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■男主人公の短編(2026年~)■

燃えるような恋情じゃなくても、

作者: ゆらゆら揺(よう)
掲載日:2026/07/18

のりと勢いで書いてみました。楽しんでいただけると幸いです。

 ヴィルジール・クラヴェル公爵令息は優秀な頭脳を持たない。


 いや、もし生まれが庶民や下位貴族ならば、きっと優秀だとうわさになっていただろう。しかし、生まれが公爵家であり、跡継ぎとなるとそうはいかない。すべての物事において最上級の能力を求められる。


 ヴィルジールの頭脳が公爵家の人間としてはあまり褒められたものではないと報告を受けたとき、彼の父クラヴェル公爵は悩んだ。跡を継ぐ息子はヴィルジールしかいないためだ。


 ヴィルジールには十歳離れた姉がいるものの、彼女はヴィルジールが八歳のときに第二王子に嫁いだ。最悪の場合ヴィルジールではなく孫に爵位を譲ることもできるが、それはそれで面倒ごとが起きる気がする。余計な詮索を生み、公爵家の威信にかかわる。


 クラヴェル公爵は悩んだ。ヴィルジールは決して悪い子ではない。容姿もよく、人を気遣う姿も見せる。身体能力も高い。ただ唯一の欠点として、頭が多少なりともよくないということ。


 夫人とも相談に相談を重ね、導き出した答えは――ヴィルジールに優秀な妻をめとらせ、彼の手綱を握ってもらおうということだった。


 ◇◇◇


 ヴィルジール・クラヴェル公爵令息が、アンジュ・バダンテール子爵令嬢との婚約を結んだのは十歳のときだった。


 姉が王子に嫁ぎ、本格的に跡継ぎとしての教育を受け始めたヴィルジールは、自らの頭脳が期待外れだということを悟っていた。家庭教師たちの態度や両親の会話、親族の声。ヴィルジールは決してあほではない。ただ領地経営などの勉学が苦手なだけだ。


 ゆえに、この婚約が自らの将来のためにとても大切なことは理解していた。


 婚約者となる少女との顔合わせの場は公爵家の庭園にあるガゼボになった。ヴィルジールがぼうっと座って待っていると、侍女に連れられ一人の少女がこちらに歩いてくる。


 彼女はプラチナブロンドの髪を後ろで一つにまとめ、サイドだけを緩く垂らしていた。少々つり目がちの瞳はアイスブルー色をしており、一級品の宝石のようだった。


 少女はヴィルジールの側に来ると、つばの大きな帽子を外す。それを侍女に手渡し、カーテシーを披露する。


「お初にお目にかかります、バダンテール子爵の娘アンジュと申します」


 あまりに洗練された無駄のない動きに、ヴィルジールは見惚れた。彼女が同い年の少女とは思えなかった。


「これからどうぞよろしくお願いいたします。ヴィルジールさま」


 伏し目がちな視線をあげ、アンジュがヴィルジールを見つめる。その視線に射抜かれた瞬間、ヴィルジールの中に未知の感情が芽生えた。それは決して燃え上がるような恋情ではない。自らに安心感を与えるような。探しものを見つけ、ほっとするような。そんな感情だった。


「……ヴィルジール・クラヴェルだ。よろしく頼む」


 父に言われたとおりに振る舞うと、彼女はくすっと笑った。楽しそうな笑みに、胸が少しだけドキッとした。


 ◇◇◇


 あれからヴィルジールとアンジュは定期的に交流をし、仲を深めた。


 本来ならば身分的に問題が起きそうな婚約だが、バダンテール子爵家は特別だった。代々魔法師と呼ばれる特殊な仕事に就いてきた彼らは、王国になくてはならない存在だ。そのため、この婚約もそういう絡みがあってのことだろうと周囲は勝手に納得した。


