第三十五話:四月三日の朝
鳴らない携帯電話のアラームに、首をかしげて冬治は目覚めた。
「ああ、そうか。俺、携帯電話なくしているんだっけ」
狸や狐、猫が人の姿をして不思議なタロットカードを所持している。人間以外がありならば、無機物がタロットカードを所持していても問題は無いようだ。
冬治の携帯電話は運命の輪を所有していた。幸か不幸か美少女の姿では現れなかったのでどんな姿をしているのかは不明だ。時折、綺麗な声で冬治宛に電話を掛けてくる程度だったのだ。
今頃どこで、何をやっているのだろうか。内部に水が入ってしまった、屋上から放り投げた、逆パカなどで壊れてしまった。それらのうち、どれかに該当しているのではないかと心配で仕方が無い。
最後は冬治に逃げろと言ってくれた携帯電話だ。あの後、どうなってしまったのだろうか。
「ちょっとしみじみしちまったな。女々しい……ちょうどいい機会だし、買い換えるか」
連絡手段が無いから必要だよな。ある意味、浮気行為とも取れる発言である。元の世界に戻ればそこには正妻が待っているのだ。
もし、現地妻を伴って戻れば制裁が待っているだろう。修羅場である。
携帯の問題は脇においておこう。冬治は立ち上がり、リビングへと向かう。
「こんなもんか」
弁当をつめ終え、冬治は台所を眺めた。特に汚れているような箇所は無い。次に、冷蔵庫の中身を確認すると鳥のモモ肉が入っていた。
「晩飯のおかずはこいつだな。ほかに特に入っていないから、買い物しないとなぁ」
カードの件でどれだけ時間を取られるのか分からない。遅くなってしまう場合は外食も視野に入れておいたほうがいいだろう。
一人で外食だなんて、最初の頃は非常に戸惑ったものだ。中学生の頃、いきなり両親が喧嘩を始めたのだ。問題は父親の馬鹿のせいだったりする。
浮気の現場を押さえられ(と言っても知り合いの娘さんと仲良くお食事だったりする)、その謝罪を求めたのである。父親は時間が欲しいといってなぜかその日に会社を辞めたらしい。学校から帰ってきた冬治はテーブルの上に離婚届を見つけた。なぜか、父親の筆跡で妻の氏名欄にバーボン畑中と書かれていた。ちなみに夫の欄には何もかかれていなかった。
父親は外国のあちらこちらに向かう仕事に再就職し、マジな逃走を開始した。そして二ヵ月後、冬治宛に父親から記憶媒体が送られてきたのだ。
「久しぶりだな、冬治。すまない、家にいてあげられなくて。だが、分かって欲しい。これは家族にとってとても大切な儀式なんだ……すまない、嘘をついた。夫婦にとってだ。まだ若い頃、母ちゃんと鬼ごっこをしてだな、こうやって各地を周ったものだ。きっと、この映像をお前が見ているということは母ちゃんも私のように今の職場をやめて、追いかけるはずだ。今後、誰かに何かを言われても父ちゃんと母ちゃんは海外で仕事をしていると伝えるように。いいな?」
父親の予言が当たったわけでないと信じたい。冬治の母親はその日の晩、空港から電話を掛けてきた。
「冬治? 馬鹿な父親で本当にごめんね。あなたももう子どもではないんだし、一人暮らしぐらい出来るわよね。頑張りなさい」
通帳なんかは後に後見人的な人がやってきて冬治にそれを渡して住む場所も変わってしまった。
中学生は世間一般で言う子どもではないだろうかと疑問を抱きつつ、今日という日を生きてきた。
「思えば色々あったなぁ……俺がこういう面倒なことに巻き込まれるのは仕方の無いことかもしれない。ま、今はカードのことだ」
今日一日の予定を頭に入れなおし、冬治は世界のカードを眺めた。
「俺が不安になると、カードを持っている人たちに伝播するっぽいし……ポーカーフェイスとはまったく意味ないみたいだ」
綺麗になった扉を眺める。柴乃の存在を匂わせていた扉は撤去されてしまっていた。
「いってきます」
誰もいない部屋に言葉を投げかけ、外へ出る。雨でも降りそうな曇り空だったので一度傘を取りに戻り、もう一度外へ出た。
「おはよう、冬治」
「美穂か。おはよう」
扉を開けると、まるで最初から待ち合わせしていたように美穂が立っていた。
「じゃ、学園に行こう」
「え、ああ」
