悪役令嬢と魔女~反省も執着も、私の知ったことではありません~
「ねえ、エルヴィール様。悪役令嬢って言葉、知ってます?」
午後の柔らかな陽光が降り注ぐ、王立貴族学院のサンルーム。十六歳になる公爵家の令嬢、エルヴィール・セリュリエは、所属するゼミナールのお茶会に参加していた。自分に向けられたその不躾な言葉に、エルヴィールは眉をひそめた。
エルヴィールの太陽のような金色の髪と金色の瞳は、王家と同じ色をしている。母は、女王の妹である。
高貴なエルヴィールに、屈託のない笑顔で言ったのは、平民出身のサシャ・ソランだ。王立貴族学院に特別に入学を許可された、規格外の魔力をもつ彼女は、綿菓子のようにふんわりとしたピンクゴールドの髪と、薄い空色の瞳をした美少女である。
王立貴族学院には、魔法大国としての矜持ゆえの、特殊なルールが存在する。学院において、魔力は血筋に優先されるのだ。さらにサシャには、学院の教授でもあり国家魔導師長という要職にあるロジェ・ベルナールが後ろ盾にいる。サシャは、ロジェの親戚なのだという。ロジェが後ろでひとつに束ねているまっすぐな髪は、サシャと同じ色をしていた。
サシャの言葉に、周囲にいた同級生たちは真っ青になった。教授であるロジェだけが、ちらりとエルヴィールを一瞥しただけで、紅茶を優雅に口にしている。
いくら魔力が高くても、さすがに失礼が過ぎる。そう思ったのだろうか、同級生の一人である子爵家の令嬢が、慌てて席を立とうとした。
「エ、エルヴィール様。大変申し訳ありません。今、この無礼な子を連れていきますから――」
「黙って」
エルヴィールは、陶器のように白い指先でティーカップをソーサーに戻した。カチリ、と硬質な音が響く。エルヴィールはまっすぐにサシャを見つめる。さっき眉をひそめたから、周囲からはおそらく睨んでいると見えるだろう。
立ち上がりかけていた子爵家の令嬢が、息をのんで再び椅子に腰を下ろした。一方でサシャは、発言の際から一貫して、にこにことしているままだ。
サシャはエルヴィールの婚約者である、公爵家の令息フェリシアン・ルクレールの隣に座っていた。フェリシアンはあまりのことに言葉を失っている様子だ。
「聞き慣れない言葉ね。説明して」
エルヴィールの瞳は、太陽のような色をしているのに、氷のように冷徹だとよく言われる。
「最近流行っているんですよ。演劇や小説の中で、無実のヒロインを虐げ、最後には王子様に婚約破棄されて破滅する、悪役の令嬢のことです」
明るい顔をしたままサシャは、大きな瞳でエルヴィールの顔を覗き込んだ。その表情を見れば、サシャが完全に楽しんでいることが分かる。
「なるほど。それであなたは、なぜ私にその話をしたのかしら」
「特に意味なんてありません。ね、フェリシアン様?」
と、サシャは隣のフェリシアンに愛らしい笑顔を向けた。フェリシアンは艶やかな黒い髪と、海のような紺碧の瞳をした端正な顔立ちをしている。フェリシアンはあまりの事態に困惑を隠せずにいたが、エルヴィールの視線に気づくと、ハッとして表情を険しくした。
「ソラン嬢、エルヴィールに対して失礼だ」
「失礼ってどうしてですか? 別にわたしは、エルヴィール様がそうだって言ってるわけじゃありません」
「…………」
フェリシアンは再び言葉を失った。エルヴィールは視線を逸らしてため息をついた。
公爵家嫡男のフェリシアンは、エルヴィールの婚約者に選ばれるくらいには高貴な生まれで魔力も高いのだが、彼はその生まれに似合わず真面目で優しい性格である。いつか爵位を継いだ際は、大丈夫なのだろうかと、エルヴィールが密かに案じるほどに。つまりこのサシャのように何を考えているのか分からず、空気も読まず、身分も弁えずに発言をするような相手を、うまくあしらうことはできないというわけだ。
「もし私がそうなら、物語のヒロインはあなたかしら? そして恋に落ちる王子様は、フェリシアンというわけね」
