エピローグ
白と黒に染まった世界の中で、永久は眉間に皺を寄せて息を漏らした。上を見上げれば白い空が広がり、俯けば辺り一面黒い泥に覆われていた。
身体中に黒い泥がこびりついて、気を抜くと沼の底へ引き摺り込まれそうだった。
黒い泥に意識を向けると、様々な声が聞こえてくる。
『……あの女が憎い』
『……浮気なんて許せない』
『私のあの人を返して!』
ヒノエサマを信じて、憎しみを募らせた人々の呪いが黒い泥になって、いつまでもこびりついている。
それでも泥の量は日に日に減っていた。前は泳がないと全身飲み込まれるような高さだったのに。今は立った状態で腰くらいの水位だ。
呼吸はできても、泥から聞こえる呪いの声が、永久を苦しめる。
「ぼくは、ぜったいに、みことさんから、はなれない」
眠るたびにこの世界にやってくる。泥の底に沈んで目覚めなくなったら。
長いこと眠り続けて、目覚めた時には命が死んでいたら。
そんな恐怖を感じながら、強い意志を持って堪える。
「だいじょうぶ。やくそくが、あるから」
目覚めたら命に茶を淹れる。眠る前に約束した。「約束を守らなきゃ」と思うと泥から聞こえる声が小さくなる。
もしも、命が刺されていたら。この苦しみを味あわせていたかもしれない。耐えられなかっただろう。だから、自分で良かったと心から思う。
「……とうこは、ぼくを、ほめてくれるかな」
沓己が大好きだった。
ずっと一緒にいられると思ってた。
けれど、人の一生は短くて。
天寿を全うしたのだと言われても、沓己がいないことが寂しくて。
起きているのも苦しくて眠りについた。
眠っている間は、沓己の夢を見られたから。側にいられる気がして。
けれど夢の中の沓己は、いつも同じ顔しかしないから。
もっと沓己が知りたくて、沓己の娘を探して……。
いつか、命を失う日が来るだろう。
きっと、また苦しむ。
でも、一度大切な人を『喪った』から。
いつか別れる日が来ると覚悟して、今を悔いなく生きようと思える。
永遠のように長い時を生きてきた永久にとって、『限られた時間』はとても短い。いつか終わるとわかっているからこそ、輝くように尊く感じられる。毎日が愛おしい。
沓己は別れを教えてくれた。
命はこれから何を教えてくれるのだろうか。
きっと沓己では教えられなかったことだろう。
ふと彰の姿が思い浮かんで、嫌な気持ちになった。
命の大切な人。悪い人間ではない。命を守ろうとしている。
もしも、命と彰がつがいになって子を成したとして。自分はペットとして家族のままでいられるだろう。
命の子や孫の成長を見守って暮らす日々。
……悪くはないはずなのに、嫌だなと感じる時もある。
このモヤモヤは、沓己に感じたことはない。
なぜこんな思いを抱くのか。わかる日が来るのだろうか。
そんな事を思いながら、ゆっくりと目覚めていった。
刺されて一週間がたった。表面的にはいつも通りに振る舞っているように見えているはずだ。
命を心配させたくないから。笑っていて欲しいから。今も眠るたびに呪いに蝕まれれていることは言わない。
ただ、もう大丈夫かなと思えるようになってきたから……。
店じまいに門を閉めにいく。奥多摩の山々が橙色に染まる黄昏時。この時間になると暑さが少し和らいだ。夏の終わりなのだろう。
「永久!」
命が呼ぶ声が聞こえて、そちらに視線を向ける。縁側から命が手招きをしていた。
ゆっくりと近づくと、ガラスのコップに入った紅茶が並んでいることに気づく。
「今日はここでお茶にしましょ」
「それは、いいね」
縁側に腰を下ろして、命からコップを受け取る。指先がひんやり冷えて気持ちよかった。
冷たい茶も悪くない。そう思いながら口に含む。
「美味しい。これは何のお茶?」
「それはキャンディ。こっちにウヴァも用意してるわよ」
ウヴァを口に含むと、熱い時より香りが優しく飲みやすく感じられる。
「……僕は、こっちのきゃんでぃの方がいいな」
「昔の私と同じことを言ってる。……思い出したの。お父さんがいなくなった前の日、縁側で一緒に紅茶を飲んだの。その時、キャンディとウヴァを飲み比べて、私はキャンディの方が良いって言ったの」
「そうなの?」
「そう。お父さんは『自分の『好き』を大切にするんだぞ』って言ったのよ」
「自分の『好き』を大切にする……か。うん。それは良いね」
命が好きだ。命が淹れる紅茶もプリンも好きだ。だから大切にする。
そのついでに、命が好きな物も大切にしよう。
視線を命に向けると、寂しそうに微笑んでいた。
父の事を思い出して辛いのだろうか。
死んでいると告げたら悲しむだろうか。告げるのが怖い、とも思う。
けれど、命が悲しんだら、側にいて自分が慰めよう。
自分だけでは足りなかったとしても、頼れる人もあやかしも、悔しいけれど増えた。
だから、もう大丈夫。きっと。不安はあるけれど……。
「……まいっか」
「どうしたの?」
「命さんの真似をしたんだよ」
グラスを置いて、命の手に手を重ねる。じっと命の目を見つめて告げた。
「命さんは沓己の話を知りたがったよね」
「そうね。でも、永久が嫌なら、無理に話さなくても……」
「ううん。今から話すよ。でも、一つだけ約束して。沓己の話を最後まで聞いても、明日も僕の淹れたお茶を飲んでね」
「もちろん。良いわよ。約束」
命と永久は小指と小指を絡めて微笑み合う。
「僕が昔、一番大切だった人の話を、今、一番大切な命さんに語るよ……」
夕日が二人を照らし出す。日が沈み、月が上り、月明かりが二人を照らすまで。ゆっくりと語り続ける。
決して離れないと手を掴んだまま、命の驚きも、悲しみも、全部受け止めて。
命が真実を知っても、二人の約束は果たされた。毎日永久が淹れたお茶を命は飲み続ける。
明日も、明後日も、明々後日も。
夏が終わり、秋が来て、冬になっても。
二人はあかしやで、客をもてなす。
いつまでも、いつまでも。
「奥多摩古民家茶カフェあかしや〜座敷狐とおもてなし〜」終わり




