Coin Toss Capriccioso(コイン・トス・カプリチョーソ)
この話は皆さんの身の回りで起こっていることや在る団体や個人とは一切関係ありません。一応、念のため。
やや上り坂のキャンパス内。道の両脇で桜が華やかである。
俺がこの大学に入学してから数週間経った。今日の午後から委員会やサークルの説明会で、授業は午前で終わりだ。
昼食も終わったし、猛烈な桜吹雪を一通り堪能したところで。
「さて、帰るか……」
あいにく委員会やサークル活動には興味はない。どうも誰かと協力して何かをやるのが昔から苦手だった。
そうぼんやり考えながら歩いていると、どどんと道の真ん中に怪しげな立て看板が見えてきた。大きな筆文字で、
「SF研究会……?」
と書いてある。サイエンスフィクション研究会ということだろう。どうも説明会の案内板のようだ。時間と場所が端の方に書いてあった。
SFは昔は結構好きでその類の本や映画を読んだり見たりしたものだが、ある程度読んで見ると、あまり興味がなくなった。「面白い」と思う前に「非現実的だ」などと思ってしまうようになったからか。
とりあえず、興味はないな。
そう思ってその場から立ち去ろうとしたときだ。背後から声が聞こえた。
「SFはロマンだ」
……は?
「そうは思わない?」
ガシッと俺の肩をつかむ華奢な手。
慌てて振り返ると、そこには一人の女性が立っていた。すらりとした体型。気の強そうな目。指の長い手でストレートの髪を梳いて、その目で俺を見る。ついでに仁王立ちだ。
「――何か御用ですか?」
俺が眉間にしわを寄せながら尋ねると、その人はカラリと笑って、
「やぁやぁ、SF研究会に興味はない?」
「ありません」
「そう言うな。別にいいだろついてこい」
そう言って俺の襟首をつかむとそのまま引っ張っていく。
「いやよくないですって。――てか地味に首が絞まってます。そもそも、あなた、SF研究会とかいうところの方ですか? こういう強引な勧誘が伝統なんですか?」
「いいや、あなたと同じ1年生ですよ?」
「じゃあなんで俺を拉致しようとするんだ」
同じ1年だというので敬語は外してみた。
「そりゃ一人で行くのが嫌だったところにたまたまあなたが通りかかったからよ」
「いや意味分かんないから。ていうかなんで俺が1年生だって言い切れるんだよ」
「え?」
その人は思いっきり引っ張っていた俺の襟首を離す。俺は前につんのめりそうなのを頑張って踏みとどまった。
「うぉっと。……おいおい危ねーな。なんだよ」
さっきまでの勢いはどこへやら。棒立ちで固まっている。よく見ると肩がかすかに震えているようだった。聞き取れるか聞き取れないかくらいの声で呟いている。
「……覚えてないんだ」
「え?」
俺が聞き返すと、ハッとなって慌てて取り繕うように言う。
「ああぁ! なんでもないっ! ほら、行こう」
今度は俺の手首をつかむ。――結局付き合わされるのか。
説明会での話をしよう。――はっきり言ってよく分からなかった。主に活動内容や部員数についてだ。一応活動の一環としてSFの小説や漫画や映画についてまとめたレポートや部員が書いたSF小説などを、年に何回か会誌にまとめて発行しているらしいが、見せてもらった最新号が――正直ひどかった。それで、これはひどい、と過去に貯めた知識を少々活用して突っ込んでしまったために部員に、特に部長にえらく気に入られてしまった。自分で「気に入ってもらった」などというのは変かもしれないが、おかげで断り切ることができなかった。……完全に墓穴だ。
結局俺は入部することになり、その人――名前は聞いたが「気安く名を呼ぶな」なんて言われたので「君」と呼ぶことにする――も入部したようだった。
ちなみに、「ロマンだ」と言っていた君のSF知識はというとほぼ皆無だった。まったく……。
◇ ◇ ◇
俺が小学生の頃の話だ。同い年の仲の良い女の子がいた。いわゆる「幼馴染」ってやつだろうか。放課後、校庭や近所の公園でよく一緒に遊んでいた。同じ小学校に通っていたが、生憎クラスは違っていたからか、顔も名前も覚えていないが。
