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作者: imo
掲載日:2025/10/14

昔書いた高杉晋作主人公の短編小説です。

物心がつく頃から、実の父親が苦手だった。

厳格で口煩く保守的な父高杉小忠太は、萩藩という地域性をよく現した男だった。

変化を拒み、恐れ、そして詰る。

そんな父から見て、僕という存在は異端であったらしい。

幼い頃から父親にはよく叱られたものだった。

「ちちう~!」

部屋を隔てた麩が、小さな手によってゆっくりと開け放たれる。

僕は重い躰を起こしつつ、布団を捲った。

「ちちう、あそんで~!」

麩の影からひょいと息子が顔を出した。

息を吸い込み聲を出そうとしても、言葉になる前に咳き込んでしまう。

掠れた聲と涙で潤んだ瞳で叱っても、きっと息子の反省は得られまい。

「梅之進っ、こっちへ来てはいけないぞ。雅っ、雅っ!」

「はいっ!すみません……何度も言って訊かせたのですが……。」

肺を患ってから、まともに実の息子にすら触れられない日々が続いていた。

もう、病に臥してから半年が過ぎようとしている。

そして先日医者がとうとう匙を投げた。

僕は間もなく死ぬのだそうだ。

「雅、しっかりしてくれ。お前だけが頼りなんだ……。」

「申し訳ございません。ほら梅、こちらへいらっしゃい。」

「ちちう~~」

雅子が梅之進の手を引いて行くと、再び障子が閉ざされる。

二人の賑やかなやり取りに目を細め、僕は又喉を詰まらせた。

何度注意されても同じことを繰り返していた、昔の自分を思い出す。

再び布団に潜り込むと布団の埃を吸ったのか、更に何度か咳き込んだ。

そろそろ吐き出す血液すら枯れるのではないかと、自身への嘲笑が漏れる。

開いた右の掌は、血痰で赤く染まっていた。

一日中横になっていると、昼と夜の境目すら曖昧になる。

何時かの家族の賑やかな聲は途絶え、代わりに鴬の鳴き聲が耳に届いた。

縁側の向こうの、既に花の季節を終えた老梅の方だった。

躰が不思議な程軽いので、僕は立ち上がり外へ通じる障子を開け放った。

「僕を呼んだのはお前か?」

尋ねても、勿論会話が出来る訳では無い。

その鴬は、僕の姿に驚くどころかじっとこちらを見つめていた。




あれから、縁側へ出て鴬を眺めることが日課になっていた。

胸の病は相変わらずだったが、不思議と心は軽く感じられる。

縁側に坐している処に、妻が気を利かせて羽織を肩にかけてくれた。

「最近調子が宜しいみたいですね。」

「ああ。お前の看病のお陰で良くなった気がするよ。」

無論、医者に見捨てられたこの躰が、日に日に窶れて来ているのは変わらない。

しかし、妻の献身的な看病に報いてやりたかったのも事実だった。

妻が隣に坐した時、寝室から息子がこちらを伺っているのに気付いた。

敷居の向こう側で、手をもじもじさせながら笑顔を向けて来る。

僕に近付くと叱られることを覚えたからか、境界線を越えるのを躊躇っている様だ。

「ちちう~~げんきっ?」

「ああ梅之進、敷居を越えてこちらへ来ては駄目だぞ。」

「あいっ!」

早くに父を失う息子が哀れでならなかった。

もう少しだけ、もう少しだけ生きていたいという気持ちが、もしかしたらあの鴬を寄越したのかもしれない。

「まぁ、あの鴬。今日も来ているのね。毎日毎日、旦那様に逢いにいらっしゃるのかしら?」

妻の言葉に反応する様に、鴬は力強く美しく鳴いた。

その鳴き聲が、不意に亡くなった朋のそれと印象が重なる。

「あら?どうかなさいましたか?」

顔を覗き込まれて初めて、自分が泣いていることに気付いた。

このところ男として恥ずかしい程、情に脆くなっている気がする。

それは、心の制御装置が外れた感覚とでも言うべきだろうか。

「梅之進や僕の両親のことを、全てお前に丸投げしてしまう形になってしまい、申し訳なく思っている。これまでお前はよく家の為に働いてくれた。良い夫でいてやれなかったことも……すまないと思っている。」

