5話
奥多摩湖の中央付近に『麦山の浮橋』と呼ばれる場所があった。湖に浮いてる橋で、手すりがついていてもグラグラと揺れる。その不思議な感覚が人気の観光スポットで以前は多くの人がきていた。
しかし、今は水位の低下を理由に通行止めになっており、本来人が入ってはいけない場所だった。
そんな浮橋の上に、宮本はぽつんと立っていた。黄昏色に染まる湖の上で、不気味な雰囲気を湛えている。
湖の岸辺から遠目で宮本を見て、永久の目つきが鋭くなる。
「河童が言ってた『上流からなんか嫌なもんが流れてくる』ってあの人から流れてる。やっぱり憑かれてるんだ」
今の永久は人の姿に変身している、何も知らない人から見たらただの美青年だ。だが、永久のことを知っている命だからこそわかる。いつもより表情が険しい。よほど危険な状況なのだろう。
「あんな場所にいたら危ない。まずは刺激しないように岸に誘導しよう。俺が言ってくる」
初対面の永久や、嫌われている命より、彰の方が宮本の信頼を得られる。彰が浮き橋の入り口から、声をかけた。
「宮本さん! 大丈夫か?」
「……社長?」
宮本はびっくりしたような声をあげたが、ゆっくりと岸に向かって歩いてくる。宮本を刺激しないように隠れて見守っていた命からは、詳しい様子はわからない。
じりじりと見守ると、浮き橋を渡り終え岸へとたどり着いた。彰が慌てたように駆け寄る。
「ここは通行止めだよ。危ないだろう。どうしてここに?」
「どうしてって……社長の方こそ、どうしてここに?」
普通に会話できているように見えた。だから大丈夫かと思って命も近づく。
「……宮本さん」
「葛木さん。……まさか、社長を呼んだの?」
宮本は彰と命の顔を交互に見る。みるみると宮本の顔色が変わった。
命を鋭く睨みつけると、のろのろと命へ向けて歩み出す。
「佐々木さんが心配してたの。急に宮本さんがいなくなったって聞いて。それでみんなで捜索して……」
宮本はぎゅっとコンビニのビニール袋を両手で握りしめて、俯いたまま無言で歩く。その様子は命の説明も聞こえていないかのようだった。
宮本は俯いたまま一歩づつ命に近づいてきて、ぴたりと足を止めた。命が一歩踏み出そうした瞬間、横から腕を掴まれて引っ張られる。よろめきながら横に倒れる寸前、命の視界に信じられないものが映った。
宮本がいつのまにかビニール袋からカッターナイフを取り出して、走りながら突き出してきた。それを永久が体で受け止めている。
そこでやっと気づいた。腕を引いたのは永久で、命を庇ったのだと。
カッターナイフで刺された永久は二、三歩よろめいて後ろに下がったが、なんとか踏みとどまって立っている。宮本は自分で刺したのに、誰よりも驚いた顔をしていた。
「え……何で? わ、私、そんなつもりじゃ……」
顔色が真っ青になり、体がふらつく。そのまま目を瞑ってゆっくりと倒れた。慌てて駆け寄った彰が受け止める。気を失った宮本の体から、黒いモヤのようなものが宙へ浮かび出す。
永久は変身を解いて妖狐の姿に戻ると、手のひらを振るって炎を生み出す。その炎が黒いモヤを焼いた。
そこで糸がきれた人形のように、永久の体が傾く。慌てて命は駆け寄った。
「永久! 怪我は大丈夫?」
「……傷は浅いよ」
買ったばかりの真新しいカッターナイフが、服を貫いて肌に傷をつけている。傷口は浅く切れただけに見える。ただ、傷口の浅さとは反対に永久の顔は真っ青だった。命が永久の体を支えてようやく立っていられるくらいだ。
「ひとまず車に。あかしやに運ぼう」
彰の声かけで、命も正気を取り戻し、なんとか支えて歩く。