その子はよく一人でいた。たまに学校であっても、一人で本を読んでいるか窓の外を見ているか――とにかく「一人」だった。その子自身はさみしいとか、暗いとか、協調性がないとか、そういうわけではなく、単に特別仲の良い子がいるわけではなかったということだと言っていた。ただ、とても真面目で、しっかり者の頭の良い少女だったと記憶している。イイカゲンな俺はよく叱られたものだった。
◇ ◇ ◇
梅雨入り前の暑い日だった。
扇風機しかない部室は大変蒸し暑い。普段はあまり汗をかく方ではないが今回ばかりは滝のように汗が噴き出してくる。
向かい側に座っている君が備品の団扇で顔の辺りを煽ぎながら俺に言う。
「なんか飲み物買ってきて」
俺は会誌の初夏号用の原稿を書いているパソコンの画面から目を離さずに言い返す。
「はぁ? なんで俺が買ってこなきゃいけないんだよ」
「君はレディにこの暑い中歩かせると言うの?」
「自分の分くらい自分で買ってこい」
「いいじゃんケチ~。ここはスマートにお使いに行くところだよ~」
……会話が平行線なんだが。いつまでも終わりそうにない気配がしてきた。はぁ、疲れる……。
すると、
「やぁやぁまぁまぁ」
そう言って先輩が俺たちの間に入ってきた。
この人はSF研究会に所属していた卒業生だ。本人曰く、「しがない喫茶店の店主」だと言っているが本当のところはよく分からないちょっと謎の人だ。たまに部室にやって来ては部員と話をして帰って行く。てか、下手な部員よりもよく来てるんじゃないか? この人。現にこの部室には今、俺と君と先輩しかいない。
先輩がおもむろに財布から百円玉を出して、俺たちに見せる。
「ここは公平に、コイントスで決めよう」
瞬間、君の顔が少々青ざめる。
「あ、私賭けはちょっと……」
そう言いつつ二、三歩後ずさる。なんだこの反応?
「まぁそう言うなって。確率は平等に二分の一だ。勝算は二人に平等に与えられている――さて、ではこちらが表、こちらが裏だ」
先輩が手の中の百円玉の表裏を確認する。俺たちはうなずく。
「どちらかが私がコインを投げている間に表か裏か言ってくれ」
俺は君に譲ることにした。
「あ、私が言います」
「了解。では」
先輩が人差し指と親指で輪を作り、親指の上にコインを乗せて素早く弾く。
金属音がしてコインが空中に回転しながら舞い上がる。
「裏」
コインが一番高く上がった時に君の声がした。コインは落下し先輩が手の甲に乗せる。すかさずもう片方の手でコインを押さえた。
そっと被せた手を退ける。裏だ。
すかさず君が飛び上がって喜ぶ。
「やったーーー!!」
うわびっくりした!
「というわけで……」
先輩がニヤリと笑って今さっきコイントスに使った百円玉を財布にしまい、代わりに五百円を出して俺に手渡す。
「これで私の分もよろしく頼むよ」
「先輩の分までですか!?」
俺は先輩と手のひらに押しつけられたコインを交互に見る。
「お釣りはいらないから」
そういう問題ではない。
「じゃあヨロシクネ★」
君がニッコリ笑う。なんだ、この気持ちは。
「はぁ。では、いってきまぁす」
それからというもの「意見が二手に分かれたらコイントス」という暗黙のルールのようなものができた。先輩がコインを投げ、俺か君のどちらかが表裏を言う。
一回目こそ勝者は君だったが、それから何回かは俺が勝ったり君が勝ったりした。
◇ ◇ ◇
小学四年生の時くらいだろうか。――突然その子が転校することになった。俺はそのことを人づてで聞いてひどく狼狽した。その頃の俺は友人と呼べる人がとても少なかった。ましてや女の子ならなおさらだ。その時の俺が何を考えていたかは謎だが、ショックではあったのだろう。その日の放課後、その子を探して確かめようともせず、フラフラと家に帰っていた。
ボーッとしたまま歩いて赤信号の交差点に入ってしまった。ハッと気づいた頃にはトラックが自分に迫ってくるところだった。
◇ ◇ ◇
梅雨前線が謳歌する季節になった。俺は講義と課題に追われる日々を送りながらも、週に一回、二回のサークル活動が少しずつ楽しみになってきた。
だが、だんだん君が部室に来なくなっていた。
今日も鬱陶しい雨だ。路面がぐしゃぐしゃで歩きづらくて仕方ない。だいたいこのキャンパス、なんでこんなに高低差やデコボコが多いんだよ。
と考えていると、フラフラと前を歩く影を見つけた。君だ。近づいて声をかける。
