97.5 我儘に、その先へ
庭に広がっていた霧が晴れていく。どうやら決着したみたいね。目の前に展開していた結界を解くと、隣の阿求が安堵のため息を吐いた。
「終わったのですか……?」
「多分ね。途中からぱったり音がしなくなったから確証はないけれど……」
「どちらが勝ったと思いますか? いえ……霊夢さんはどちらに勝ってほしいですか?」
「……さあね」
私は阿求の問いを適当にはぐらかす。
そもそも私には関係ないもの。どちらが勝とうとも私はその先にある未来を見たくないんだから。北斗の死、霖之助さんの死……魔理沙の死。どんな未来でも、必ず何かを失ってしまい、そしてまた元通りになる。
変わらないものを変えようとするのは不毛だ。だから私は……
「北斗さん、霖之助さん!」
阿求の声で気が付いた私は、俯きかけていた顔を上げる。すると薄霧の中から二人が出てきていた。
多少泥だらけになっているけれど二人に大きな傷はない。そして……二人とも晴れやかな表情をしていた。それを見ただけでどちらが勝ったのかわかった。
阿求も察したようで菫色の髪を耳にかけながら、そっと霖之助さんに微笑みかけた。
「見届けることはできませんでしたが、結果はわかります。北斗さんが勝ったのですね」
「はい、これからは異変することで魔理沙を救う方法を考えようと思います。阿求さんに託された里の総意と違いますが……」
申し訳なさそうに俯く霖之助さんに、阿求は首振ってから、足袋が汚れるのも厭わず庭に下りる。そして、ゆっくりと歩を進めて……二人の目の前に立った。
「……あくまでそれは里の人間に最も都合がいい内容なだけです。全ての罪を一人に被せてそれを葬る……もっとも安易で簡潔な方法ですが、最適解ではない。少なくとも私は望んではいませんよ」
「しかし……」
「霧雨道具店のことは私がなんとかしてみせます。貴方が恩義を返したいと思うのであれば、貴方の手で魔理沙を討ってはいけません。そんな悲劇、誰も見たくはないのですから」
阿求は毅然とした態度で、霖之助さんの言葉を遮る。私が言うのもなんなのだけれど、見た目に似つかわしくない言動だ。まあ、幻想郷は大体そんな人ばっかだけれど。
それにしても霖之助さんがあれほど焦っていたのは霧雨道具店の……魔理沙の父親が関係してたからみたいね。たしか霧雨道具店で修行していたんだっけ。それなり恩義は感じていたのかも。
「……わかりました。よろしくお願いします」
霖之助さんは恭しく頭を下げたまま呟く。この二人のやり取りから察して……里の混乱は相当のものだったみたいね。
魔理沙は里の中でも有名人だ。そんな魔理沙が異変を起こしたとなると、その父親への風当たりも強くなるのは当然かもしれない。納得いかないけれど。
ふと霖之助さんの隣で立ち尽くす北斗を見遣ると……随分怖い顔をしてきた。
考えていそうなことはわかる。アレはとことん甘い性格をしているもの。
他人に優しく、自分に優しくない。だからこそ他人に優しくできない『大衆』という存在を許せないのだろう。
優しさなのはわかる。けれど……それはただの偽善染みた正義感でしかない。
「アンタに出来ることはないわよ。少なくとも、この件に関しては」
「……影響の力があっても、か?」
「輝星北斗だからできないのよ」
「………………」
念のため釘を刺しておいて正解だったみたいね。北斗は何も言葉を返さなかったけれど、息を一つ吐いて元の表情に戻った。表立っては、ね。
気持ちはわからないでもない。けれど少なくとも私は里の人間を責めるつもりはなかった。
元来人間は弱い。力も、心も弱くなくてはいけない。弱いからこそ妖怪を畏怖し、妖怪を生かすのだから。
……そう定義したとしたら魔理沙は、咲夜は、北斗は……私は、本当に人間と呼べるのかしらね。
なんてらしくないことを考えてしまっていると、この場では間違いなく一番人間にらしい阿求が胸元で握り拳を作りながら目を瞑る。
「魔理沙が全ての罪を償う必要も、貴方が業を背負うことはありませんが……故に、私は頼まなければなりません」
