動するからであろうか?
いや、そういったものではない。私は普段エレベーターを利用しないので、そのようなことで違和感を覚えるのだろうか?
いや、もっと身近にあるものだ。それは一体何だろうか?
よりよく思考をしたかった私は自身の腕を組んだ。その時、普段とは違う感触がしたので、咄嗟に下を向くと、私の手の甲から犬や猫のようなフサフサな体毛が生えていたのであった。
「――――ッ」
驚いた私は身体を後ろに退いてしまったが、手の甲は私自身の身体の一部なため、遠ざかることはなかった。
昼休みに見た同じ色の体毛。あの時に見たのは、私が人間を辞める予兆だったと断言できる。
私の肉眼では、手の甲しか変化は見られないが、全裸になったときや鏡で見たりしたときは、他の箇所に変化があってもおかしくは無いだろう。
そんなことを思っていると、エレベーターの動きは静止して扉が開いたため、私はそれから降りる。
地下十三階に到着した私が最初に目に入ったのは、半径一メートルほどの大きな目玉であり、それは私をジッと見つめていた。
「君かい? エマ様の紹介を受けた人間は? 既に“化招水”の効果で露見しているようじゃが、私の力でその姿を完全体にしてやる」
渋い声で言った彼の目玉は一気に充血した。すると、私の身体が服を超過して全身が銀色の毛皮で覆われたのであった。
手を見てみると爪が鋭利に尖っており、足の爪も同様になっていた。
顔がどのようになったのかがいまいち分からないが、この姿になった途端。急に湿気のような匂いがし始めたので、嗅覚が発達したのだと思った。
「銀髪のワーウルフか。珍しい。まあ、エマ様から事前に聞いていたが、この目で見るまで信じられんのよ」
ワーウルフということは、俗に言う狼男になったらしい。
今日は完全な満月ではないはず。その伝承はただの噂だったのだろうか?
そういえば、昼休みに月を見た。だから私はあのゴミ達の攻撃がゆっくり見えたり、痛さがなかったのだろう。
「少年。お主は今から奥に行くがいい。そこからが本番だ」
目玉はそう言って、転がりながら道をあける。
「ありがとう」
私は愛想笑いをして差し出された道を進んで行くのであった。