「よう」
あからさまにびくりとなる君。
「ななななにか用?」
「最近SF研の方全然来ないけど、どうしたんだよ」
「え? あ、うん……」
なんとなく上の空だ。
「本当にどうしたんだよ」
「あぁ。……ちょっと同じ学科の女の子たちと上手くいかなくて……」
「女子と?」
「うん。……私、昔から人と――特に女の子と仲良くするのが苦手なんだ。すぐグループになっちゃって、本人に直接嫌なこと相談せずに陰で悪口を言う。……そんな気がして」
そう話す君の顔はいつになく暗い。いつもは何かあっても明るく笑って見せるのに。
「――まぁなんだ。俺には女子同士の事情とがよく分からないけどさ。ちゃんと授業は受けておけよ。後から泣きつかれても俺学科違うから手伝えることすげー少ないし。その……」
「うん。授業だけは頑張って出てるけど、その後部室行く元気なくて帰っちゃうんだ。ごめんね……」
君はぼそぼそと呟いてフラフラと歩いて行ってしまった。
俺は追う事が出来ずにその背中を見送った。
◇ ◇ ◇
スローモーションのようにトラックが近づいてくるのが見えた。けたたましいクラクションとブレーキ音が聞こえた。正直、体が動かなかった。脳裏に、ああもうダメだ、というような考えがよぎっていた。その次の瞬間、誰かの手が俺の腕をつかんで歩道側に戻した。いきなり引っ張られて倒れた俺の腕をつかんでいたのは――その子の手だった。
◇ ◇ ◇
明くる日。雨は相変わらず止まない。
俺は、ある疑問を聞きに部室に向かった。
講義が終わってからすぐに行ったのに、部室はもう開いている。
いるのは一人。その一人が俺の顔を見て言う。
「あぁ、君か」
先輩だけだ。よし。
「先輩、少し聞きたいことがあるんですけど」
「ん? なにかな」
「――あいつのことで」
俺は君のことについて昨日の事を話す。
「なるほど、最近来ないと思ったらそういう事でしたか……」
「それで先輩に聞きたいんですけど、あいつ何であんな事言うんでしょう? 女子なのに女子が苦手とか……」
「それを私に聞くのかい?」
「え?」
普段陽気な先輩の眼光がするどい。
「本当に彼女の力になりたいなら、彼女に直接聞けばいいんじゃないのかい?」
「……先輩、昔あいつの家庭教師をしていたって聞いたんで。SF知識ほぼゼロのあいつがSF研に入った理由も先輩がいるからだと聞いたので、あいつが昔から慕っている先輩なら何か知ってるんじゃないかと思いまして。そもそも、あいつのトラウマかもしれない事を直接本人に聞くわけにはいかないでしょう」
「それもそうだ。――一応聞いておくけど、興味本位で聞いてるのではないだろうね?」
「まさか」
俺がそう答えると、先輩が腕組みをしながら話しだす。
「彼女ね、小学校の時転校したことあるんだ。親の都合で都心の方に引っ越すことになったから。その転校した先で私と知り合ったわけだが。で、その転校した学校で――」
「友達ができなかったとか、いじめられたですか?」
「ううん。そうじゃなくて。……というか、そもそも彼女あまり特定の人と仲良くしたいって思わない方らしいんだけど……」
あれ? どこかで聞いた話のような気がする。
「転校する前もあんまり仲の良い友達っていなかったし、どちらかっていうと男の子と遊ぶことの方が多かったらしい。それで不便してたわけでも文句言われたりしたわけでもなかったから、転校した先でもそれでいいと思ってたようだ。で、グループとか特定の友達とか作らずに過ごしてたら、担任の先生――女の人だって言ってたかな――に呼び出されて、『いじめられてるの?』とか、そんな事を聞いてきた。『違います』って答えたら凄く変な顔されて」
そこで少し言葉を切る。
「――何日か経った放課後に忘れ物を取りに行くのに教室に戻った時にね。クラスの女の子たちが自分の噂してるのが聞こえてきたそうだ。その中には転校したばかりの時に家が近所だからってお世話になった子も混ざってた。どうも担任の先生が、あの子がクラスで仲間外れになってるんじゃないかとかいじめられてるんじゃないかとか聞いちゃったみたいで、なんで私たちがそんな事言われなきゃいけないの、なんかあの子真面目すぎてイヤ、ツンとしててなんかウザい、とか色々言われてて」