妻は鴬の方に視線を移し、黙って訊いている。

鴬がまた、澄んだ聲で鳴いた。

僕は、妻の顔を横から覗き込むことすら出来ないでいる。

それでも、拙い言葉を絞り出した。

「僕がこの世を去った後にもしも他に良い人と出逢えたら、梅之進のことは母や妹達に任せて家を出ても良いからな。」

雲がゆったりと流れて行く。

僕の心とは裏腹に、空は青く春の風が頬を撫でて行く。

梅之進は大人しく、僕の寝室で独楽遊びをしている。

その姿はあまりにも愛らしく、再び涙を誘った。

僕が妻にとって良い夫でなかったのは本当だ。

僕が単身決起した時なんぞは、気が狂う思いをさせただろう。

しかも僕という男は雅という妻がありながら、外で何人か女も作った。

本当に最低な夫だ。

だが、雅を愛していたのは本当だったのだ。

外で遊んだ理由は、妻には家を護っていて欲しかったからであった。

連れ添って歩くには、彼女は大切過ぎる存在だったのだ。

僕という男は、恥ずかしい程寂しがり屋で、孤独に弱い。

彼女の居ない夜を、彼女の代わりを傍に置くことで耐えていた。

だが、彼女を裏切っていた事実は変わらない。

僕が如何に自分勝手な行いをしていたかは、重々承知している。

「そう言って今更良い夫を演じても、許しはしませんわ。」

思った以上に冷たい言葉に、息が詰まった。

僕はただ妻の次に発するであろう言葉に怯え、地に這う蟻を見つめるしか出来ないでいた。

「私は高杉晋作春風の妻です。生涯をかけて梅之進を育てる義務があります。今更他の男の処に行っても先は知れていますわ。貴方の様に面白い男はこの世に二人と居ないでしょう。それにあの子を貴方の様には育てはしません。だって早死にされたら困りますもの。その為には高杉家を出ることは出来ませんわ。」

「ぷっ……はははっ……!何だ、僕はてっきりっ……!」

「てっきり?」

今度は笑い過ぎて、又涙が溢れた。

妻は僕の痩せた肩に手を添えた。

「心配しなくても大丈夫です。こう言ってしまったら傲慢かもしれませんが、貴方のことは私が一番理解しているつもりです。貴方はきっと、ずっと貴方を想い泣く私よりも、梅之進と笑って楽しく生きる私の方がおすきでしょう?だから私は、人から貴方のことを訊かれたら忘れたふりでもしますわ。誰かの前で思い出し泣きなんてしたくないもの。武士の家に嫁いだ以上、それくらいの覚悟はとうに出来ています。」

女という生き物は、男が及ばない強さを保持しているものだと、僕はこの時妻に教わった。

彼女は僕と出逢い、そして梅之進をこの世に生み出し育てる為に、生まれて来てくれたのだ。

「雅……」

「何ですか?」

もう骨と皮しか残っていない手では、彼女の手を包むには頼り無い。

彼女を力強く抱き締める力すらもう残っていない。

だが、今持てる精一杯の力で、彼女の温かな手を取り握り締めた。

「僕は、肝心な時に同士を救えなかった頼り無い男だ。しかもある同志を、僕は間接的に手にかけてしまった。」

先の決起の際に、犠牲になった朋の顔が浮かぶ。

あれから僕を呪い殺しに来ても良いものを、あの男は夢にすら一度も顔を出さないのだ。

僕の一生の内で一番大きな後悔は、彼を死に導いてしまった僕自身の業だった。

「僕という男は気性が荒く、誰にでも粗野に接してしまう。その所為で僕はいつも独りだった。孤独は、自らを弱い存在に追い込んでしまうんだ。その弱い自分を覆い隠す為に又粗野に振る舞って……愚かだろう?」

件の鴬が、隣の枝に跳び移った。

僕はその愛らしい姿に目を細める。

妻は隣に置いていた盆に手を伸ばし、湯呑に茶を注いだ。

「私には、貴方が孤独だとは思えませんわ。だって貴方は……誰にでも自分を晒してしまう処はあるけれど、決して人望が無い人では無いから……。」

妻は茶の入った湯呑を差し出して来た。

僕は冷えた両の手でそれを受け取る。

ほんのりと湯気が登り、そして消えていく。

一口それを口に含み、そして飲み込んだ。

「そうだな……誰かが言っていたが、先の戦で死んだ久坂は自然と人を惹きつけ、無意識的に大勢の人間の中心に立つ人間だったと。対して僕はその反対で、一部の人間を力尽くで引きずって、無理に事を成そうとしてしまっていたそうだ。」

再び喉に流し込んだ茶が、今度は喉に詰まってしまった。

僕は暫く咳き込み、身を屈めた。

妻が見兼ねて僕の湯呑を取り上げ、背中を擦ってくれた。

「まぁっ!どなたがその様なことを?」

「面白いだろう?それを間接的に言われた時は僕も腹が立ったが、確かにあいつには勝てる気がしなかったのも事実だったんだ。」

「そうなのですか……。」

妻は納得のいかないといった顔で、席を立った。

梅之進の様子が気になったのだろう。

二人が僕の周囲から音を攫って行くと、鴬の聲が耳に響いた。

『その様に煽てても何も出ないぞ。』

久坂がそう言っている様で、僕の視界はじんわりとぼやけていった。

本当は未だ心境は孤独の最中なのだ。

今迄、この孤独感は何者にも満たされたことが無い。

沢山の人と出会い、中には僕を慕ってくれた人も居た。

僕を愛してくれた人も居た。

それでも満たされないのだ。

『他人の言葉はそんなに信ずるに値しないか?』

「そうだ。妻も口ではああ言っていても、実際は本当に僕のことを忘れてしまうかもしれない。父も母も、『そら見たことか。だから言うことを訊けと言ったのだ。』と僕を罵るだろう。だってそうだろう?こんなに親不孝な息子はそう居ない……。」