「エルヴィール、何を言うんだ!」
特に感情も込めずに言ったエルヴィールに、ひどく動揺したのはフェリシアンだ。そして周囲の同級生はもう、身動き一つとれなくなっている。ただサシャだけが、にこにこと笑っている。
エルヴィールは煩わしそうに席から立ち上がった。
「ソラン嬢」
「サシャって呼んでください、エルヴィール様」
「ここは学びの場で、私たちは同じ生徒という立場。ここでは自由な発言が許されているのだから、あなたの意味不明な言動も我慢することにするわ。――ベルナール教授、私は先に失礼しても?」
それまで無関心に紅茶を飲んでいたロジェが、ようやく顔を上げた。
「もちろん、構わないよ」
「行かれてしまうのですか? 残念です、エルヴィール様。もっとお話がしたかったのに」
サシャが愛らしく眉を下げ、白い手をエルヴィールの方へ差し出した。すると次の瞬間、彼女の手のひらから、無数の空色の蝶があふれ出し、幻想的な光を放ちながら周囲を舞った。
その美しさに、硬直していた場の空気が一変した。
「贈り物です。エルヴィール様」
空色の蝶がエルヴィールの肌に触れる直前。エルヴィールの滑らかな白い肌から、陽光のような黄金の魔力があふれ出た。
「私の周りから消えなさい。不快だわ」
エルヴィールは王家の血を引く。その血にある拒絶の力は、あらゆる魔法を無効化する。周囲を幻想的にしていた空色に輝く蝶は、エルヴィールの周りでだけ、塵のように消えていった。
「……やっぱり、すごい魔力ですね。でも、不快だなんて、ひどいです」
大きな瞳を少し潤ませてわざとらしく言ったサシャを無視して、エルヴィールはその場を去った。
+ + +
あの空色の蝶には、おそらく魅了魔法が仕込まれている。
エルヴィールは公爵家に戻るため、王立貴族学院の馬車待機所へ向かっていた。
なるほど、特別入学を許可されるだけの力はある。そもそも、入学を許可されたこと自体が、規格外の魔力という理由ではなく、魅了魔法によるものだとしたら?
注意が必要だ。この国は魔法と共に発展してきた国。すべての魔法に価値を置いている。魅了魔法そのものを悪とは言わない。だが、使い方によっては規制されるべきだろう。
――まあ、私の知ったことではないけれど。
そうエルヴィールは結論づけた。もしフェリシアンが魅了されて、エルヴィールとの婚約を解消したいというのなら、それはそれで構わない。公爵家同士の政略結婚という理由以上に、特別な感情はエルヴィールに芽生えてはいなかった。
「エルヴィール!」
背後から呼び声がした。どうやら特別な感情を抱いていないのはエルヴィールだけだったらしい。追ってきたフェリシアンは、必死な形相をしていた。
「待ってくれ、変な誤解はしないでくれ。僕はソラン嬢とは、同じゼミナール生という以上の関係はない」
「そう」
関心の薄さが出すぎてしまっただろうか。フェリシアンは傷ついた表情をした。エルヴィールは言葉を付け加える。
「……別にあなたを疑ってはいないわ」
「彼女は、随分と僕に絡んではくるんだ。勿論、適切な距離は保っているけれど」
「本当に、あなたのことを好きなのかもしれないわね」
「エルヴィール。お願いだから、そんな風に、どうでもいいことみたいに言わないでくれ」
悲しげに言うフェリシアンに、エルヴィールは静かに吐息を漏らした。
「ソラン嬢の言っていることは、ある意味では正解なのかしらね。私は悪役令嬢にふさわしいのかもしれないわ。婚約者のあなたにそんな顔をさせても、自らを変えようとは思えないのよ。もしもあなたがソラン嬢……でなくとも他の令嬢に心を奪われたとしても、きっと自分を変えようとはしないわ。そうするくらいなら、一人を選ぶわ」
フェリシアンは小さく目を見開いていた。けれど、すぐに微かな苦笑を浮かべると、それからゆるく首を振った。
「ごめん」
そう言ってフェリシアンは、今度はすっきりとした顔でエルヴィールを見つめた。