阿求は北斗と私の方に向き直る。威厳には乏しいけれど、強い意志を感じる視線が私達を射抜く。けれど私は彼女の拳が微かに震えているのに気付いてしまい、つい顔を逸らしてしまう。
「この異変は幻想郷自体を脅かすものではないのかもしれません。ですが繰り返す時間の中での生は……無秩序で、無価値です」
「………………」
「命は取り返しがつかないからこそ尊い。私達を生かすために、この異変を終わらせてください」
阿求はその襟元で切りそろえられた髪を振り乱しながら頭を垂れる。
彼女が繰り返す時間を記憶できているかはわからない。けれど……何代も転生し、生と死の輪廻を繰り返してきた阿求が言うからこその重みがあった。
わかる。わかっているわよ。私だってこんな異変終わらせたい。けれど……そうしようとすれば、誰かが犠牲になってしまう。霖之助さんが、魔理沙が……北斗が、犠牲になってしまう。誰かのいない明日は空虚でそれこそ、私が生きている意味があるんだろうかって考えてしまうほどの喪失感だった。
だから私は異変を解決しないと決めた。博麗の巫女としての使命を、私が私である芯の部分を捻じ曲げて……逃げた。なのにどうして……
「元々そのつもりです。絶対に異変は解決します」
なんで北斗はこんなに変わらないのだろうか? どんなに私が説得しようとしても、繋ぎ止めようとしてもコイツは勝手に進んでいってしまう。私はそれが……理解できなかった。
一緒に暮らす中で北斗のいろんなことを知った。自分の事になったら結構ずぼらだったり、裁縫が得意じゃなかったり、何かに直面すると息を吐いて落ち着こうするのが癖だったり……
けれど私が北斗を知っていく速度より何倍速く、北斗は変わっていく。私はそれに……付いて行けなかった。
「霊夢さんもよろしくお願いします」
阿求が私の顔を覗き込みながら言う。本当は異変を解決したくない、だなんて言い返せなかった。私は腹の底にモヤモヤとした罪悪感を抱きながら、なしくずしに首を縦に振った。
その後、私と北斗は一度博麗神社に戻ることになった。北斗は地底に行く道すがら昼食を取りたいと言っていたけれど……きっと博麗神社に残してきた二人が気になっているんでしょうね。
本来なら空を飛べば神社まであっという間なのだけれど、私達は田んぼ道を二人並んで歩いていた。正午までまだ時間があったから、というのもあったけれど……北斗と話をする時間を作りたかったのが一番の理由だ。
「久しぶりにこの道を歩くわ……貴方が幻想郷に来てすぐ以来かしら?」
「そうなのか? 俺はたまに歩いてるぞ。空飛んでばかりだと足腰が鈍るし」
「妙なところでストイックねぇ……」
確か、前は春だったかしら? あの時は肌寒い程度で散歩も悪くない気候だったけれど、今は芯まで凍えそうな寒さだった。結構防寒着を着込んだつもりなのだけれど……やっぱり冬は嫌いだ。
と、肩にそっと外套が掛けられる。北斗が着ていたやつだ。仄かに温もりが残っていてむず痒い気持ちになってしまうけれど……
「なーんか癪に感じるのよねぇ……北斗、他の女の子にもやってるでしょ」
「えっ、まあ、女性は身体を冷やすのはよくないって聞くし……俺はどっちかというと寒いのは得意だから」
「……あっそ」
こうやってまったく言い訳しないのが逆にムカつく。何かイライラする私がもっとムカつく! 私は外套の端を握りしめながら、北斗に顔を見られないよう雪の残る田んぼ眺めた。
しばらく二人で歩いていると、田園地帯を抜け雑木林に入る。冬晴れの陽気も届かない薄暗い林だが、北風が弱まる分いくらか暖かかった。ただそこに命の気配はない。雪に埋まり眠る草木だけがただ春を待っていた。
「あの時と全然違うな……」
「そりゃ季節が違うじゃない」
「そうじゃなくて……変わったのは、霊夢だよ」
北斗が感慨深そうに紡いだ言葉に、私は足を止めてしまう。
……気付いていない思っていた。だから拒絶したのに。私のことを何もわかってない癖に、と。北斗の事なんて何一つわからない、と。
わかっていなかったのは私だけだった。それなのに私は北斗を傷付けて、火依を怒らせるだけの酷い言葉を……
私は北斗に謝ろうとするが、それより先に北斗が口を開いた。
