91.0 彼の弱さと彼女の弱さ
紅魔館の敷居をまたぐこともできず撤退した俺達は、霧の湖のほとりに降り立った。何やら話し合っている布都さんと屠自古さんから離れ、向こう岸……霧の中に浮かぶ紅魔館を眺める。何も考えたくない、脳が現実逃避していた。
そんな俺を見兼ねたのか、隣に神子さんが並び立つ。何を言われるのか身構えてしまうが、彼女の口から出たのは思ったより優しい声音だった。
「北斗君、君はまだ迷ってるようだね」
「……『十人の話を同時に聞くことが出来る程度の能力』は人の心理まで読めるんですか?」
「まさか、観察と経験だよ。確かに私にとっても予想外だった。まさか道の閉ざされた世界を望むものがあれほどいたとはな。正直、度し難いのだが……君はそうは思わないのだろう?」
「………………」
流石歴史上の偉人、格が違うな。神子さんの言う通り、俺はこの異変にどう向き合えばいいか、わからなくなっていた。
あくまで俺の憶測の範疇ではあるが彼女達が望んでいるであろう願いがよくわかってしまうからこそ……それを異変だから、という常識的でしかない理由で止めることが本当に正しいなのか、わからなくなっていた。
押し黙る俺を神子さんはしばらくジッと見つめていたが……布都さん達に呼ばれると、踵を返し行ってしまった。残された俺はそれでも動くことができない。ただ神子さんの背中を視線で追いかけていく。
「……思考に囚われているな。そい!」
「ぐはっ!?」
と、いつの間にか目の前にいたこころちゃんが腹に拳を埋めてきて、変な声が漏れる。軽いじゃれ合いのつもりなのかもしれないが、妖怪の彼女が人間の俺に向けてするんだから十分な打撃だ。いい拳持ってんじゃねぇか……
「い、いきなり殴るのはどうかと思うんだが……」
「言っただろう? 思考に囚われ、大義で答えを探し、名分で答えを割り出そうとしている……感情を操る同志として、我慢ならぬわ!」
「は、はぁ……」
無表情ながら火の如く説教をし始めたこころちゃんに、俺は気押されてしまう。頭につけたお面が般若になっている、もしかして今の感情で画面が変わるのだろうか? だとしたら……今は怒っているのか。
どちらが正しいか。俺がどうしないといけないか。それ以外にどんな判断基準があるというのか。
……なんて、フランちゃんくらい幼い容姿のこの子に聞くのは流石に恥ずかしい。必死になってボイコットしている頭を動かし考えるが……答えが出るより先にこころちゃんが俺の顔を真っ直ぐ見上げながら言う。
「私はお前の感情を知りたいのだ。お前自身はどうしたいのかを!」
「俺、自身……か」
俺はこころちゃんの言葉を噛み締めるように、呟く。
難しい質問だ。いや、永遠亭の時だって、地底の時だって……霊夢の代わりに異変を解決したあの時だって、俺がしたいから行動していた。今生きる人との時間を大切にして欲しいから妹紅さんを手伝った。こいしに孤独になってほしくないから地底に向かった。そして……霊夢に博麗の巫女として居続けてほしかったから代わりにぬえと戦った。
すべてが俺の感情が生み出した行動だったと、自信を持って言える。だが今回に関しては……俺自身がどうしたいかすらわからなかった。
この異変は、少なくとも非常識こそ常識の幻想郷においては間違ったものではない。繰り返す日常もそれが幻想郷の常識になってしまえば……異変ですらなくなってしまうんだから。
要は繰り返す日常か元の幻想郷か、単純にどちらを望むかの二択の選択を迫られているのだ。現に幻想郷は異変の解決を望むもの、望まないものの二つの勢力に分とうとしている。俺は……その選択肢を選べないでいた。
「神社に戻る。少し考えさせてくれ……神子さん達によろしく言っておいてくれ」
「……わかった」
俺は頷くこころちゃんに手だけ上げて、神社に向けて飛んだ。北風が考えすぎた頭を冷やしてくれると期待したのだが……それでも、答えは出なさそうになかった。
結局博麗神社に辿り着いても、らしい答えは見つからなかった。
いつだったか、以前も空を飛びながら考え事をしていたが答えは出なかったのを思い出す。まあ、当然だ。異変のこと以上に霊夢と火依のことが気になっていたのだから。
憂鬱だ。俺は霊夢に、火依に、何て言えばいいんだろうか? 魔理沙に会えたけど、レミリアさん達と輝夜さん達に邪魔されてほとんど喋れなかった、なんてカッコ悪すぎる。何もなかったと言ってしまえばいいんだろうか?とつまらない嘘で流してしまいたくなるが、それこそ格好が付かないし……何の解決にもならない。
「はぁ……」
ついため息が漏れる。だが、憂いていてもどうしようもない。とりあえず、夕食でも作りながら考えよう。そう考えた俺はいつも以上に赤い夕日の中、境内に下り立つ。そしてそのまま台所の勝手口から入ると……
