79.5 三人分の笑顔
まさか、霊夢が来てくれるなんて思ってもいなかった。
来てくれるなら北斗だけだろうなって、思っていたから……意外に思う。けど、嬉しい。
ただ困った。北斗に対して伝えたい言葉だけは考えていたんだけれど……霊夢が私の目の前に現れてから、来てくれてありがとうの一言すら口に出せていなかった。
「私はアンタに用はないのよ! 『霊符「博麗幻影」』!」
「そういうわけにはいかないわ! 『審判「ラストジャッジメント」』!」
霊夢と閻魔様が三途の河上空で、ハイレベルな戦いを繰り広げている。薄っすらと霧が立ち込める中での弾幕ごっこは遠近感が取りにくい。私じゃスペカ一枚出す隙もないかもしれない。
しかしそこは流石の博麗の巫女。まるで蝶のように可憐に、優雅に弾幕を躱している。
「ひゅー、流石だねぇ……弾幕ごっこの相手としてなら誰よりも厄介な人間だよ」
朱い髪の背高い死神は砂利だらけの川岸に胡座をかきながら呟く。
鎌も放り投げて、完全に観戦モードだ。私はその様子を見て……ふと疑問に思ったことを尋ねる。
「今のうちに私を向こう岸まで運ばないの?」
「ん……? ああ、映姫様はそうしろって言うかもねえ……けど、そんなのは粋じゃない。お前さん、まだ巫女と何も話してないじゃないか」
「………………」
そう、だけど……何を話していいか分からないし、霊夢がなんて言うのかも想像できなくて、話をすることが怖く思ってしまっていた。
……そういえば私が最初に霊夢に出会った時も怖いと感じていたっけ。博麗の巫女は妖怪の天敵だというのは噂で耳にしていた。私のように弱い妖怪は目に移った瞬間退治されるかもしれない、って割と本気で怯えていた。
「……霊夢とは博麗神社でいっぱい話した、から」
「それでいいもんかねぇ……」
「私は……それだけでよかったよ」
……実際のところ霊夢は、妖怪の私に対しても面倒見が良い、優しい人だった。
毎日境内の掃き掃除とお茶するのが生き甲斐のごく普通の人間で、結構簡単に怒ったり笑ったりするから一緒に居て飽きなかった。
一緒に髪を洗いっこしたり、北斗に隠れてカップ麺を作って食べたり……たった半年だけれど、霊夢との思い出は少なくない。まるで姉のように思っていた。けれど……
私が何も言わずに立ち尽くしていると、死神が空に描かれる弾幕の花を見上げながら話し始める。
「三途の河で船頭をやっているとさ、幽霊からいろいろ話が聞けるんだよ。ま、大抵似たり寄ったりの不幸話や懺悔なんだけどさ。未練のない奴なんて殆どいないよ」
「……未練?」
「そ、未練。悔いがないように生きろって、よく言うけどさ。人生には大なり小なり悔いが残るもんさ。どんな選択だって最善かどうかなんてわかりゃしない。後悔しない奴なんていやしない。妥協を繰り返し、それなりに自分を騙して、最良だった納得していた、と言い聞かせる。それの繰り返しさね」
死神はまるで教鞭を振うように多弁に語っているけれど、私は何が言いたいのか察しかねていた。
すると、死神は横目で私を見遣って愉快そうに笑う。
「要は『死んだ後に未練を断ち切れる機会なんてそうそうないんだから、後悔しないようにしな!』ってこと。別れの挨拶すら出来ない奴だっているんだからさ」
「……うん」
それは……最初から覚悟していた。
私は妖怪の幽霊で、二人は人間、同じ時間は生きられない。そのことは永遠亭の住人と妹紅達の一件で、私にも突きつけられた現実だった。そして、想像とは少し違う形だけれど……その時は訪れてしまった。
言わないといけない。私は……もう死んでいるだって。
霊夢と閻魔様の弾幕ごっこはまだまだ終わりが見えない。むしろ苛烈を極めていた。
「幻想郷の秩序を守るものが、死者を此岸に留め置こうするだなんて……やはり貴女は業が深すぎる。今ここで断罪しなければならないほどに! 『審判「浄頗梨審判-博麗霊夢-」』!」
閻魔様が手鏡を取り出し霊夢に向ける。その瞬間、鏡から霊夢と同じ姿の幻影が浮かび上がり、弾幕を放ち始める。その動きは霊夢のそれと瓜二つだ。
