赤い命の選択
小さな水槽の中で、赤が死んでいく。
レッドテールアカメフグ――ルビー。
三週間、何も食べていない。
腹は、もう痩せ細っていた。
あの丸みは、もうどこにも残っていなかった。
削げ落ち、骨の輪郭さえ薄く浮かび上がっている。
茜は、水槽の前から動けなかった。
(……以前は、水底を優雅に泳いでいたのに)
照明を受けてきらめく鮮やかな赤。
餌を落とすと、すぐに口を寄せてきたあの仕草。
ヒレを小刻みに揺らし、嬉しそうに弾むような動き。
その記憶が、胸の奥で鈍く疼く。
(どうして食べないの……)
見守ることしかできない。
それが、何より残酷だった。
耐えきれず、彼女は友人に電話をかける。
「……拒食か」
相手は瀬戸だった。
観賞魚に関して異常なほど詳しい男だ。
「大変だな。ただ、長引けばよくない」
淡々とした声が響く。
「水質は大丈夫か? 亜硝酸と硝酸塩とか」
茜は言葉に詰まる。
「……わからない」
短い間。
「まずはショップで水質検査薬を買って、調べてみるといい。
それから、イトミミズを用意してあげて。
柔らかくて動くから、拒食の魚には効果的だ」
正論だった。
無駄がなく、迷いもない。
だからこそ、言葉は少なかった。
茜はメモを握りしめ、家を飛び出す。
向かったのは近所のホームセンター。
棚の前で立ち尽くしていると、声がかかった。
「お困りですか?」
振り向くと、若い店員。名札には「佐藤」。
事情を話す。食べないこと。弱っていること。怖いこと。
佐藤は最後まで遮らず、ただうんうんと頷き続けた。
目が、茜の顔にじっと据えられている。
「それ、ストレスだと思います」
声は柔らかかった。
「環境とか、寂しさとか……そういうもので食べなくなること、ありますよ」
彼は棚から商品を取り出しながら、ゆっくりと説明を重ねる。
粘膜保護剤。用途の曖昧なコンディショナー。
「隠れ家を用意してあげて、綺麗なオブジェもありますよ」
差し出された鮮やかなプラスチック水草と、小さな岩のオブジェに、茜は思わずつぶやいた。
「……可愛い」
その瞬間、佐藤の頰がわずかに緩んだ。
唇の端が、ほんの少し上がる。
彼は目を細め、まるで自分が何かを成し遂げたかのように、満足げに息を吐いた。
「環境を変えてあげましょう。
あと、この薬も評判いいですよ。万病に効くって」
さらにゼリー状のフードを手に取り、
「生餌もいいですけど、弱っているならこっちの方が優しいと思います」
言葉は拙く、知識は浅かった。
しかし彼の目は、決して逸れなかった。
やせ細った赤い体ではなく、茜の安堵の笑みだけを捉えていた。
「……これ、全部ください」
「はい! 頑張ってください!」
背中に飛んできた声は、明るすぎるほどだった。
佐藤はレジを打ちながら、唇の端をわずかに吊り上げていた。
彼女の不安を、ここまで完璧に自分のものにできた満足が、静かに胸の内で膨らんでいた。
※※※
帰宅後、茜は瀬戸に連絡した。
内容をそのまま伝える。
沈黙。
やがて、低い声。
「……全部逆だ。
薬は今いらない。余計なオブジェはストレスになる。
なぜイトミミズを買わなかった?」
声は淡々としていた。
感情のノイズを、一切拾っていない。
ただ、正しい手順だけを、機械のように並べる。
茜は震える声で言った。
言い聞かせるように。
「でも……瀬戸くんより、あの店員さんの方が、ちゃんと聞いてくれた」
小さく息を吸う。
「……すごく、一生懸命で……」
短い間。
瀬戸の息が、受話器の向こうで止まった。
それは、ただの沈黙ではなかった。
彼の内側で、何かが音を立てて崩れる音だった。
「……そうか」
声は、以前よりさらに低く、乾いていた。
責める言葉はなかった。
ただ、受話器の向こうで、瀬戸の呼吸が一瞬だけ乱れた。
何か言い直しかけて、しかし飲み込んだ。
命を失うかもしれないという事実が、彼の胸の奥で確かに疼いていた。
それを、別の言葉に変える術を、彼は持たなかった。
通話が切れる。
電話を握ったまま、茜は水槽の前に立った。
指先が、わずかに震えていた。
正しさは怖い。
否定されるのは、もっと怖い。
だからこそ、彼女は選んだ。
責められない言葉だけを、静かに飲み下す世界を。
粘膜保護剤を入れる。水が一瞬、白く濁る。
プラスチックの水草と、作り物の岩のオブジェを沈めた。
ルビーが、弾かれたように身を翻した。
ヒレが細かく震え、逃げるように水槽の奥へ。
一度だけ。
それきりだった。
ほんの一瞬だけ、胸の奥で何かが引っかかった。
けれど、茜はその違和感をそっと押し沈めた。
微笑んだ。
微笑みながら、ルビーが沈み、
落ちてゆく様を見守った。
ここには、誰も彼女を正さない。
誰も、責めない。
翌朝、水槽の中で赤はもうなかった。
白く濁った小さな体。
赤く鮮やかなプラスチックの水草。
それだけが、変わらず明るく光を弾いていた。
水面は、昨日と同じリズムで揺れ続けていた。




