第1話 天は我を導いている
それは、その時だった。
頭皮で生まれた汗の粒は、ボサボサに伸びた髪の毛の根元を通り抜けていく。さらに、耳元を伝うと鼻の頭で水滴へと変わっていった。
水の分子が分裂していくと反動で融合する。そんな瞬間が繰り返されて地面に到達すると、はじけ飛んで消える。
「「ハッ!!」」
気がつくと、俺は意識が目覚めたことを自覚した。
(なぜ……いや、どうした?)
それが、今の俺の心を言葉にしている。
目の前では、真っ赤な血糊が汗と混じり合って滴っていた。
これは……まさかケチャップではないよな?
いや、違うか。
この状況は……いや、いったい何が起こっている?
俺の両手は後ろで縛られ、胴体は台の上にうつ伏せにされている。首だけがかろうじて動かせたが、身体全体は身動きが取れなかった。
どう考えても、まともな状況じゃないだろ?
「「ギュウガラ! アレスタ! ゼゴ!!」」
ほら、横では得体の知れない言葉が鳴り響いている。
「ま、待て待て。アジトから金は見つかっただろ!? それで勘弁してくれ!!」
さらに、聞き覚えのある言語も聞こえていた。
「「「グゥギャャャャャャャア!!」」」
その時、俺の頬には大量のケチャッ……いや、血糊がべったりと降りかかっていき、次の瞬間には、表情を失ったブタの頭が転がっていた。
ブタ。
ブタだ……
それも、牙が立派なブタだった。
(ブタの顔って、何か美味しい料理ってあったっけ?)
いや……腹が減っていたので、肉の日を連想してしまった。
次の瞬間、誰かに髪の毛を掴まれ、顔の向きを強引に変えられている。さらに、その先にはクッさいゴブリンのような緑色の顔が迫っていた。
「「バザイ!! ウゴ!! バタイ!!」」
奴の吐息は、クサヤを通り越してシュールストレミングと並ぶほど強烈で、何度も咳き込んで意識が飛びかけると、あとの半分は危機感で満杯になっていた。
だから、なんとなく分かっていた。
いや、それは違う。これは確実に処刑場だ!
俺の頭も吹き飛ばされて、サッカーボールのように蹴り飛ばされるのか?
そんな光景が頭の中で繰り返されると、脳内では大量のアドレナリンが血管を駆け巡り、走馬灯のように今までの記憶が復活していった。
**§**
そう、俺の名は高橋公平、36歳。
別名コード戦士。
夢は、サンフランシスコ近郊に家を構え、ペットに犬二匹と猫一匹を飼うこと。
朝起きると、ケールとセロリを加えたブルーベリーのジュースを飲み、マンションのポーターに挨拶して地下駐車場へと向かう。
最新型のEV自動車に乗り、自動運転に文句を言いながら巨大な円盤型のオフィスへ出社すると、新バージョンの映像のために撮影を受ける。
そんな未来を描いていた。いや実力はあったはずだ。
——だが現実は違った。
気がつけば、大量に絡み合うスパゲッティのようなコードの山に埋もれ、アホの思考をシミュレートして、美しさの欠片もない文字列をひたすら紐解く日々。
横文字が並ぶ意味の繋がらない会話から意図を読み取り、プログラミング言語を知らない連中に小学生でも分かる説明をしても、馬の耳に念仏のような日々。
「皆で戦いましょう!」と一致団結した戦士たちは、しだいに精神科という救護所に運ばれていき、結局は孤独に戦う日々。
そんな俺も、中堅と呼ばれるようになる頃——
それは、もう数十時間の稼働の最中だった。
いつものように素人の書いたコードを解析しながら、生成AIを稼働させつつ、別チームが作ったボロボロのシステムを修復していた。
長年のストレスのせいで続けていた、肉、油、肉、ラーメンという暴食が祟ったのか、突然、心臓がストライキを起こして暴走していったのだ!!
