6話
日が暮れ始めた頃に、宮本は意識を取り戻した。ゆっくりと起き上がってぼんやりと室内を見回す。
次第に記憶が戻ってきたのか、急に青ざめた。
「あ、あの男の人は? わ、私、刺してしまって……」
「大丈夫だ。傷は浅くて大事はない。ただ、念の為病院にいって傷を診てもらってる所だ」
実際には永久は目の前でうずくまっているが、宮本には見えないので、彰にはそう説明するしか無かった。
「何で、あんなこと……」
「きっと、悪い物が憑いていたんですよ。心が参っていたのではないですか?」
命はそう言いながら、人数分の紅茶を淹れて、一番最初に宮本に渡す。
「紅茶にはリラックス効果もありますから、どうぞ飲んでください」
「え……あ……」
最初に怯えるように彰を見て、その後に命に視線を移し、まるで恐ろしいものに触れるような手つきでカップを受け取る。
恐る恐る口にしたのを確認して、命は問いかける。
「口に合いましたか? 癖のないディンブラを淹れてみたんですが」
「……ええ。美味しいわ」
命はその返事を聞いてから、同じ紅茶を榊に渡した。
「先生。飲んでみてください。その紅茶なんのお茶かわかりますか?」
「飲まなくてもわかるよ。こんな強烈な匂い忘れるはずもないですよ。ウヴァだろう」
カップに入った紅茶を嗅いで眉を顰める。お茶に関しては素人の榊でも、飲まずにわかるものが、宮本にはわからなかった。
宮本の顔色がさらに悪くなる。
「宮本さん。インフルエンザの後遺症で、味覚や嗅覚に異常があるのではないですか?」
「ち、ちが……!」
慌てて否定しようとして、口をつぐむ。まるで子供のように怯えていた。彰は驚いたように声を上げた。
「知らなかった。宮本さんがそんな深刻な悩みを抱えてたなんて。話してくれても……」
「いや、です。話をしたら、私、仕事を続けられない、ですよね。だって、紅茶の味も香りもわからない人間が、お茶を売る、仕事なんて、続けられない。……クビにしないでください」
「クビになんてしない」
彰がはっきり言い切っても、宮本は怯えた顔をしたままだった。命は言葉を続ける。
「オンラインの在庫を管理する仕事なら味覚が必要ないとはいえ、三ヶ月以上誰にも気づかせずに仕事をしてきたんです。それだけ宮本さんが優秀だってことです。でも、苦しかったですよね。誰にも言えなくて」
宮本の瞳からポロリと涙がこぼれ落ちる。同時にスルスルと言葉が滑り落ちる。
医者には通っていて、後遺症はすぐに治ると言われていた。それなのになかなか治らなくて、ずっとこのままなのではないか。仕事を続けられなくなったらどうすればいいのか。職場の誰にも気づかれたくない。
後遺症への不安、将来への不安、隠し事をしている重圧。いろんな精神的な負担が数ヶ月続いて、心身が弱っていたのだろう。そこにヒノエサマが憑いてしまった。
美和子は労わるように声をかける。
「感染症の後遺症を専門に診てる病院を紹介します。そちらに行ってみるのはどうですか? 心の疲れが体調に影響を及ぼしている場合もありますし」
「宮本さん」
彰に呼びかけられて、宮本は怯えるように震える。まっすぐに見つめて口を開いた。
「俺は宮本さんにこれからもうちの会社で働いてほしいと思っている。でも、無理はして欲しくない。医者と相談しながら、無理のない状態で働き続けられるようにしていこう」
「……社長。ありがとうございます」
「今日は疲れただろう。帰った方がいい。車できているから送ろう」
「……待ってください」
宮本は震えるような声を上げて、命へ視線を送る。ぐっと唇を噛み締めて、深々と頭を下げた。
「言い訳かもしれないけど。本当にあんなことするつもりなくて……。でも傷つけてしまったのは確かだから。ごめんなさい」
「……宮本さん」
「私、葛木さんが羨ましかった。私は味覚がなくなって、仕事が続けられなくなるかもしれないって怖かったのに。葛木さんは自分の店を初めて、社長に信頼されてビジネスパートナーとして認められて。……狡い。何か大きなミスをして、社長に愛想を尽かされてしまえばいい。なんて、どこかで思ってた。最低だよね」
「私のことはいいわ。宮本さんは、病気で辛くて、誰にも言えなくて、苦しんで。そのせいで魔が刺しただけよ。私は気にしてないから」
命への妬みが、無自覚なうちに彰と命の縁を切る方向に働いた。それでヒノエサマに憑かれてしまったのだろう。それが命には可哀想に見えた。