「きみはエルヴィール・セリュリエだ。王家の血を引く誇り高いきみに、僕のために変わって欲しいだなんてもう言わない」
そう告げた彼の瞳には、熱いほどにまっすぐな敬愛の色が宿っていた。その真摯な想いを受け取るのは悪くない気分だ。エルヴィールは優雅にほほえみ返した。
+ + +
神殿の最深部。そこには、王家の血を引く者と国家魔導師だけが足を踏み入れることを許された聖域がある。円形の広間の中央、白磁の寝台の上に、エルヴィールは横たわっていた。
「始めて」
エルヴィールがそう言うと、周囲を囲む国家魔導師たちが一斉に詠唱を開始する。
母から引き継いだ神聖な儀式。それは、エルヴィールの体内にある膨大な拒絶の魔力を強制的に引き出し、国中を覆う結界へと送出する儀式だった。
エルヴィールの体から、金色の魔力が無数の糸のように吸い上げられていく。
それは凄まじい疲労と、魂を削り取られるような虚脱感を伴う苦行だ。しかし、エルヴィールは声の一つも上げない。ただ金色の瞳を虚空に向け、自身の魔力が国を覆う巨大な結界へと変わっていくのを静かに見つめていた。
「――終了いたしました」
数刻に及ぶ抽出が終わり、国家魔導師たちが一斉に跪く。
エルヴィールは、ゆっくりとした足取りで寝台から降りた。目の前がかすむ。指先ひとつ動かすのも億劫なほど、魔力は空に近い。
王家の血に課された過酷な運命。だが、それは贅沢な暮らしと引き換えの義務だ。エルヴィールはそれを理解しているから、不満はなかった。その役目をかつては母が、そして今はエルヴィールが担うことになっている。王家の血を引く者の中で最も魔力が高いからだ。伯母である女王は、母とエルヴィールを心からいたわり、大切にしてくれている。
「エルヴィール様、手を」
ふらつくエルヴィールを支えたのは、学院の中とは打って変わって、丁寧にエルヴィールを扱う国家魔導師長、ロジェだった。
ロジェはエルヴィールの手を取り、もう一方の手でエルヴィールの細い背中を支えた。
エルヴィールは疲労しきった足取りで聖域を後にした。ロジェの支えがなければ、エルヴィールの体はとうに冷たい床に崩れ落ちていただろう。
神殿の出口まで辿り着いた時、そこに待機していたのはフェリシアンだった。
「エルヴィール! ……酷い顔色だ。大丈夫かい?」
フェリシアンが慌てて駆け寄り、ロジェからエルヴィールを奪い取るように、その腕の中に強く抱きかかえた。ロジェはわざとらしく肩をすくめて身を引いた。
婚約者の腕の中で、エルヴィールは安堵ではなく、耐え難い倦怠感に瞳を閉じる。
「今、回復するから」
フェリシアンが静かに治癒の詠唱を始めた。体の中に清らかな水が注ぎこまれていくようだった。少しだけ、息をするのが楽になる。
「……ありがとう、フェリシアン」
そう言うと、フェリシアンは嬉しそうにほほえんだ。ほんの少し、頬を赤らめている。
その時だった。
「――お疲れ様です、エルヴィール様」
聞こえるはずのない声が聞こえて、エルヴィールは顔をあげる。
サシャが少し離れたところで、こちらを見ていた。いつものような笑顔ではない。
「……どうしてあなたがいるの?」
「教授がいいって、おっしゃったので」
「…………」
「エルヴィール様、そんな風になって……可哀想」
サシャはふっと悲しげな目を向けた。その目にあるのは、純粋な憐憫のようだった。エルヴィールはサシャの真意を理解できず、眉を寄せる。
サシャはフェリシアンの方を向き、手を差し出す。
「フェリシアン様。こちらへきて」
その瞬間、サシャの手から甘く痺れるような魔力が、空色の蝶となって舞い上がった。
エルヴィールを支えていたフェリシアンの体が、ビクリと震える。
魔力を抜かれた直後のエルヴィールには、周囲を守る余力がない。サシャの魅了魔法が、フェリシアンや控えていた護衛たちに容赦なく侵食していく。
フェリシアンは一瞬、エルヴィールを見つめた。嫌だと抵抗する、あるいは謝罪のような悲痛な光。しかし空色の蝶が彼の視界を横切った瞬間、その瞳が光を失う。
