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赤い命の選択

作者: たんすい
掲載日:2026/04/06

 小さな水槽の中で、赤が死んでいく。


 レッドテールアカメフグ――ルビー。


 三週間、何も食べていない。


 腹は、もう痩せ細っていた。


 あの丸みは、もうどこにも残っていなかった。


 削げ落ち、骨の輪郭さえ薄く浮かび上がっている。


 茜は、水槽の前から動けなかった。


(……以前は、水底を優雅に泳いでいたのに)


 照明を受けてきらめく鮮やかな赤。

 餌を落とすと、すぐに口を寄せてきたあの仕草。

 ヒレを小刻みに揺らし、嬉しそうに弾むような動き。


 その記憶が、胸の奥で鈍く疼く。


(どうして食べないの……)


 見守ることしかできない。

 それが、何より残酷だった。


 耐えきれず、彼女は友人に電話をかける。


「……拒食か」


 相手は瀬戸だった。

 観賞魚に関して異常なほど詳しい男だ。


「大変だな。ただ、長引けばよくない」


 淡々とした声が響く。


「水質は大丈夫か? 亜硝酸と硝酸塩とか」


 茜は言葉に詰まる。


「……わからない」


 短い間。


「まずはショップで水質検査薬を買って、調べてみるといい。

 それから、イトミミズを用意してあげて。

 柔らかくて動くから、拒食の魚には効果的だ」


 正論だった。

 無駄がなく、迷いもない。


 だからこそ、言葉は少なかった。


 茜はメモを握りしめ、家を飛び出す。


 向かったのは近所のホームセンター。


 棚の前で立ち尽くしていると、声がかかった。


「お困りですか?」


 振り向くと、若い店員。名札には「佐藤」。


 事情を話す。食べないこと。弱っていること。怖いこと。


 佐藤は最後まで遮らず、ただうんうんと頷き続けた。


 目が、茜の顔にじっと据えられている。


「それ、ストレスだと思います」


 声は柔らかかった。


「環境とか、寂しさとか……そういうもので食べなくなること、ありますよ」


 彼は棚から商品を取り出しながら、ゆっくりと説明を重ねる。


 粘膜保護剤。用途の曖昧なコンディショナー。


「隠れ家を用意してあげて、綺麗なオブジェもありますよ」


 差し出された鮮やかなプラスチック水草と、小さな岩のオブジェに、茜は思わずつぶやいた。


「……可愛い」


 その瞬間、佐藤の頰がわずかに緩んだ。


 唇の端が、ほんの少し上がる。


 彼は目を細め、まるで自分が何かを成し遂げたかのように、満足げに息を吐いた。


「環境を変えてあげましょう。


 あと、この薬も評判いいですよ。万病に効くって」


 さらにゼリー状のフードを手に取り、


「生餌もいいですけど、弱っているならこっちの方が優しいと思います」


 言葉は拙く、知識は浅かった。


 しかし彼の目は、決して逸れなかった。


 やせ細った赤い体ではなく、茜の安堵の笑みだけを捉えていた。


「……これ、全部ください」


「はい! 頑張ってください!」


 背中に飛んできた声は、明るすぎるほどだった。


 佐藤はレジを打ちながら、唇の端をわずかに吊り上げていた。


 彼女の不安を、ここまで完璧に自分のものにできた満足が、静かに胸の内で膨らんでいた。


 ※※※


 帰宅後、茜は瀬戸に連絡した。


 内容をそのまま伝える。


 沈黙。


 やがて、低い声。


「……全部逆だ。

 薬は今いらない。余計なオブジェはストレスになる。

 なぜイトミミズを買わなかった?」


 声は淡々としていた。


 感情のノイズを、一切拾っていない。


 ただ、正しい手順だけを、機械のように並べる。


 茜は震える声で言った。


 言い聞かせるように。


「でも……瀬戸くんより、あの店員さんの方が、ちゃんと聞いてくれた」


 小さく息を吸う。


「……すごく、一生懸命で……」


 短い間。


 瀬戸の息が、受話器の向こうで止まった。


 それは、ただの沈黙ではなかった。


 彼の内側で、何かが音を立てて崩れる音だった。


「……そうか」


 声は、以前よりさらに低く、乾いていた。


 責める言葉はなかった。


 ただ、受話器の向こうで、瀬戸の呼吸が一瞬だけ乱れた。


 何か言い直しかけて、しかし飲み込んだ。


 命を失うかもしれないという事実が、彼の胸の奥で確かに疼いていた。


 それを、別の言葉に変える術を、彼は持たなかった。


 通話が切れる。


 電話を握ったまま、茜は水槽の前に立った。


 指先が、わずかに震えていた。


 正しさは怖い。


 否定されるのは、もっと怖い。


 だからこそ、彼女は選んだ。


 責められない言葉だけを、静かに飲み下す世界を。


 粘膜保護剤を入れる。水が一瞬、白く濁る。


 プラスチックの水草と、作り物の岩のオブジェを沈めた。


 ルビーが、弾かれたように身を翻した。


 ヒレが細かく震え、逃げるように水槽の奥へ。


 一度だけ。


 それきりだった。


 ほんの一瞬だけ、胸の奥で何かが引っかかった。

 けれど、茜はその違和感をそっと押し沈めた。


 微笑んだ。


 微笑みながら、ルビーが沈み、

 落ちてゆく様を見守った。


 ここには、誰も彼女を正さない。


 誰も、責めない。


 翌朝、水槽の中で赤はもうなかった。


 白く濁った小さな体。

 赤く鮮やかなプラスチックの水草。


 それだけが、変わらず明るく光を弾いていた。


 水面は、昨日と同じリズムで揺れ続けていた。

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