 当のヴィルジールは日々アンジュに心から感謝をしていた。


 自分の至らない部分を優しく指摘し、ともに解決方法を模索してくれる彼女はヴィルジールにとって家族以上の存在となった。自分たちの間に燃えるような恋情がなくても、互いに確たる信頼がある。そもそも政略結婚に恋情など必要ない。必要なのは相手に対する信頼であり、そこにちょっぴりの愛情が加わればうまくいく。


 婚約して五年。ヴィルジールとアンジュの関係は良好そのものだ。しかし、ヴィルジールには最近たった一つの心配ごとがあった。



 その日も二人でティータイムを過ごしていた。美しい動きでカップを口に運ぶアンジュは、年齢を重ねるほどに魅力が増し、気品に磨きがかかった。社交界デビューこそまだだが、デビュタントの場ではきっと輝く。会場内の視線を独占するというのは想像に容易い。


 対するヴィルジールも容姿はとてもよかった。はちみつ色の金髪も、ルビー色の瞳も、高い背丈も。令嬢たちに憧れの視線を向けられることも多く、悪い気はしない。だが、彼女たちの誘いは一蹴している。アンジュに愛想を尽かされたくなかったためだ。


 アンジュはカップをソーサーに戻し、ヴィルジールを見る。その目に射抜かれると、ヴィルジールは隠し事などできないと思ってしまう。深呼吸をして、ヴィルジールはアンジュに頭を下げた。


「キミに必要ないことはわかっている。だが、どうしてもと頼む。俺と一緒にアカデミーに通ってほしい」


 貴族の子息子女は一部を除いて十五歳を迎えると王立魔法アカデミーに三年間通うことが義務付けられている。名の通り魔法を学ぶ教育機関だ。魔法の才能は家系で遺伝する。そのため、どれだけ高位貴族であっても魔法の才能を持たない者も多い。だが、簡易の魔法くらいは使えたほうが便利だ――ということで、王立魔法アカデミーが設立されたのだ。


「バダンテール子爵家の令嬢であるキミは、アカデミーで教わることを学び終わっている」


 代々魔法師を輩出するバダンテール子爵家の人間は、一部例外に属している。彼らは高い魔法の適性を持ち、物心がついてすぐに魔法の訓練がはじまる。父の話から、アンジュは六歳のころにはアカデミーで学ぶことをすべて終えたと聞いていた。


「しかし、知っての通り俺はこんな人間だ。お世辞にも頭がよくない。成績が下位では、公爵家の威信にかかわる」


 こんな情けないことを言うなど、通常ならプライドが耐えられなかった。けど、長年信頼関係を築いているアンジュだからこそ、素直に白状できるのだ。


「都合のいいことを言っているのはわかっている。だけど……」


 最後まで言うよりも先に、テーブルの上に置いたヴィルジールの手をアンジュがつかんだ。恐る恐るアンジュの顔を見ると、彼女は聖母のように微笑んでいた。きれいな唇が動いて、言葉を紡ぐ。


「もちろん、ともに行きますわ。私はヴィルジールさまのためならば、どこへだって行く覚悟ですもの」


 アンジュは優しい。いつも微笑み、文句ひとつ言わずにヴィルジールを支えてくれる。


 彼女ほど自分を思ってくれる女性はいない。今後アンジュ以上の女性など現れない。


 ヴィルジールはアンジュと共に一生を過ごすのだ。この美しく気品にあふれた彼女と共に……。


 ◇◇◇


 いざ入学したアカデミーには予想通り優秀な学生がそろっていた。ヴィルジールも絶えず努力をするものの、自分一人ではどうにもならないことが多すぎる。そのときはアンジュに教えを乞い、彼女の手助けを受けて試験に合格した。


