失われたプールと水の妖精
午後3時。削岩機が静かになり、現場に一瞬の静寂が広がる。かつて白く輝いていたプールは、今では瓦礫と化し、青空の下で静かに解体されている。コンクリートの破片が積み上げられ、かつてあったモニュメントは色褪せ、誰にも語られることなく鉄くずとして処分されていく。
かつて僕は泳げなかった。だからいつもフェンス越しに外から眺めるだけだった。惨めだったけれど、なぜかその場所が好きだった。今では水を失ったプールに、奇妙な同情を覚えている。ひび割れた底を見下ろしながら、かつてここで響いていた歓声を思い出そうとする。
人々は言う。「コロナのせいで仕方なかった」と。でも僕は知っている。それだけじゃない。裏には予算や開発計画、大人の事情があるのだ。利便性の名のもとに、何かがひっそりと消されていく。
風の中で、耳に微かなノイズが届く。電波の乱れのような、言葉にならない響きだった。そこへ中国人観光客が通りかかり、僕はその声だと考える。
だが数秒後、耳元にまた声が届く。はっきりとした響き。振り返ると、そこには柔らかく長い髪の少女が立っていた。濡れた瞳の奥に、何か懐かしいものが揺れている。
彼女は話している。けれど僕はその存在に干渉せず、スマートフォンで崩れてゆく風景を撮り始める。白い壁面が削られ、ひびが広がり、飾りが落ちていく。
「美しいな」と僕は言う。
その言葉に、少女がふと顔を上げて日本語で語り始める。
「楽しかったわ。あの頃は本当に。たくさんの子供たちがここで、歓声を上げて泳いでいたの。私は水として、それをすべて受け止めていたの。」
かつてこのプールが抱いていた記憶と、今そこにいる妖精が静かに重なる。彼女は、忘れられた水の精だった。
僕はもう一度、彼女を見つめる。
「そうだね。そして僕は、今ここで君を見ている。」
白いプールが灰色の瓦礫に変わるその一瞬に、僕は確かに立ち会っていた。
消えゆくものの中で、忘れられない何かが、確かにそこにあった。