「――ああ……分かったよ」
糸の切れた人形のように、フェリシアンは、エルヴィールの手を離した。
彼は振り返ることもせず、吸い寄せられるようにサシャのそばへと歩み寄る。護衛たちも、主であるエルヴィールを置き去りにして、サシャを囲む。
残されたエルヴィールを、素早く支えたのはロジェだった。
「さあ、私が送りましょう」
「ベルナール教授……あなた、一体どういう――」
空色の蝶が音もなく舞い、エルヴィールの肌に触れる。その魔力に酔うように、エルヴィールはそこで気を失った。
+ + +
その直後、王立貴族学院はある醜聞に揺れていた。
フェリシアンとサシャが密かに逢瀬を重ね、エルヴィールを裏切ったという噂だ。
神殿での儀式から数日。儀式後の虚脱感からようやく回復したエルヴィールの元へ、その知らせは届いた。
学院の広場、噴水の前に呼び出されたエルヴィールを待っていたのは――フェリシアンと、そのすぐそばに寄り添うサシャの姿だった。
フェリシアンの瞳は、以前のような澄んだ紺碧ではない。サシャの魔力に浸食され、どこか焦点の定まらない様子だ。
「エルヴィール。きみとの婚約を、破棄させてもらいたい」
エルヴィールは、無表情に彼を見つめた。
「理由は?」
「……サシャを、愛してしまったから」
フェリシアンの言葉には、下手な芝居のように、何の感情もこもっていない。
隣に立つサシャはエルヴィールに向かって、唇の端だけで小さく笑みを浮かべた。
「フェリシアン。それでいいのね?」
まなざしを向けると、フェリシアンの瞳がゆらいだ。
「……エルヴィール」
迷い子のようなフェリシアンの声。すかさずサシャの甘い声が響く。
「フェリシアン様、ダメですよ?」
「……フェリシアン。あなたなら、打ち勝つこともできる気がするけれど。――まあ、いいわ」
エルヴィールの金色の瞳が、鋭くフェリシアンをとらえる。そしてエルヴィールが右手をかざした瞬間、サシャの顔から余裕が消えた。
黄金の魔法陣が、エルヴィールの手のひらで輝く。
「やめて、エルヴィール様!」
サシャが叫ぶ。
エルヴィールの放った黄金の魔法陣が、フェリシアンを直撃した。その瞬間、フェリシアンの瞳から霧が晴れ、彼は激しい眩暈に襲われたように膝をつく。
「……僕は、一体、何を……」
正気に戻ったフェリシアンが、震える手で眉間を抑える。エルヴィールは彼に駆け寄ることはしなかった。
「お帰りなさい、フェリシアン。そして、さようなら。婚約破棄を、受け入れるわ」
「――婚約破棄? 待ってくれ、エルヴィール! 僕は、彼女に――」
「それよりも」
エルヴィールはサシャに向き直った。サシャは唇を噛んでいる。
「次は、あなたの番よ」
エルヴィールは、サシャの反応を楽しむように、ゆっくりとほほえんだ。
+ + +
先に動いたのは、サシャの方だった。
サシャの放った空色の魔力が、エルヴィールの周囲、地表付近で輝く。
エルヴィールは眉ひとつ動かさなかった。冷静にそれを見ていると、空色の光は天へ向かって伸びていき、まるで鳥かごのようにエルヴィールをそこに閉じ込めていた。フェリシアンのそばを離れてこちらに近づいてきたサシャ自身もその内側に入り、二人だけの閉ざされた空間を完成させていた。
「……何のつもりかしら、ソラン嬢」
「サシャって呼んでくださいって言ったじゃないですか」
サシャは、ますます距離を詰めてくる。
「エルヴィール様、サシャって呼んでください。でないと話はしません」
エルヴィールはやれやれとため息をついた。
「何のつもり? 答えなさい、サシャ」
エルヴィールがその名を呼ぶと、サシャはぱっと花が開いたような笑顔を見せた。エルヴィールには理解ができない。
「……ご存知ですか? 昔々、建国の際に追放された魔女の一族を。王家を愛し、守ろうとしたのに、その強すぎる力ゆえに遠ざけられた哀れな一族。わたしは、その末裔なんです」