鴬はこちらをちらりと見て、空高く飛んで行った。

又明日も来てくれるだろうか。




その晩は、懐かしい朋達と再会した。

「あっ!高杉っ!こっちこっち。」

「お前達何時から呑んでいた?」

「ずっとさ。」

それが夢だということは、最初から気付いていた。

死んだ筈の久坂が僕に向かって最初に手を振ったからだ。

「この中で一番の酒好きが遅刻したな。おい、そこの料理を取ってくれ。」

栄太の目線の先には、赤彌が居た。

赤彌は筑前煮が詰まった重箱を栄太に差し出した。

「赤彌……。」

「どうかしましたか?高杉さん。貴方も一緒にどうですか?ほら、ここ空けますから。」

赤彌が久坂との距離を空けた。

僕は言葉に詰まり、彼の顔を直視出来ずにいた。

僕を隣に招いたこの男は、先の決起の際に僕が間接的に殺してしまった男だからだ。

空けられた席に胡座をかいでいると、赤彌が小皿に料理をよそい、箸と共に差し出して来た。

僕はそれを無言で受け取る。

「高杉お前、態度が悪いぞ。」

「久坂……」

僕の態度に眉を顰めたのは、隣に坐していた久坂だった。

僕は、赤彌に対する後ろめたさと久坂に対する羞恥心で、返す言葉すら浮かばなかった。

赤彌を視界から外す様にして、差し出された料理と酒に口を付ける。

辺りは夜の様であったが星は無かった。

幾つもの提灯が空を舞い、闇を照らしていた。

不思議な光景だった。

櫻にはまだ早い季節の筈だが周囲の櫻は満開で、たまに風が花弁を攫う。

その光景は実に鮮やかだ。

何よりも死んだ筈の同士達が皆楽しそうに談笑している。

久坂、栄太、入江、赤彌、杉山、寺島、来島爺迄居るのには驚いた。

「おい高杉っ、お前らしくもない湿気た面だ。ほれっ、呑め呑めっ!」

「周布さん……」

周布政之助は、僕の最も信頼した藩の重臣だった男だ。

周布さんは、僕の空になった盃に酒を満たしてくれた。

周囲に涙を見せるのをようやく堪えていると、藩の元重臣達の中に長井雅楽迄もが参加しているのに気付いた。

長井が久坂と同じ空間で呑んでいることに我が目を疑った。

久坂は生前、長井を諸悪の根源と称しその地位を奪い、切腹に追い込んだ張本人なのだ。

僕が隣に坐る久坂を見上げると、彼は僕の視線に気付き微笑んだ。

「何を恥じている?」

「……。」

「お前はいつもそうだったな。」

「何の話だ?」

僕の問いに、澄んだ聲で彼は応えた。

僕はこの純真たる男に、えも言われぬ感情を抱いていた。

それは朋に対するそれとも言えず、かと言って妻に対するそれともまた違っていた。

あの感情を形容的な言葉にするのはとても難しい。

「お前は恵まれていた。将来の地位は約束され、両親や妹君達も元気じゃないか。それに可愛い妻も居るだろう?それにこうして酒を酌み交わす朋も居る。大切な人と一緒に居られることは、それだけで仕合わせだ。」

「ああ……」

親兄弟を早くに失い孤児になった久坂に言われると、自分が酷く情けなく思えて来る。

僕がずっと永い間感じていた孤独とは何だったのか。

それは独り善がりの思い込みなのではないかと……そう言われた気がした。

「お前にはやはり敵わないな。」

視界がぼやけていくのが解った。

それは僕の涙か、あるいは夢の終わりなのかは解らない。

「その言葉は、そっくりお前に返しておくよ。」

久坂の聲が、徐々に遠くなっていった。




明け方、件の鴬がまたあの老梅に留まっていた。

こんなにも目覚めの良い朝は久し振りだ。

だが、躰は相変わらず重い。

僕は躰を引きずる様に、縁側へ向かった。

「お前を……死んだ朋と重ねてしまっていたことを詫びるよ。僕を慰めてくれてありがとう。もう大丈夫だから、すきな処へ飛んで行くと良い。」

言葉に応える様に、鴬が鳴いた。

もう何日も僕の心を慰めてくれていた鴬は、その後この老梅に留まることは無かった。




それからひと月経った後、僕は沢山の者が見守る中息を引き取った。

最期に一言、世話になった人達に「ありがとう」が言えて良かった。

死の間際に、今更ながら家族の本当の想いに気付くことが出来たことが嬉しかった。

人前では滅多に泣かない父が、僕の為に流してくれた涙を大切にしよう。

優しい母のことは、妻が何とか励ましてくれるだろう。

そしてその気丈な妻が、精一杯紡いでくれた言葉を信じよう。

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