赤い命の選択
小さな水槽の中で、赤が死んでいく。
レッドテールアカメフグ――ルビー。
三週間、何も食べていない。
腹は、もう痩せ細っていた。
あの丸みは、どこにも残っていない。
削げ落ち、骨の輪郭さえ浮かび上がっている。
茜は、水槽の前から動けなかった。
(どうして食べないの……)
見守ることしかできない。
それが、何より残酷だった。
耐えきれず、彼女は友人に電話をかける。
「……拒食か」
相手は瀬戸だった。
観賞魚に関して異常なほど詳しい男だ。
「大変だな。ただ、長引けばよくない」
淡々とした声が響く。
「水質は大丈夫か? 亜硝酸と硝酸塩とか」
茜は言葉に詰まる。
「……わからない」
短い間。
「まずはショップで水質検査薬を買って、調べてみるといい。
それから、イトミミズを用意してあげて。
柔らかくて動くから、拒食の魚には効果的だ」
正論だった。
無駄がなく、迷いもない。
だからこそ、言葉は少なかった。
茜はメモを握りしめ、家を飛び出す。
向かったのは近所のホームセンター。
棚の前で立ち尽くしていると、声がかかった。
「お困りですか?」
振り向くと、若い店員。
名札には「佐藤」。
事情を話す。
食べないこと。
弱っていること。
怖いこと。
佐藤は、最後まで遮らずに聞いた。
そして、ゆっくり言う。
「それ、ストレスだと思います」
瀬戸とは、まったく違う答えだった。
「環境とか、寂しさとか……そういうもので食べなくなること、あります」
彼は棚から商品を取り出していく。
粘膜保護剤。
用途の曖昧なコンディショナー。
「隠れ家を用意してあげて、綺麗なオブジェもありますよ」
そう言って差し出されたのは、
鮮やかな色のプラスチック水草と、岩や流木が組み合わさった小さなオブジェだった。
茜は思わずつぶやく。
「……可愛い」
佐藤はうれしそうに頷く。
「環境を変えてあげましょう。
あと、この薬も評判いいですよ。万病に効くって」
さらに餌を手に取る。
「生餌もいいですけど、弱っているならこっちの方が優しいと思います」
ゼリー状のフードだった。
言葉は拙い。
だが、目は逸らさない。
(この人は……ちゃんと聞いてくれた)
瀬戸は正しい。
それはわかっている。
でも――
今救われたのは、どちらだったのか。
気づけば、茜は商品をカゴに入れていた。
「……これ、全部ください」
「はい! 頑張ってください!」
背中に、強い声が飛んでくる。
帰宅後、茜は瀬戸に連絡した。
内容をそのまま伝える。
沈黙。
やがて、低い声。
「……逆だ」
「全部逆だ。薬は今いらない。余計なオブジェはストレスになる。
なぜイトミミズを買わなかった?」
茜は、震える声で言った。
言い聞かせるように。
「でも……瀬戸くんより、あの店員さんの方が、ちゃんと聞いてくれた」
一度、言葉が途切れる。
「すごく、一生懸命で……」
小さく息を吸う。
「……ルビーも、この水槽の方が、いいと思う」
短い息。
「……私、どうすればいい?」
――瀬戸は、もう何も言わなかった。
沈黙が落ちる。
瀬戸は理解した。
もう遅い。
彼女は正解ではなく、
「選んだ理由」を守ろうとしている。
絞り出すような声。
「……そうか。なら、その通りにやればいい」
通話が切れる。
茜は水槽の前に立つ。
薬を入れる。
水が、一瞬だけ白く濁る。
オブジェを沈める。
その瞬間――
ルビーが、弾かれたように身を翻した。
水槽の奥へ、逃げるように。
ヒレが、細かく震える。
一度だけ。
……それきりだった。
「ほら、喜んでくれた……」
かすれた声。
やがて、ルビーは沈む。
隅へ。
それ以上、動くことはなかった。
翌朝。
水槽の中で、ルビーは横たわっていた。
赤は、もうない。
茜は、動かなかった。
視線の先で、
鮮やかなプラスチックの水草と、作り物のオブジェが光を弾く。
やけに明るい。
水面が揺れている。
一定のリズムで。
それだけは、昨日と変わらない。