「最初の頃より優しくなった……いや、優しさがわかりやすくなった、かな」
「……私は優しくなんかないわ」
「優しいよ。十分に、優しい」
ざく、ざく、と霜を踏み鳴らしながら北斗は私の前を歩いていく。
なんだか置いていかれそうな気がして、私は早歩きで隣に追いつこうとする。けれど急に北斗が立ち止まったせいで逆に一歩ほど追い抜いてしまう。不思議に思った私は顔を覗き込んでみる。すると北斗は……後悔の混じったような、自責的な微笑を浮かべていた。
「沢山助けられた。何度も心配してくれた。ずっと味方でいてくれた。本当に……感謝してるんだ」
「北斗……」
「だから許せないんだ。俺を頼ってくれないことが。我儘言ってくれないことが」
北斗は右の拳を震えるほど強く握りしめながら俯く。私は掛ける言葉もどう触れていいかもわからなくて、立ち尽くしていた。
静かすぎる木々の中、私達はお互いに何もできなかった。吐く息の音すらうっすらと積もる雪に吸い込まれて音にならない。
まるで時間が止まったかのような永遠の中……沈黙の薄氷を破ったのは北斗の足音だった。
気付けば北斗は私の目の前に立ち、右手を取っていた。どうしたの?と、尋ねる暇もなく……私はその手を引かれ北斗の腕の中に飛び込んでしまう。
「あ……」
緊張で指先一つ動かせる気がしない。唐突に抱きしめられた私は、高鳴る鼓動とほんの僅かな圧迫感で呼吸ができなくなっていた。
あまりにも唐突過ぎて、何もできないし何も考えられない。頭の中は熱暴走してまともに機能していなかった。
昨日も抱きしめられたけれど、あの時はこうしてくれるって何となくわかって、素直に身を任せられたけれど……今は違う。しばらくなすすべなく腕の中に納まっていると……おもむろに北斗が口を開いた。
「助けたいんだよ俺は……霊夢を」
腕から伝わってくる。本当にそうしたいっていう強い思いが。嬉しい。嬉しい嬉しい嬉しい。こんなに大切に思ってくれていたんだと分かって、たまらなかった。
私は北斗の胸元に両手を添えて、そっと頭を預ける。温もりがとても心地よかった。身体の芯まで浸食しようとしていた冷たさが溶けていく。孤独を溶かす微熱……燃えてしまいそうな感情が、雪の中に埋もれていた私を救ってくれた。
もう、十分だ。私は北斗に十分すぎるほど救ってもらった。この時間が訪れるなら私は、何度でもこの時間を繰り返せる。この先が分からなくても……きっと大丈夫だ。だから……
「……でも私はそれを望んでいないわ」
拒絶の言葉と共に腕を突っぱね、北斗の身体を突き放す。もう誰かがいなくなる瞬間を見たくなかった。何度も失いたくない。また明日に戻って、北斗が帰ってくるのを震えながら待つのはもう嫌だ!
けれど北斗は私の右手を握ったまま離さなかった。
「わかってる。この異変は幻想郷の今後の在り方に関わることだって。魔理沙やレミリアさん達の決断を否定する権利も力もないことくらい自覚してる。霊夢が俺に死んでほしくないって思っているのも……ちゃんとわかってる」
「なら……」
「それでも俺は霊夢を助けたいんだ! 霊夢と火依と……みんなで一緒の時間を過ごしたいんだ! 今日の事を忘れたくない! また霊夢を……悲しませたくない!」
深い黒の瞳が私を射抜く。どうしようもなく他人が好きで、自分に出来る事なら何でもしてしまうお人好し。そんな北斗が我儘を言っていた。私を助けたいって。『私の為に』を、『自分の為に』と言ってくれている。
もし、もし本当に、ほんの少しだけ甘えていいなら私は……
「だから、願ってくれ。俺に……助けてくれって」
「わた、しは……」
願ってもいいの? 我儘になっていい? 霖之助さんが絵空事と言った未来を……望んでもいいのかしら? 弱くなっても、いい……かな?
「私を……私に誰も欠けないみんなのいる未来を見せて。魔理沙を……止めて!」
北斗は私の願いを聞いてただ頷くだけだった。それだけで嬉しくて、悲しくて……私は北斗が握ってくれていた手を両手で包み込む。
泡のように儚い夢物語だってわかっている。それでも私は信じてみたかった。北斗が、彼方に失われた言葉のその先を見せてくれることを。