「それで『女子』なんか信用するもんか、という発想になったと?」
「すごく簡単に言っちゃうとそんなところだね。地元の子がいる中学は嫌だからって私立受けようとしたけど失敗して、中学時代は相当荒んでたな。――その辺りは結構私も負い目があるんだがね。高校は男子の比率が高い所に行ったからか、それなりに楽しく過ごしたみたいだよ。女子が少ないと男子と話しててもそんなにおかしなことではないからね。でも今彼女が居る学科は女子が多いから色々不安なんじゃないかな」
俺は少々考えながら話す。
「――なんとなく納得できません。そんな事で……」
「周りの人間には大した事ないと思えてもね。本人には関係ないんだよ。本人にとっては自身の存在までも揺るがす深刻な問題であることだってある」
先輩が冷たく言う。俺はしばらく目を伏せて押し黙る。しばらくの沈黙の後、俺は口を開いた。
「あともう一つ、聞きたい事があります」
「なんだい?」
「先輩の行うコイントスはイカサマですか?」
先輩が吹き出す。
「なんでそう思った?」
「理由は二つです。一つ目、意見が二手に分かれた時にわざわざコイントスにしたから。ジャンケンとか他の手があるじゃないですか。二つ目、最初にコイントスをやったとき、あいつはひどく嫌がりました。それでも『確率は二分の一で平等だ』とか先輩は強調してあいつが勝ったから。本当はあいつが嫌がるのを分かっていてわざわざコイントスをして勝たせたんじゃないんですか?」
「ひどい話だ。そんな憶測だけで私を疑うのかい?」
先輩が首をすくめる。
「いえ、ただなんとなくそうかなと。他のものでは勝敗を操作するのは簡単ではありませんが、コイントスは案外簡単なので」
「そう思っててなんで黙ってた?」
「気付いたのが最近なんですよ。勝敗が本当にいい具合に均等なんでおかしいかなと思って調べてみたんです。イカサマの方法って結構色々あるんですね。ちょっと器用で動体視力があればなんとかなるようで」
今度は俺が首をすくめる番だった。そこまで言うと先輩は勘弁したように両手を上げる。
「分かった分かった。正直に言いますよ。確かにイカサマしてました」
「なんでまたそんなややこしいことを……」
「いやね。彼女って友達あんまできないだろ? 彼女それを『自分は運が悪いからだ』って思ってるみたいなんだ。というか普段はなにかあっても明るく笑ってごまかすけど、あれで結構へこみやすくて考えも後ろ向きな性格なんだ。それでずっと落ち込み続けないように『あぁまた運が悪かったんだ』って諦めてる」
「それって……」
なんというか。非生産的だ。そうやってごまかしているだけじゃ何も解決しないじゃないか。
めずらしく元気がない姿を見て多少は心配になって聞いてみたら原因は大した事ではなかった。正直言って、ただ怠けているだけに聞こえる。そう思うと、なんとなくムカついてきた。
「あ」
先輩の声。廊下からコツコツと足音が聞こえる。
部室のドアが開く。入ってきたのは、君だった。
先輩と俺が同時にドアの方を向く。君はあからさまにビクッとなって後ずさりする。
「やぁ、久しぶり」
先輩が陽気にそう言って片手をあげる。
「えと……私……」
「どうしたの? 入っておいで」
君は先輩と俺を何度か交互に見た後、おずおずと部室に入って来てドアを閉めた。
「最近来なかったから心配したんだよー」
近くの椅子に座る君に向かって先輩がわざとらしいくらい明るく言う。
「すみません……」
「何も謝ることはないさ」
先輩が俺の事を指差しながら言う。
「聞いたよ。昨日見かけた時元気なかったって。人間関係に関する悩みは絶えないものだからね」
「はぁ……」
君は俯いたまま上の空だ。なんだかイライラしてきて、俺は会話に割って入る。
「お前さぁ」
君がパッと顔を上げて俺の方を見る。
「上手くいかないってどういう状況?」
「え?」
君が戸惑ったような顔をする。
「話したりした? ハブられたとかか?」
「あの……もうグループになっちゃってて……その中に入るのもなんだし。チームでやんなきゃいけない課題とかも……話しかけてもなんだか嫌そうな顔されるし……」
「それ、全部お前の気のせいじゃないのか?」