空色の蝶がサシャの足元から舞い上がる。
「そう。目的は復讐なの? やってごらんなさい」
冷たく返すと、サシャはどこか悲しそうな顔をした。
「復讐……別にそんなつもりはなかったけれど。――ねえ、エルヴィール様、あなたなら、わたしの力を無効化することもできますか?」
エルヴィールは返事をする前に、無表情に黄金の魔法陣を放つ。
サシャの周囲から、空色の蝶が霧散する。そして――。
サシャを覆っていた、愛らしい少女の輪郭が、陽炎のように歪む。
魔法が無効化されるのと同時に、ふわりと広がっていたスカートの裾が、すとんと直線的なスラックスのラインへと変貌する。
サシャの姿が変わっていく。背は高くなり、髪は短く。可憐な少女の面影は消え、そこにいたのは端正な顔立ちの男だった。
エルヴィールは一瞬、言葉を失っていた。魅了魔法だけかと思っていたが、変成魔法まで使っていたのか。
まったく気が付かなかった。そのことにエルヴィールは内心で舌打ちをした。
「どういうこと?」
「どうって……あなたが、俺の魔法を解いたんじゃないか」
少女の甘い声音は消え、低く響く声が返ってきた。
「なぜ、姿を変えて――」
サシャはゆっくりと笑った。愛らしさは消え失せたが、美しさは変わらない。サシャはエルヴィールのすぐ前に立って両腕を伸ばすと、エルヴィールを鳥籠と自分の間に閉じ込めた。
「邪魔なフェリシアンを誘惑して、あなたとの婚約を破棄させようと思って。あなたを孤立させ、身分を奪い、誰の手も届かない場所へ連れ去りたかった。そうすれば、あなたは俺だけを見つめ、俺だけに縋ってくれるだろうって思ったから。ねえ、エルヴィール様。朝、鳥の声で目覚めて、昼寝をして、誰も来ない庭であなたとお茶を飲んで――そんな風に、誰にも邪魔されずに過ごしたいんだ。一緒に行こう?」
エルヴィールは額に手を当てた。頭が痛い。この男は何を言っているんだろう?
「――愚かね」
「ひどいな」
「連れていけると思うのなら、やってみなさい」
「……いいの?」
「できるものならね」
その時、空色の鳥籠に衝撃が走った。フェリシアンが立ち上がり、こちらに魔力を放っている。フェリシアンの得意とするのは回復魔法だ。彼の生家は、聖なる加護を受けているという伝説がある。彼は両手を鳥籠に当て全力で魔力をぶつけて解除しようとしているが、この鳥籠を破ることはできないだろう。
「……邪魔だな」
少女の時とは似ても似つかない、低く冷ややかな声。サシャはエルヴィールを閉じ込めていた両腕を戻して不機嫌そうにフェリシアンを見る。その手のひらの上に、空色の蝶を舞い上がらせていた。
「邪魔なのは、この鳥籠ね。不愉快だわ」
冷え切った声と共に、エルヴィールの周囲に幾重もの黄金の魔法陣が展開された。それが放たれると、空色の蝶が、鳥籠が、触れた端から音もなく霧散していく。
青空の下、サシャは周囲を見渡し、それから愉しげに目を細めた。
「やっぱり、あなたは特別だね」
――だから、欲しい。そんな声が聞こえた気がした。
「エルヴィール!」
フェリシアンが二人の間に割って入り、エルヴィールの腕を引いて、自分の背中に隠した。サシャが心底嫌な顔をする。
「今更、騎士気取りか? エルヴィール様がいないと、何もできないくせに」
「何だと!?」
フェリシアンが咄嗟に剣を抜いた。貴族がほとんどを占めるこの学院では、帯刀が許可されている。平民であるサシャも、本来の姿では帯刀していたようだ。サシャも腰の剣を抜く。
「魔法が効かないなら、仕方がないか」
そう呟いた瞬間、サシャが地面を蹴っていた。激しい衝撃を受け止めたのは、フェリシアンの剣だ。
「簡単に魅了魔法にかかったくせに、恥ずかしくないのか? さっさと消えろよ」
「ふざけるな! こんなことをして、ただで済むと思うな!」
激昂した二人の魔力も、剣と同時にぶつかり合い、噴水の水が衝撃で飛沫を上げた。一人自分の周囲だけを無風に保ったエルヴィールは、静かにため息をついていた。