だが霊夢は自分自身を相手にしようと動じた様子はない。まるで来るのが分かっていたかのように弾幕を避けながら、スペルカードを抜き出す。
「御託ばっか並べて……邪魔よ! 『神霊「夢想封印」』!」
霊夢は自分の周囲に生み出した光球を、自身の幻に向かって撃ち放つ。
北斗の夢葬回帰と違い、吸い寄せられるように幻影の霊夢を追尾し、捉え飲み込んだ。光が収まった後には影一つ残っていない。それを見た閻魔様が、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
「まったく儘ならない。妖怪を退治し人里の人間を助ける、それが貴女が詰める善行だけれど……力を持ち過ぎるのも困ったものだわ」
「もう降参? ならさっさと仕事に戻りなさいよね。私は火依に用があるのよ」
霊夢はお祓い棒で肩を叩きながら剣呑な口調で言い放つ。けど閻魔様は口元を笏で隠しながら溜息を一つ吐くだけだ。
「……霊夢。貴女は能天気な人だけれど、馬鹿ではない。わかっているはずでしょう? 全ての者に等しく別れはやってくる。貴女のやろうとしていることは、それを一時的に引き延ばしているだけよ」
「そんなこと……わかってるわよ。けれど、火依が帰ってこなければ、北斗は……」
そう言いかけて霊夢が歯を食いしばりながら顔を背ける。
なんだか様子がおかしい気がする。それに北斗が一体どうしたのだろうか? 霊夢の今まで見たことのない、焦ったような表情に不安を感じていると……
「俺がどうしたって?」
聞き慣れた低い男の声が耳に届く。声のする方を向くと、そこにはスキマの中から現れる北斗と紫の姿があった。
「北斗……!」
「間に合った……みたいだな」
北斗は体中ボロボロなのにそれを意に介した様子もなく、私に向けて歩いてくる。
つい、私も北斗の元へ駆け寄ろうとしてしまうけれど、それを大鎌が遮った。
「おっと、待ちな。連れ去ろうっていうなら見逃せないね」
私の前に朱色の髪の死神が立ち塞がる。先程とは打って変わって、剣呑な表情を浮かべていた。それを向けられた北斗は……一つ息を吐いてから口を開いた。
「えっと……貴女は?」
「小野塚小町、しがない死神さ。そして上にいるのが……」
「四季映姫・ヤマザナドゥ。この幻想郷の死者の裁きを担当している者……閻魔と言えば伝わりやすいかしら?」
閻魔様も降下してきて、死神の隣に並び立つ。二人とも北斗が私を連れ戻そうとすることを警戒しているみたいだった。けれど北斗は敵意はないと示すように両手を広げて見せる。
「輝星北斗、外来人です。火依を連れて帰ろうとは……今のところ思っていません」
北斗の言葉に、閻魔様の首がピクリと反応する。そして何か言いかけようとするが、その前に北斗の前に霊夢が立ち塞がった。
地面に降りるや否や北斗の胸倉を掴んで、ガクガクと身体を揺らす。
「……北斗! 元の姿に戻ったの!?」
「あ、あぁ、霊夢……やっぱり、あれが俺って気付いてたか」
「……当たり前じゃない!」
北斗は頭を掻きながら苦笑いを浮かべる。そのあまりに呑気な顔を霊夢は平手打ちで叩いた。
爽快感すら覚える快音が、三途の河に響く。打たれた北斗本人もあまりに突然のことに痛がることも忘れて、目を丸くしていた。
「霊夢……?」
「アンタねぇ……どうして勝手にどっか行っちゃったのよ!? 私がアンタ程度見分けられないわけないでしょ!? 適当にほっつき歩いてたら、どっかの誰かに退治されていたかもしれないのよ!? それにアンタが封魂刀を壊したせいでこんなことになってるし……」
「ごめん」
「来るのも遅い! 人間に戻ったなら、さっさと私の所に来なさいよ! 本当に、そういうところは全然成長しないわ! いらない心配させないでよ!?」
「……ごめん」
烈火の如く捲し立てる霊夢に、小さくなって北斗はただ謝ることしか出来ていなかった。突然の出来事に閻魔様も死神もキョトンとしている。見兼ねた紫が霊夢と北斗の間に割って入るほどだ。