「――どういうこと?」
「嫌そうにされるとかそういうのさ。考えすぎだよ。だいたい、女子苦手キライって言っておきながら、本当は友達が欲しいんじゃないか。今のお前は一番中途半端だ。本当は仲良くしてほしいのに勝手に無理だって決めつけてウジウジ悩んでる。挙句の果てには『運が悪い』で片付けようとする……」
君を睨みながら感情任せに吐き捨てる。
「おいおいそれはいくらなんでも言い過ぎなんじゃ……」
先輩がおろおろと言うのとほぼ同時に君が音を立てて立ち上がった。つかつかと俺のところにまでやってくる。
椅子に座ってる俺を見下ろす君はおもいっきり手を振り上げると俺の頬に平手打ちを食らわせる。
ピシャリと乾いた音がしたあと頬にじんわり痛みが広がっていく。君が低い声で呟く。
「貴方に私の何が分かるっていうのよ」
君の唇が震えている。
「なによ、えっらそうに。何にも知らないくせに。――私の事、覚えてないくせに」
「え?」
――あぁ、そういうことか。やっと分かった。
だがそのことを口にする前に、机に掌を叩きつけて叫ぶ。
「……いいよもうっ」
君は踵を返して部室を出て行ってしまった。
「君って本当にバカだなあ」
先輩が君の出て行ったドアを見ながら、嗤う。
「悩んでる女の子に一番言っちゃいけない事言ったでしょー」
「――そうなんでしょうか」
「そうだよ」
間髪入れずに先輩が言う。
「じゃあ、俺はどうすればよかったんでしょうか」
「追いかけな」
「でも――」
渋る俺を見た先輩がガタッと立ち上がって、俺の目を睨みつけながらドアをビッと指差し活を入れてきた。
「いいから追いかけろっっっ!」
俺は弾かれたように立ち上がる。
「は、はいぃ!」
俺はバタバタと立ち上がって部室を出た。
◇ ◇ ◇
その子が肩で息をしているのを見て、凄く慌てているのが分かった。――同時に、凄く怒っていることも。
その後の帰り道。予想通りその子にはしっかり怒られた。――ちゃんと前を見て歩けとかそんな感じのものだ。その子は俺が学校を出たのを人から聞いて追いかけてくれていたのだった。
その後のことはよく覚えていない。ただ、その子が転校する話は本当だというのは本人から聞いた。そして、――その子は俺の前からいなくなってしまったのだ。どこに行ったのかも、よく知らない。
◇ ◇ ◇
ヒールの女性が走ったところでそんなに遠くには行けないはずだ。だがとりあえずすぐに見当たるところにはいなかった。
キャンパス内では見つからなかった。
「あいつまさか外に出たんじゃ……」
――いやな予感がする。俺は足を速める。
案の定、君はキャンパスのすぐ外の道を走っていた。
先には交差点。青信号が点滅している。だが君は止まる気配がない。
待ってくれ、やめてくれ。俺は、お前に……!
◇ ◇ ◇
俺のそのあとの生活はごくごく普通のものだった。数は少ないが友人も増え、その中には親友と呼べる奴もできた。その生活の中でその子の記憶は少しずつ薄れていった。だが、完全にその存在を忘れていないのは、――一つだけ言えなかったことがあるからだと思う。それは――
◇ ◇ ◇
進行方向赤信号。かまわず駆け出す君。横から迫る車。
脳裏によぎる記憶、残像、後悔。君は、俺の……。
君がすぐそこにいる。俺は必死に手を伸ばす。
俺は君の腕を――つかんで、歩道に引き戻した。
……いきおい余って倒れてしまったが。
「……わざわざ追いかけてこなくてもよかったのに」
「アホか。本当に危なっかしくて困った奴だな」
「いきなり引っ張った人が言えることじゃないでしょ。もうほっといてよ」
「俺個人的な問題でそういうわけにはいかないんだ。――やっと思い出した。あの時俺を助けてくれたのは……お前だったんだな」
「バカ。思い出すの遅すぎ」
「あぁ、本当に悪かった。さっきひどいこと言ったことについても謝る」
君の背中は何も言わない。
「ずっと、あの時助けてくれた奴に会えたら、言おうと思ってたことがあるんだ。――助けてくれて、ありがとう。本当に感謝してる」
「今更なに」
「まぁ確かに今更だがな。でもさ、ちゃんと思い出せた。ずっと言えずに後悔していたことを言えた。それで、お前のことも助けられた。だからってことにはならないだろうけど……全部運が悪いで片付けようとするの、やめないか?」