エルヴィールの力は、魔力が介在しない物理的な攻撃には弱い。だから攻撃を受ける前に魔法で制圧するのだが、サシャとフェリシアンの速さと力から想定するに、長引けばエルヴィールは押し切られるだろう。
やがて騒ぎを聞きつけて、周囲に人が集まってきた。剣のぶつかる音を背に、エルヴィールは一度も振り返ることなく、集まってきた野次馬の波に紛れてその場を後にした。
+ + +
エルヴィールは教室に戻り、次の授業を受けた。
授業が終わり、復習のために教科書をめくっていると、ロジェが姿を現した。
「やあ。少し時間をいいかな?」
教授モードのロジェ。そうであれば、エルヴィールは従うしかない。エルヴィールはため息をついて立ち上がった。
ゼミナール室に向かうかと思ったが、連れて行かれた先は医務室だった。
中に入ると、ベッドで寝ていた二人がそろって上体を起こした。
「エルヴィール!」
「エルヴィール様!」
同時に声を上げ、お互いに敵意に満ちた視線を向け合うフェリシアンとサシャ。サシャの姿は男のままだ。事情を聞かされているらしい医務室の面々は、誰もその姿に驚いていなかった。
エルヴィールは隣に立つロジェに冷ややかな視線を送った。
「ベルナール教授、説明を。神殿の時から、あなたは何かを知っていましたよね。これは一体、どういう悪趣味な余興ですか?」
鋭い問いかけに、ロジェは悠然とソファに腰を下ろした。エルヴィールにも座るよう勧めてきたので、仕方がなく従い、ロジェの前に座った。
「サシャは以前、思春期特有の魔力暴発の反動で、意識せずとも魅了魔法を全開にしてしまったことがあってね。困り果てた一族が、国家魔導師長である私を頼ってきたんだ。私のもとで制御を学び、今では自由に使いこなせるようになっている」
「国家魔導師長――平民でありながらその地位に就いているあなたは、私の母に飼われているようなものだと聞いていますが」
「遠慮がないね」
「つまり、母は知っていますね?」
「もちろん。公爵夫人には報告済みだよ。私の親族が、魔女の血筋に逆らえず、エルヴィール様に心を奪われましたと。公爵夫人は笑っておられたよ。箱庭での遊びは、自由にさせるようにと」
エルヴィールの頬が、わずかに引き攣った。あの母なら、いかにも言いそうなことだ。
エルヴィールの視線が、サシャへと移る。サシャは、隠しきれない熱情を孕んだ空色の瞳で、じっとエルヴィールを見ていた。
「私の力が弱まっている時に、私自身に、魅了魔法を使わなかったのは、なぜ?」
「……そんなものに、意味はない」
サシャがベッドから出て、座るエルヴィールの足元に跪いた。
「きみの心が欲しいんだ。魅了で操った人形の愛なんていらない」
「待て!」
慌ててベッドから降り、エルヴィールの前にさっと割り込んだのはフェリシアンだ。
「エルヴィールは僕の婚約者だ」
「婚約は破棄したでしょう」
あっさりとエルヴィールが言うと、振り返ったフェリシアンは狼狽していた。
「エルヴィール、もう一度、僕にチャンスをくれ。僕は正気じゃなかった。お願いだ」
「確かに、あなたは魅了魔法の被害者よ」
「エルヴィール――」
「ただ、母が何と言うかしらね」
笑ったのはロジェだ。
「残念だ、とおっしゃっていたよ。エルヴィールを守る盾の役割を果たしていないってね」
「…………」
真っ青になって言葉を失うフェリシアン。その姿が不憫でないと言えば嘘になる。それくらいには、エルヴィールは彼との時間を共有した。
「……この件は一旦保留よ。母と良く話し合うわ」
「エルヴィール! ありがとう!」
「何でだよ」
不満げに立ち上がったサシャに、エルヴィールは今度は見上げるようにして視線を送った。
「あなたは一つ、勘違いをしているわ」
「勘違い?」
「私は誰のものにもならないわ。婚約しようが結婚しようが、私は私だけのものよ」
「…………」
サシャはぐっと息をのんで、それから捨てられた子犬のような表情を見せた。