 試験を終えると、結果が廊下に張り出される。ヴィルジールはそれを見て、真っ先にアンジュの元へかけていった。


「アンジュ、聞いてくれ! 俺の成績は三位だったんだ!」


 空き教室で本を読んでいたアンジュがヴィルジールを見る。彼女は微笑み、静かに「おめでとうございます」と告げた。


「ヴィルジールさまの努力のたまものですわ」

「いいや、アンジュのおかげだ。キミのおかげで、俺は公爵家の威信を傷つけずに済んでいるのだから」


 アンジュを試験に入れるといろんな意味で壊れてしまう――ということから、アンジュは学生たちの結果からは除外されていた。アンジュは授業を受けるものの、試験などは全てパスできる。それはバダンテール子爵家の令嬢なのだから当然のことだと周りも納得していた。


「こんな情けない婚約者ですまない。ただ、せめて良き夫となれるように努力は惜しまない」


 ヴィルジールの言葉にアンジュは一瞬だけ目を見開いて、ふわりと笑った。花の咲くような笑みに、ヴィルジールの心は満たされていく。二人の間にあるものが燃え上がるような恋情でなくとも。自分が彼女に向けている気持ちが、愛情の類であることに間違いはない。たとえ、自分の向ける気持ちが彼女から返ってこなくても構わない。


 だってヴィルジールはすでにアンジュからたくさんのものをもらっているのだから。


「私も良き妻となれるよう、努力いたしますわ」


 その必要はない。すでにアンジュはヴィルジールにとってなくてはならない存在だから――などとは、口に出せなかった。彼女の厚意を切り捨てている気がしたから。


「……そうだな」


 ヴィルジールはアンジュの手を握る。アンジュの手は自分よりもずっと小さく、自分が守らなければ……という気持ちになる。


 彼女の手の甲にキスを落とすと、アンジュは恥じらうように頬を染める。その表情はとても愛らしく、だれにも見せたくないと思ってしまった。


 ◇◇◇


 ヴィルジールは決して優秀ではないが、周囲の人を惹きつける魅力があった。


 元々容姿端麗に加え、公爵家の一人息子という身分。さらに気さくな性格で、いい意味で高位貴族らしくない。そんな彼の周りには常に人が集まり、にぎやかだ。


 しかしヴィルジールは決して女性と二人きりにはならない。一定の距離をきちんと保ち、勘違いさせるような言動はしない。どんな女性に誘われても、ヴィルジールは婚約者のアンジュを優先する。


 だからこそ、ヴィルジールがアンジュ一筋なのはアカデミーのだれもが知ることとなっていた。


 アンジュも有名な才女で、次期有望な魔法師ということもあり、二人をお似合いだと称する声は多い。


 ヴィルジールがアンジュを見つめる瞳には特別な感情が宿り、またアンジュがヴィルジールを見る瞳にもあふれんばかりの愛情がこもっている。二人ははたから見ても相思相愛で、割って入ろうなどという愚か者はいなかった。


 だが、ある女子生徒の存在がアカデミーに大きな変化をもたらした。



 アンジュから借りていた本を読んでいたヴィルジールの元に、一人の男子生徒が寄ってくる。乱暴な足取りでこちらに近づいた彼は、ヴィルジールの目の前の机をバンっと大きくたたいた。