「バーガークイーン三つくらい、朝食だろう……」と、今までの食生活に言い訳をしながら気が遠くなる。
そのあと、なぜか銀河の中を漂っていた。
ああ、逝ってしまったか。
悔いの残る人生だったが、やれるだけのことはやった。
人は、誰しもいつか死ぬ。
だが、できれば、トラックにひき殺されて、どこかの異世界で生まれ変わって、エルフとか猫耳とかに——
*
「「「はっ!!!」」」
俺は、気がつくと復活していた。
どこかで仰向けに寝ていた体を起こすと、台座の上にいるのが分かる。
周囲には何かの空間が広がり、床や壁にはびっしりと見知らぬ文字や魔方陣が描かれていて、それらはゆっくりと鼓動するように光っていた。
「俺は……本当に異世界転生したのか?」
ただ、服装は元のままで、体つきも今までと同じだった。
「つまり転生ではなく召喚された? だが、魔法の主は見当たらない。これはどういうことだ?」
どうやら、ここは何かの神殿らしいが、周囲には誰一人いなかった。
「まあいい、とりあえず外に出てみよう」
そう呟きながら、光が差し込む方角へ向かうと、そこには出入り口があり、その奥には遺跡が広がっていた。
しかし、そこにも人の気配は感じられない。
「焦るな、俺。まずは情報分析だ。状況から考えるに、無人の神殿がなぜか稼働して、俺が身体ごと引っ張られた……そんな感じだろうか?」
辺りを歩いてみるが、ただマチュピチュのような廃墟が広がるばかりだった。
「とにかく、転生モノのお約束を試さないとな。ステータスオープン!」
俺は、手を前に掲げて例の言葉を放つが……何も起こらない。
「ひょっとして、やり方が違う? ステータス表示! コマンド画面出ろ! 何でもいい、とにかく出てくれ!」
何度も何度もポーズや台詞を試してみるが、全く出る気配はしない。
「まあいい、魔法はどうだ?」
全身全霊を集中させ、あらゆる力を込めてみるが……魔力? そんな能力は感じなかった。
「「ファイヤーボール!!」」
当然、詠唱しても魔法など発動しない。
おそらく、端から見ればただのイタいオッサンだろう。
「まあ仕方がない。まずは飯だよな、飯がないと人は生きていけない」
軽く辺りを見渡すと、遺跡以外には大自然が広がっている。
「まずは見晴らしの良い場所で状況確認。次に水場を探して焚き火を作り、最後はタンパク質の摂取。準備ができたら森でダークエルフ探しだ!」
俺は、山肌に立てられたこの遺跡の最上部に立つと、一望できる巨大な森の中から人間への手がかりを探し続けた。
「おお、発見! 街道が見える!」
それは、森の奥にある湖の手前にあった。
「とにかく腹が減るまでが勝負だ! 俺は駆け抜けるぞ!」
それからは、大きな腹を揺らしてのマラソンが始まる。
俺の心のアンチは(マラソン? 違うね、これはトレイルランニングだよ)と呟くが、そんなことはどうでもいい。
ただ気になったのは(俺、運動いけるんじゃね?)という自信だった。本来なら10メートルで息が上がるはずが、いまだに全速力で走り続けられていた。
体がこの世界に適応したのか、それとも元の体がこの世界の基準より強かったのか。どちらかは分からない。
だが、この時の俺は、まるで鉄人になったような気分だった。
「世界が俺を求めている。いや……世界が俺を中心に動いているのだ!!」
重々しい体つきながらも、軽々と岩を飛び越え、木々をすり抜けていく。
やがて森を抜けると大きな崖が広がり、その下には街道が見えるが「だめだ、ゴブリンに追いつかれた!」という声が聞こえている。
そこには、立派なピンク色の馬車を中心に、十人ほどの全身フルプレートの騎士たちが、何十ものゴブリンに取り囲まれていた。
「やっぱりあるじゃないか! 定番の姫様との遭遇イベント!」
俺は、定番ルートに乗るため、崖から大きくジャンプする。
「「姫様を守れ! 防衛陣形を取るぞ! 俺たち近衛兵の意地を見せろ!」」
彼らは抜刀すると、ゴブリンに向けて剣を構えていた。
「お待たせしました。私は通りすがりの……勇者、です」
俺は空中で縦に三回転したあと、決めポーズをつけて着地をする。
我ながら、完璧な演出である。
目の前には、ボロボロの槍や剣を構えるゴブリンの軍勢。背後には、屈強な近衛兵三人が味方として剣を構えていた。
その後ろの馬車には、美少女の姫様が乗っている。きっと何かの魔の手に追われて、逃げ延びている最中なのだろう……
だから、彼女を救うことで俺は『勇者』に変わる。
最高じゃないか、天は我を導いている。