「……おかえりなさい、北斗」
「霊夢! もう起きて平気なのか?」
「まあね……もう出来るわよ。さっさと手を洗って座ってなさい」
そこには割烹着姿で寸胴鍋をかき混ぜる霊夢が立っていた。まだ手足には包帯が巻かれていて心配になるが……本人は特に気にした様子もなく手を動かし続けている。
霊夢が料理するのは珍しい、という訳ではない。俺が留守の時は大抵霊夢が台所に立っている。そもそも俺が来る前も自炊をしていたらしい。ただ俺のように無駄に凝ることは面倒だし、三人分作るのは疲れるだと言って積極的に作らないだけだ。その筈なのだが……
「……霊夢、もしかしてカレー作ってるのか。いつの間にレシピ盗んだんだ?」
「えっ……あぁ、ルーの入った箱に作り方が書いてあるじゃない。それに従って作れば火依でもできるわよ」
「まあ、そうだけど……」
霊夢がわざわざカレーを作るところなんて初めて見たから、つい驚いてしまった。第一霊夢がこれほど料理を楽しんでいるのも珍しい。しかも横顔が生き生きしている。思わずマジマジと見つめていると……視線に気づいた霊夢に睨まれる。
「言っとくけどアンタみたいに一晩二晩寝かしてないからね。味が悪いなんてのたまったらぶっ飛ばすから」
「言わないよ……これでも霊夢の腕には一目置いてるからな。心配はしてない」
「そう……」
霊夢は相変わらず素っ気ない返事を返してくる。ただそれは口調だけだ。そっぽを向く霊夢の表情が……何だか寂しそうに見えた。いや、よく考えれば……魔理沙とあんなことがあったんだ。無理をして平静を装っているのかもしれない。後で気にかけておくか……
しかし、そんな俺の心配を他所に霊夢は普段通りの手際の良さで食卓に三人分の料理を並べた。
「さ、召し上がれ」
「いただきまーす」
「ん、いただきます」
俺と火依は手を合わせてからスプーンを取りカレーを口に運ぶ。普段俺の作るのは煮込みに煮込んで深い味に仕上げるんだが、霊夢のカレーはさっぱりとした味だ。ゴロゴロ野菜、肉少なめは霊夢の好みそのもので、可愛らしく思えてしまう。
「ん、美味しい。霊夢らしいカレーだ」
「何よそれ。当然でしょ? 私が作ったんだから」
霊夢は自分の皿には手をつけず頰杖を付いて、食べ続ける俺と火依を見つめていた。ムスッとしているように装っているが、自然と表情は緩んでいる。なんだろう、この違和感は。既視感のようなものも覚えてしまう。この感じ、どこかで知っているような気がするんだが……
「北斗、手が止まってるわよ。やっぱり口に合わなかった?」
と、気付けば霊夢が不安そうに瞳を揺らしながら俺を見つめていた。いつも以上に喜怒哀楽が激しくて、俺もつい反応が過敏になってしまう。心臓を突っつかれたようにドキリとしながら、何とか取り繕う。
「ごめん、ちょっと今日は色々あったから考え事してたんだ。それより霊夢も見てるだけじゃなくて、一緒に食べよう。冷めるよ」
「……ええ、そうするわ」
そう言うと霊夢は勧められたままスプーンを手に取り、静かに食べ始めた。
その後俺達は会話は少なめだが穏やかな食事の時間を過ごした。お陰でパンク寸前の脳内がある程度はフォーマットできた気がする。昨日から色々あり過ぎたからなぁ……
さて、そろそろ今後のことを霊夢と火依に相談しないといけない。昨日今日あったことをありのまま話す覚悟は出来ていた。二人に嘘を吐くよりよっぽどマシだからな。俺は食後の緑茶を入れてきてから、炬燵で丸くなる霊夢と火依に話しかける。
「二人とも、魔理沙の放送は聞いたか?」
「うん、聞いた」
「……一応は、ね」
俺の問いかけに火依がすぐに頷き、それから霊夢がやや遅れて返す。細かいようだが、それも何だか霊夢らしくなくて……どうも引っかかりを覚える。だがいちいち指摘するのも気が引けたので、俺はそれを無視し話を続ける。
「魔理沙は紅魔館にいた。しかも、レミリアさん達と輝夜さんを味方にして、時の繰り返しを実行しようとしている」
「………………」
「これは異変だ。けど、レミリアさんと輝夜さんは永遠の時間を求めているんだと思う。霊夢、この異変……」
解決すべきか、そう聞こうとした。はっきり言って霊夢に対しては愚問だ。
異変は解決する。それが博麗の巫女としての使命だから。けれど、霊夢からはっきりとした意志を聞けば……俺もどうするべきかわかるように思えたのだ。だから答えがわかりきっているのに聞いた。彼女の意志の強さに、引っ張って欲しくて……
それは、俺の弱さだった。一人の少女に頼ってしまいたくなった、俺の甘さだった。
それは、霊夢の弱さだった。完璧天才の博麗の巫女が見せた初めての弱音だった。
「解決しなくていいわ。この異変」
「……は?」
俺は霊夢の言葉を聞いた瞬間、頭の中が真っ白になった。