「ヴィルジール、貴様は自身の婚約者の愚行を知っているのか!」


 講義室中に響く大きな声に、ヴィルジールは内心ため息をついた。静かに本を閉じ、自らを見下ろす一人の男と目を合わせる。


 彼の名前はグレゴアール・シュナル。この国の第四王子であり、ヴィルジールにとっては幼少のころから付き合いのある幼馴染だ。


「殿下、ここは公共の場です。静かになさってください」


 呆れたような視線を送ると、グレゴアールはうっと言葉に詰まる。多少は悪いと思っているのだろうか。


「し、しかしだな、貴様の婚約者の行いは見過ごせない」

「……またその話ですか」


 最近のグレゴアールはアンジュを目の敵にしていた。


 理由は彼のお気に入りの伯爵家の娘をいじめているという滑稽なものだ。


 そもそも、アンジュがいじめなどするはずがない。彼女は清らかで美しく、曲がったことが大嫌いな女性だ。長年一緒にいるヴィルジールは彼女の性格を熟知している。


「昨日もフェリシーはアンジュ嬢に厳しく叱責されたと泣いていた」

「たとえそうだとして、なんの問題があるのですか」


 肩をすくめる。


 かの伯爵家の娘フェリシーはつい先日アカデミーに編入してきた娘だ。マイエル伯爵家の養女だという彼女は、ことあるごとにアンジュにいじめられたと言いまわっていた。


「フェリシーは元は平民とはいえ、今は伯爵家の娘。アンジュ嬢ごときが叱責できる相手ではないだろう!」


 確かに身分的にはアンジュのほうが下である。だが、彼女はあのバダンテール子爵家の娘であり、模範的な淑女なのだ。伯爵令嬢とは名ばかりで、礼儀も作法もなっていないフェリシーに注意をしてなにが悪いというのだ。


「フェリシー嬢の態度は褒められたものではありませんよ。アンジュだって注意したくてしているわけではないでしょう」

「ならば、もっと優しく指摘するなどだな……」


 ヴィルジールは知っている。ああいうタイプは優しく指摘したところで聞く耳を持たないということを。


 それに前提として、アンジュがフェリシーに構うはずがない。彼女は無駄な労力を嫌うタイプだ。改善の兆しもない人間に注意を続けるほど無駄なことはないと判断するだろうから。


(聞くだけ無駄だ)


 ヴィルジールは立ち上がる。自身を呼び止めるグレゴアールの声は無視した。通常ならば不敬かもしれないが、自身には王家に嫁ぎ子をもうけた姉がいる。グレゴアールよりも姉が嫁いだ第二王子のほうが権力も人望もあるので、なんとでもなるだろう。


「まったく、殿下にも困ったものだ」


 ヴィルジールは自分が優秀ではないと知っている。けど、グレゴアールよりはマシだと思った。むしろ、あれより下になってはいやだともっと頑張ろうと思ったものだ。


 ◇◇◇


「ヴィルジールさま!」


 ある日、真正面から駆けてくる令嬢の姿を視界に捉え、ヴィルジールの心は一気に落ち込んだ。


 あたりを見渡す。アンジュの姿がないことに安堵し、ヴィルジールは余所行きの笑みを浮かべた。


「マイエル伯爵令嬢、廊下を駆けるのは感心しないな」


 あくまでも他人行儀な態度を貫く。もしアンジュに勘違いされてしまったら、それは自らが破滅する合図だ。まだ十七歳なのに、今後の人生のお先真っ暗が確定するのは絶対にごめんだ。


「そんなのいいじゃないですか」

「規則は規則だ。緊急時以外は守ってもらわないと困るんだ」

「えー、ヴィルジールさまってなんだかアンジュさまにそっくりです」


 フェリシーの口からアンジュの名前が出たことに、胸の奥にもやもやが生まれた。


 どうしてこんな女に自分の婚約者の名前を呼ばれなくてはならないのだろう。どうしてこんな女が自分の大切なアンジュを貶めようとするのだろう。気づくとノートを持つ手が震え、唇を噛んでいた。