「……お願いだ。どんな形でもいい、そばにいさせてくれ。俺を、追い出さないで」
エルヴィールは小さく息をついた。そしてロジェに再び質問する。
「母は、彼を私の婚約者候補に?」
「まさか。身分が違いすぎる」
ロジェは呆れたように笑った。それを聞いてサシャは、苦しそうに唇を噛んでいた。
エルヴィールは、ロジェの置かれた状況を考える。母に飼われた魔女の一族。建国より、王家を愛するその血筋。
「……身分が違う。でもベルナール教授は、国家魔導師として、母のそばにいる。そういうことですね」
ロジェはただ、意味深に笑うだけだった。エルヴィールは呆れたように深いため息をついた。
「どうかしてるわ」
「……我々は魔女の一族であり、王家と共に未来をつくった自負がある。願っているんだ。いつかまた、再び共に生きる時がくるのを」
「それは願いというより、執着ですね」
「さあ、どうだろう?」
食えないロジェに、エルヴィールは不機嫌さを隠さずに言った。
「結局、私が彼をどう扱おうと、彼は特待生としてこの学院に留まるのでしょうね」
「そうなるね。必要ならサシャも、私と同じように国家魔導師の道を歩むだろう。彼の魅了魔法は、使いようによっては国の大きな利益になる」
確かに。エルヴィールは母が何を考えているのかをとうに理解していた。結局、この国の――伯母の役に立つのならまあ良しと思っていることだろう。
その母はともかく。
「……なぜ父は、あなたを遠ざけないのかしら?」
「排除したいだろうね。できないだけで」
エルヴィールの疑問にさらりと答えて、ロジェはサシャとフェリシアンに目をやった。
「さてこの箱庭のお遊びは、どう決着するかな? できれば私は、一族の悲願が果たされることを望んでいるよ。愛娘を魔女の末裔に奪われ、公爵閣下がどんな顔をされるか。それを想像するだけで、国家魔導師の退屈な仕事も報われるというものだ」
「ベルナール教授、何を言うのですか!」
信じられないという様子のフェリシアンに、ロジェはふっと笑った。
「奮闘するといい。きみのことも、私の生徒として応援しているよ」
そう言って、勝手な大人は去ってしまった。
エルヴィールはもう何度目かのため息をついて、残された二人に改めて言った。
「私は誰かのものになるつもりも、誰かのために自分を変えるということもしないわ。そうするくらいなら、一人を選ぶ。そういうことよ。それじゃ」
+ + +
数日後。王立貴族学院のサンルーム。再びゼミナールのお茶会が開催されていた。
「……サシャ、離れなさい」
サシャは少女の姿となり、エルヴィールの腕に自分の腕を絡めていた。
エルヴィールの隣に居座り続けるために、それが最も都合が良いと判断したらしい。
「あなたには、矜持というものはないの?」
「エルヴィール様のそばにいるほうが大切なんです」
「……どうせなら、犬か猫にでもなったらどう?」
「部屋で飼ってくれますか? だったら、そうします!」
嫌味も通じない。しかも、この様子ならそれもできるのだろう。エルヴィールは呆れる。
「エルヴィールに馴れ馴れしくするな」
遅れて到着したフェリシアンが、血相を変えて駆け寄ってきた。
「いいじゃないですか、フェリシアン様――痛っ!」
エルヴィールから引きはがそうとサシャの腕を取ったフェリシアンが、悲鳴のようなサシャの声を聞いて、思わずバッと手を放す。サシャはエルヴィールの肩に顔を寄せてクスクスと笑った。
エルヴィールは、騒がしいこの状況を、自分には関係のないどこか遠い国の出来事のように感じていた。
学院の生徒たちは、今のこの光景を見て何と思っているのだろうか。
――まあ、私の知ったことではないわね。
エルヴィールはただ一言、心の中でそう切り捨てると、優雅に紅茶を口にした。
(THE END)
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