そこで宮本は頭を上げて、切実な顔で訴える。
「私が、刺してしまった人。葛木さんの店の店員よね。どこにいるの? 私、謝らないと……」
「今日はいいです。ここにはいませんし。休んで、心が落ち着いたら、また別の日にうちに来てください」
「……そう。なら、そうするわ。でも、伝言だけでも伝えてほしいの。申し訳ございませんでした」
永久がその場にいることを知らないのに、命に向かって宮本は頭を下げた。
そのまま彰に促されて店を出ていく。その後ろ姿は酷く草臥れていた。
「私も、出直した方がいいかしら?」
美和子が立ち上がってそう言うと、命は慌てて声を上げる。
「待って、もう一杯だけ、私の淹れたお茶を飲んで行って」
色々なことがありすぎて、命もいっぱいいっぱいだったが、せっかく仲直りできるきっかけができたかもしれないのに。このまま今日が終わってしまうのは怖かった。
何を淹れようか考えながら、何を話そうか考える。けれど焦ってしまって思いつかない。
そんな命を気遣うように、永久が声を上げた。
「命さんのお母さんの名前が美和子さんなら、お父さんの名前はなんていうの?」
その声は美和子には聞こえない。榊は困ったような笑みを浮かべて口を開く。
「私はこの店の常連の榊と言います。お嬢さんにはいつもお世話になってます。お名前は?」
「こちらこそお世話になっています。葛木美和子と言います」
「……いい名前だ。嬢ちゃん。お父さんの名前はなんて言うんだい?」
「お父さんの名前は真」
「へぇ。嬢ちゃんの名前と一文字違いかい」
「私の名前とも一文字違いですよ。美和子と真から文字をとって、命とつけたんですから」
「そうなの? 初めて聞いた」
命は驚いたような声を上げる。永久も驚いたように首を上げた。
「……美和子と真」
永久の声は嬉しそうに弾んでいる。その呟きは美和子には聞こえない。
それでも尻尾を振っているのが命には見えてしまうから、思わず口元に笑みが浮かんでしまい、気持ちが緩む。
「命さん。お母さんに命さんの夢を話してみたら? この店にお父さんが来るのを待ってるんでしょう?」
そう言われて、命は怯んだ。父に会いに来てほしい。その願いを母に否定されたら、せっかく仲直りできそうだったのに、ダメになってしまうかもしれない。
それでも、永久が「大丈夫」と呟くから。勇気をもらった気分で思い切っていうことにした。
父が好きだったディンブラの味を思い出しながら、近いディンブラを探して淹れる。お茶を淹れるとき、一番心が落ち着く。そのまま母の顔をみないで告げた。
「……この店が有名になって、いつかお父さんが自分の意思で、この店に来てくれたら。そう願ってこの店を始めたの」
命の声は震えていた。美和子の反応を伺うこともできず。ただカップに紅茶を注ぐ。カップを美和子の前に置いたとき、初めて母の顔を見ることができた。
その顔は少し寂しそうに見えた。
「命は、まだあの人を信じてるのね」
「当たり前だよ! だって、あんなに優しいお父さんが、私達を捨てるわけないから」
「……そうね」
「え?」
昔、喧嘩した時は、母は「自分達を捨てて逃げた」と言い切っていたのに。
戸惑う命を見て、美和子は苦笑いを浮かべた。
「あの人と結婚するときに言われたの。自分はあやかしが見える人間だから、どこかで事故に巻き込まれて、帰って来られなくなる日が来るかもしれない。その時は、俺は家族を捨てた薄情者だと思ってくれていいって」
「え……? お父さんが言ってたの?」
「そうよ。私だって、あの人の帰りを信じていたかった。でも、とにかく命を守って生きてかなきゃ。あの人を頼れないんだって。嘘でも私達を捨てたんだって、思わなきゃって……」
美和子は悲しげに唇を震わせた。その姿を見て、命は思わず美和子に抱きつく。
「……お母さん。お父さんのこと、信じてくれてたの。嬉しい」
「まだ子供だった貴方が、大人になっても諦めていないなんて。私も嬉しいわ」
日が落ちて、月が上り始める宵の口。暖かな照明に照らされた命と美和子は仲の良い親子のようにそっくりの笑顔を浮かべていた。
母と娘が微笑み合う姿を、榊は黙って見守る。永久も嬉しげに尻尾を揺らした。
「お母さん。またいつでも店に来てね。またおもてなしさせて」
命の言葉に嬉しそうに頷いてから、美和子は帰っていった。