「――じゃあ皆私の事が嫌いなのよっっ」
「誰もお前のことが嫌いなわけじゃない」
「……貴方はそんな事自信持って言える立場なの?」
「うるせえな。俺だって友達多い方じゃねえよ。でもな、仲良くしようとしてくれる奴はいる。ちゃんと俺のことを分かってくれる奴はいるんだ。多くはないかもしれないけれど、絶対にいる。だから――そうやってお前に近づいてきてくれる奴、理解しようとしてる奴を自分から追い出さないでくれ……」
返事はない。いきなり俺の腕をほどいてむくりと起き上がる。
「おい、大丈夫なのかよ。けがは?」
「おかげさまでどこも平気よ」
そう言いながら君は立ち上がり、俺に手を貸す。
「貴方は?」
俺は差し出された手を掴んで起きながら答える。
「大丈夫だ」
「そう。それじゃあ戻るわよ」
君はサラッとそう言ってさっさと歩きだす。少々呆然としつつも俺はその背中を追うことにした。
それから数日経った快晴の暑い日。君が部室に現れた。
あの後二人で大人しく部室に戻り、腕組み仁王立ちの先輩にしっかり謝罪し、君はすぐに帰った。その時は特に変わった様子はなかった、が。――明らかに口の端が緩んでいる。ただ歩くのでもスキップしているように見える。鼻歌でも歌いだしそうな勢いだ。正直言って、不気味なくらいの変貌ぶりだ。
「――あからさまに嬉しそうだな」
少々皮肉ってみたつもりだったが、君には全く通用していないようだった。胸の前で手を組んで話し出す。
「それがねえ。今日教室で話しかけてきてくれた女の子がいたの。授業休みがちだった私のことを気にしててくれたみたいで、『来てくれてよかった』って!」
「ほう。それは良かった」
先輩がうんうんと腕組みしたまま頷く。
俺も、良かったとは思ったが。なんだ? このわだかまりのような感覚は。なんとなく、もう少し困っていればいいのに、なんて思っている。
「それで、その子と仲のいい子たちと一緒にお昼食べたりしたんだー」
「――俺、別にあんな必死にお前追いかける必要なかったような気がするんだが」
「そんなことないよ。実際に事故に合いかけてたし。貴方にああ言ってもらってなかったらきっとそうやって話しかけてもらっても冷たくしちゃって印象悪くしてただろうし。だから、ちゃんと感謝してるよ」
君はそう言って微笑む。今まで見たことのないような落ち着いた顔だ。
俺はその顔をまっすぐ見られずにそっぽを向く。君がかまわず話しかける。
「ねぇねぇ」
「なんだよ」
しょうがないので若干睨み気味に君の方を向く。
「コイントスしない?」
「何を賭けるんだ」
「負けた方が勝った方のお願いを一つ叶えるっていうことで」
「それならなんでコイントスなんかしなきゃいけないんだ。ここは助けてもらったお前が俺の言うこと聞くところだろう」
「いやぁ。そんなケチくさいこと言わないで下さいよー。――私ね、自分のこと凄く運が悪いって思ってたの。でも、本当に気の持ちようなんじゃないかなって思えてきた。自分が運の悪いことを言い訳にして、女の子たちと仲良くするのとか苦手なことから逃げてたのかもしれない。そう思えてきた。そんなわけで私が本当に運が悪いのかそうでないのか確かめてもらおうと思って」
俺は少し考える。少々腑に落ちないが、金品むしり取られるわけでないならいいだろう。変なお願いしてきたら断固断るが。
「まぁいい。――その賭け、受けよう」
「じゃあ私が手伝おうか」
先輩が割って入る。
「駄目ですよー。先輩イカサマしちゃうもん」
「あちゃ。バレてたか」
「先輩に昔マジックとかよく見せてもらったんで。器用だからそういうことできるだろうなと。――お気持ちは嬉しかったんですが、今回はそういうのはナシで」
「分かったよ」
先輩がおとなしく席に戻る。
「今回は俺が投げることにしよう」
「コイントスできたんだ」
君が小馬鹿にするように言う。
「少しは練習したんだ」
君が更に続ける。
「イカサマしない?」
「俺が投げてお前が表裏を決める。コインは床に落とすという方法を取る」
「分かった」
君が頷く。
俺は人差し指と親指で輪を作ってその上に百円玉を乗せ、上に弾く。
高い音が鳴ってコインが舞った。