「……私、最近アンジュさまに嫌がらせを受けているのです」


 胸の奥のもやもやが膨らんでいく。一体なにさまのつもりで――と、口に出してしまいそうになる。


「私は貴族令嬢にふさわしくないとか、もっと行動を慎むべきだとか……」


 そりゃそうだろう。どこの世界に異性にべたべたする貴族令嬢がいるというのだ。アンジュの注意は正しい。アンジュは間違ってなどいない。


「それに、この間は階段から突き落とされそうになって――」


 ヴィルジールにとって、アンジュは高潔で素晴らしい女性だ。そんな愚行を犯すはずがない。


 怒りに震えるヴィルジールが口を開こうとしたとき、後ろから「ヴィルジールさま」と名前を呼ばれた。


 はっとして振り返ると、少し先に笑みを浮かべたアンジュがいた。


「騒々しいと思ってきてみましたら……」


 アンジュのアイスブルーの瞳がフェリシーを捉える。フェリシーはわざとらしく悲鳴を上げて、ヴィルジールに引っ付いてきた。


 振り払わなくては。アンジュに勘違いされるわけにはいかない。


 そう思うのに、振り払えなかった。心の奥底に燃えるような気持ちが芽生えて、膨らんでいく。自我を呑み込みそうになったところで、ヴィルジールの手を別のだれかがつかむ。それは愛おしいアンジュのもので、アンジュに触れられた部分から身体が冷えていく。先ほどまで心を支配していた燃えるような思いは、一瞬のうちに静まっていった。


「アンジュ……」

「ヴィルジールさま」


 柔らかな声がすっと胸の奥に入っていく。わずかに残っていた燃えかすの気持ちは、跡形もなく消え失せた。


「ところで、あなたさまは確かマイエル伯爵家の……」


 アンジュが小首をかしげて、フェリシーを見る。フェリシーは大きなエメラルド色の瞳をわずかに動揺させたものの、ヴィルジールにまたすり寄ってこようとした。


 その手をヴィルジールはためらいもなく払いのける。


「っ!」


 フェリシーは大きく目を見開いた。まさか、払いのけられるなんて想像もしていなかったのだろう。


 ヴィルジールは先ほどフェリシーに触れられた部分を慌てて拭う。アンジュ以外の女性に下心を持って触れられるなどとんでもない。汚らわしいとしか思えなかった。


「わ、私のこと嫌いなんですよね⁉ だから、あんな風に嫌がらせだって……!」


 わざとらしく声を震わせたフェリシーに向かって、アンジュは微笑んだ。それは強者の笑みであり、自らが負けるなどちっとも思っていない笑みだった。


「あら、どうしてそんなことを今さらおっしゃるの?」


 廊下にアンジュの声が響く。いっそ恐ろしさほど感じるほど冷淡で、抑揚のない声だった。


「私があなたさまを嫌っている? そんな常識、どうして今さらこの場で確認するの?」


 アンジュがヴィルジールの腕をつかむ。ヴィルジールはその手を拒むことなく握り返した。


「そもそも、私があなたさまを好きになる要素、一体どこにあったのかしら?」


 目を細め、フェリシーを見るアンジュはこの場の絶対的な支配者だった。


「した覚えのない嫌がらせをされたと大々的に吹聴し、だれかに泣きつくしか能のないあなたに好かれる要素などないでしょう」

「だって、本当に私は傷ついて――!」

「人の婚約者に手を出そうとしておいて、被害者面をするなんて厚顔無恥にもほどがあるわ。どうやらおつむが足りないようね」


 明らかにバカにした言葉に周囲の野次馬たちがくすりと笑い声を漏らす。この場の勝者はすでに決まっていた。


 フェリシーは顔を真っ赤にして、その場から逃げ出す。残された面々はコソコソと話していたが、アンジュの視線を受けると我先にと逃げ出した。結果、残されたのはヴィルジールとアンジュだけとなる。


「あ、アンジュ。言っておくけど、彼女とはなにもなくて……」


 真っ先に出たのがこんな言葉で、男としては情けない限りだ。


 いくらか言い訳を並べるものの、うまく伝わりそうにない。ヴィルジールは肩を落とし、素直に頭を下げた。


「ごめん、アンジュ。彼女とはなにもないけど、勘違いさせてしまったのなら謝るよ。本当にごめん」

「……いえ、いいのですよ」


 アンジュは緩く首を横に振った。ヴィルジールが顔をあげると、アンジュはいつもの微笑みを浮かべていた。


「ヴィルジールさまが私を裏切るなどありえませんもの」

「アンジュ……それでも、俺は、俺は」

「でしたら、一つだけ。私には望みがあるのです。それで相殺といたしましょう」


 アンジュが人差し指を立てる。ヴィルジールはすぐにうなずいた。


 アンジュに許してもらえるのなら、たとえ火の中水の中。もし国境沿いの山に住まうドラゴンを単身で倒してこいと言われても、すぐに向かう覚悟だ。だれかに骨は拾ってもらうとして。