何だか今日は爽やかだな。冬治は美穂を見ながらそんなことを考えた。普段はどこか起こったイメージがあるのでちょっと嬉しそうな表情は新鮮味がある。
「あのさ」
「ん?」
「ちょっとまったぁぁっ」
美穂が何かを喋る前にその人物は現れた。
人差し指を美穂に向け、恋人のカードを持った怜奈は言った。
「さ、参加者がまだいるとは」
肩で息をし、美穂を見ている。
「参加者?」
冬治は首をかしげ、美穂も同じく首をかしげていた。
「その競技、私も参加します」
「競技って……一体何の競技だよ」
「どれほど自然に冬治さんと登校、いえ、学園だから登園でしょうか。とりあえず、そのごく自然に待ち合わせしつつ一緒に行きましょう競技に参加します」
右手を握り締め、高らかに宣言する。既に、ごく自然とはいえないことに本人は気づいていなかった。ゴミ捨てを終えたサラリーマンも奇異の目で見ている。
「極自然って……既に浮いているけど」
「これはあくまで宣戦布告ですからね。別に浮いたって構いません……ちょっと傷つきますけど。しかぁし、くじけませんっ」
恋人のカードに選ばれし、小谷松怜奈の本気見せてあげますと胸をそらす。
「冬治さん、玄関の鍵貸してください」
「え、鍵を?」
「はい」
「まぁ、いいけどさ」
冬治から怜奈へとわたった鍵は鈍く光る綺麗なものだ。解錠し、一度怜奈は106号室の中へと入り込んだ。
数秒後、扉が開く。怜奈の笑顔は母性を感じさせるものだった。今朝、母親のことを思い出していただけにちょっとだけ感慨深い。
「冬治、ハンカチは持った?」
「持ったよ」
「ティッシュは?」
「ある」
「お弁当」
「ほら、ここに」
「行ってきますのキスは?」
「それはまだ……って、しないよっ」
冬治の言葉に怜奈は人差し指を振る。
「わかってないですねぇ、冬治さんは。私にとっては必要なんです」
「俺にとっては不要だよ」
「ひどい、冬治さん。冬治さんは女の子とキスをしたくないと?」
「そうは言ってな……」
「したくないと?」
「……したいけどさ」
「じゃあ、しましょう」
ムードもへったくれもあったもんじゃねぇ……冬治の言葉は誰にも届いていなかった。
「そもそもさ、それって完全に家に残るほうだと思うよ」
美穂の指摘に攻めていた美穂は黙り込んだ。
「そう、かもしれないですね」
「かもしれないじゃなくて実際そうだろ」
「しかも、口調がまるでお母さんだったし」
「……そう、だね。うん、間違えました。冬治さん、テイクツー、お願いします」
返事を待たずに再度扉の中に怜奈は消えた。そして数秒後、中から侵入者が出てきた。
「冬治さん、ハンカチ持った?」
「突っ込んだよ」
「突っ込むだなんてやらしいっ。ティッシュは?」
「ここに」
「まだ未使用なのね。お弁当は?」
「ちゃんとある」
「私が今日のおかずね……じゃ、朝の運動をベッドで」
「しないよっ」
どれもこれも考えようによっては行き過ぎた内容だ。
「……え、布団派?」
「俺はどこでも……じゃなくて、今度は一体何のキャラだ」
怜奈は人差し指を顎に当て、首を軽く曲げる。
「冬治さんのことが大好きなちょっと変態気味の女の子。私じゃ、真似できないですねぇ」
「充分真似出来ていたよっ。ったく、朝から何ぶっ飛んでんだか」
ただ、内心嬉しかったりもする。中学からこっち、一人きりだったので朝に誰かと話すと調子がよくなったりもする。
「いいじゃないですか、昨日元気がなさそうだったから励ましたんですよ。私ってば優しいですね」
「そういうことは普通言わないもんだろうに」
冬治の少し呆れた表情と、探るような視線の美穂に怜奈は言った。
「ほら、今カードを所持している人で場を盛り上げようとする人、少なさそうじゃないですか。私が頑張ってできそうな事、そのぐらいですもん」
「……なるほど」
冬治ではなく、美穂が反応した。怜奈に近づくと握手を求めた。
「あんた、出来るわね。名前は?」
「昨日、自己紹介しましたけど」
「ごめん、聞いてなかった」
冬治をそっちのけで話し始める。蚊帳の外とはこういうことかと冬治は首をすくめて見せるのだった。
「一緒に行ってくれる人がいるだけいいかな」
今頃父親と母親は仲良くやっているだろうか。
「……無理そうだな」
仲良くはやっていないだろう。