「霊夢、今はそれくらいにしておきなさい。貴方達は三途の河まで来て、痴話喧嘩をしに来たんじゃないでしょう?」
「わかってるわよ! あと痴話喧嘩じゃない!」
霊夢はまだ怒り足りないようだったけれど、頬を膨らませながら私の方を振り向いた。北斗も静かに私をジッと見つめている。
私は目の前の閻魔様と死神に目配せ、ううん懇願するような視線を向ける。すると、閻魔様は渋々という風に、死神はウインクをして目の前を空けてくれた。
私は震える足で、二人の前に立つ。背の低い私からだと、二人の張りつめた表情がよく見える。そのおかげで……ほんの少しだけ、心に余裕が出来た。話したいことも浮かんできた。大丈夫、伝えられる。
「……火依、あのね」
「北斗、霊夢。私、前から二人に言いたかったことがあるの」
私は霊夢の話を遮るように口を開く。きっと、霊夢の言葉を聞いたら、私はそうしたくなっちゃう。北斗だって迷っているから、あんな曖昧な事を言ったんだと思う。
けれど、私は告げないといけない。今まで二人が見せてくれていた幻想に終わりを告げるために……
「二人とも、ありがとう」
「……ッ!」
霊夢が顔を逸らす。最後まで二人の顔を見て話したかったけれど……そうしてほしいだなんて言えなかった。
仕方ないから霊夢は置いておいて、拳を握りしめる北斗に向き直ることにする。
「……北斗が封魂刀に私を封印したことを、正しいのか迷っていたの……知ってた」
「………………」
「正しいことだったのか、間違っていたことなのか。難しくてわからないけれど、私は嬉しかった。まだ生きていられて。北斗と霊夢と一緒に居られて……幸せだった」
私は何とか作り笑いを作って、北斗に見せる。けれど、北斗は血が出そうなほど歯を食い縛っていた。そして、堪らず吐き出すように言葉を洩らす。
「ごめん、俺のせいで……!」
「気にしないで。北斗は悪くないよ。北斗が気に病んでしまう方が、私は嫌だから」
「………………」
北斗が悔しそうにだけれど頷くのを見届けてから、私は何とか落ち着き始めた霊夢の方へ近づく。そして抱き着こうとして……止めた。
今私は封魂刀にいる時みたいの透けたり触れたり自由にできないし、幽霊の身体じゃ凍傷してしまうかもしれない。代わりに背けた霊夢の顔を覗き込む。
「霊夢、ここに来てくれて……びっくりした。私と同じように、思っていてくれたなんて……とっても嬉しかった。ずっと私からの片道だと勘違いしてた」
「……馬鹿ね。それなりに一緒に暮らしていれば、それなりの情は湧くものよ」
「ふふ、そっか……けれど私は、霊夢の事大好きだったよ」
「ッ! ……何で過去形なのよ? 今から私と北斗であの閻魔と死神をやっつけて……」
私は人差し指で霊夢の唇に触れて、言葉を止める。指先から伝わる冷気で、私がこの世のものではないと実感できるはずだ。もう、私達は一緒に暮らせないって。
霊夢の頬に一粒だけ涙が伝った。それが私の手を通り抜けていき、小さな氷の粒に変わる。
私は一歩下がって、改めて二人の顔を見る。二人とも酷い顔をしていた。私が好きだった表情は、もっと温かいものだったのに……それが見れなくてちょっぴり残念だった。
「じゃあ、行くね」
私は二人の返事を待たずに背を向けて、歩き出す。もう振り返らない。振り返ったらずっと押し隠していた私の酷い顔が見られちゃう。嗚咽で気付かれちゃうから、私はただ何も言わずに歩く。
死神はそんな私をわざと見ないようにしながら船に乗り込んで、私を待ってくれていた。船縁に足を掛けて乗り込もうとする。その時……
「さようなら」
二人分の声が、背中越しに届く。
もう二人は大丈夫だ。きっと笑顔で見送ってくれているはずだから、もう未練はない。私は迷いなく船に乗り込んだ。
「さようなら。二人とも大好きだったよ」
私は二人に背を向けたまま呟く。それを合図に死神はゆっくりと舟をこぎ始めた。