車の助手席に宮本、後部座席に命と永久が座って、車が発進した。永久は寝そべりながら苦しそうに顔を歪めている。
「……傷は、たいしたこと、ないんだ。でも、あの人ヒノエサマに、呪われていたから。その呪いが、傷に障る」
「呪い?」
「男女の縁を切る。縁切り。命さんと、縁を切って欲しかったんだよ」
その言葉でハッと気づく。彰と命の縁を切る呪い。それを宮本が願っていたとするなら。
「……このまま呪いに、飲み込まれたら、僕と命さんの縁が、切れてしまう。それは、嫌だ」
「私も嫌よ。永久が苦しむのも嫌。どうしたらいいの。私に何ができるかしら?」
「命さんは、僕の側にいて。離れないで。あかしやに帰ろう。あの家に二人でいたら、大丈夫だから……」
そこまで言って、永久は苦しそうに目を瞑った。
「……永久」
命は永久の体をぎゅっと抱きしめて、心の中で願う。
お酒で酔っ払った時、永久は『ずっと、ずっと一緒だよ』と繰り返し言っていた。あの切実な願いを知っているからこそ苦しい。命も永久とは離れたくない。
命は絶対に離れないと強く願い続けた。
奥多摩湖からあかしやまで、車ならそう遠くないはずなのに、永久のことが心配でひどく長く感じた。
あかしやに着くと、彰が宮本を抱えて入る。あかしやで美和子が用意していた簡易な寝所に寝かせた。美和子が脈拍や呼吸で様子を見る。
「熱中症にもなっていないようね。気を失っているだけだわ。意識が戻らないなら病院に連れて行った方が良いけれど」
「しばらくここで寝かせましょうか。それより……」
彰が振り向いて店の中央を見る。そこには狐の姿に戻った永久が苦しそうに寝ている。あかしやに戻ってきた榊が、永久の側で難しい顔をして立っていた。
「狐が病気になっても、診る医者なんていないだろうに、どうしたらいいんだかねぇ」
「……病気じゃない。呪いだよ。この家で休めば、治る。この家は、僕にとっての、聖域だからね」
「御神木を使った家なら確かに聖域らしい。不浄な呪いをお清めかねぇ。じゃあ、狐は神の使いかい?」
「……黙って座ってなよ、爺さん」
憎まれ口を叩く所はいつも通りで、命は呆れながら永久の隣に座った。
三人の視線が永久に向いているので、美和子も釣られたように見る。
「そこに、誰かいるの?」
彰が説明すると、美和子の顔色が青くなる。見えないはずの永久に向かって頭を下げた。
「娘を助けてくれて、ありがとうございます」
「命さんを守るのは当然だよ。僕は命さんの家族だからね」
永久の声が美和子に聞こえてなくてよかったと、命は小さくため息をつく。
あやかしを家族にしたなんて、どう説明すればいいのかわからない。
「浮き橋の上にいたあの人を見た時、すぐにわかったよ。憑かれてるな、命さんが危ないって」
「わかってたなら、どうして……」
「だって。命さんと約束したから。人間は燃やさないって。ヒノエサマを燃やしたら、宮本って人も燃えてしまうから。体から出てくるまで、命さんを守らなきゃって思って。……命さんが刺されなくて、よかった」
「……永久」
永久が約束を守ってくれたのは嬉しい。だが、自分の願いのせいで永久が傷ついたのだと知って、命は申し訳ない気持ちになる。
「ありがとう。約束を守ってくれて。でも、永久のことが好きだから、自分を大切にしてほしいわ」
「……命さんのお願いは、いつも、難しいね。でも、できるだけ、頑張るよ」
永久は少しだけ頭を上げて、命の体に頬を擦り寄せた。ペットが飼い主に甘えるような仕草が愛らしく。けれど、心細そうにも見えて。せめて痛みが和らぐようにと願いを込めて、命は永久の頭を撫でた。