「あぁ、アンジュ。アンジュに許してもらえるのなら、俺はなんだってするよ」


 ヴィルジールにとって、アンジュは自身の手綱を握ってくれる相手であり、常にサポートしてくれる相手だ。


 そしてなによりも――かけがえのない、愛おしい人なのだ。この気持ちが燃えるような恋情じゃなくても、ヴィルジールは彼女を愛しているのだから。


 ◇◇◇


 その日の晩、アンジュは自室で一人微笑んでいた。窓を開け、部屋の空気を入れ替える。大きな三日月を見て、目を細めた。


「あぁ、ヴィルジールさま。あなたは本当に愚かですわ」


 はじめて彼と顔を合わせた日。アンジュはいかにも頭の弱そうな男だと思った。これならば自分が公爵家を乗っ取ることも容易い。彼には傀儡になってもらおうと思った。


 けど、アンジュは彼のひたむきさにどんどん惹かれた。気づくと、彼を独占したい、自分に愛を向けてほしいと願うようになった。


 アンジュは彼を献身的に支えた。彼を支え、自分がいないとダメにしてしまえばいい。そうすれば、彼はずっと自分の側にいてくれる。あの愚かなほどにまっすぐな男を、自分に縛り付けることができる。


 バダンテール子爵家の人間は優秀な魔法師だ。通常なら国から侯爵の爵位を賜ってもおかしくはない。しかし、バダンテール子爵家の人間には出世欲がない。彼らはたった一つの物事に強い興味を示し、そのために魔法を極める。ゆえに、出世などどうでもいいのだ。むしろ、自らの興味の対象に割く時間を減らしたくないと、出世を嫌がる人間たちだった。


 アンジュはヴィルジールと出逢うまで、燃えるような感情を持ったことがなかった。兄や姉たちが熱中する物事にも興味が持てず、ただ淡々と生きてきた。だが、ヴィルジールに恋をしてからはずっと胸の中に燃えるような気持ちが存在し続けている。


 以来、アンジュは元々得意だった結界魔法を極めた。ヴィルジールの身に災いが降りかからないように、彼をひそかに守り続けた。隣で献身的な婚約者を演じながら、裏では彼を狙う令嬢たちをひそかに排除してきた。


 彼女たちの処分はヴィルジールの目に入る前に行っていた。唯一の例外こそ、フェリシー・マイエル伯爵令嬢だった。


 彼女は精神干渉の魔法を使い、第四王子をはじめとする高位貴族の令息たちの心をわがものにしていた。計算外だったのは、ヴィルジールに強力な結界魔法がかかっており、精神干渉の魔法を跳ねのけていたことだろう。


「ですが、触れられるとさすがに跳ねのけることは難しかったようですね。もう少し強固な結界を研究しなくては……」


 アンジュにとってヴィルジールはこの世の光だ。彼がいないのなら、この世界に価値などない。


 アンジュの胸の中には燃えるような恋情がある。ただし、その恋情は赤くはない。すでに昂り切った恋情の炎は青くなり、アンジュの心を癒してくれる。


「なんて愚かなヴィルジールさま。こんな私に目をつけられて、償いなどという名目で結婚を早められてしまうなんて」


 あのときアンジュが望んだこと。それはアカデミーを卒業すると同時にすぐに夫婦になるということ。


 結婚すれば彼は自分のものだ。万が一にも離縁など言わせないように、彼には自分がいないとダメなのだと教え込まないとならない。


 アンジュには燃えるような恋情はない。だってそれは、もうすでに燃えるような域を過ぎてしまったから。


【END】

結局この二人はそれなりにうまく行く気もしています。


お粗末様でした。

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