2話
立ち去る母の背を呆然と見つめている間に、佐々木と宮本は店を出て行った。
「……命さん」
永久が慰めてくれようとしている気配は感じられたけれど、それを直視できなくて、二人が座っていた席に向かう。
まだ飲みきってないダージリンとルフナを、ぼんやり片付けながら心の整理をしようとした。
その時、強烈な違和感を感じた。
慌ててルフナを入れたポットの蓋をとる。
「……間違えた」
「どうしたの? 命さん」
命はキッチンに戻り、茶葉を保管する棚を見て気づく。ルフナを入れるつもりが、隣にあったアッサムを淹れてしまっていた。
ルフナとアッサムでは見た感じの色は似ていても、香りも味も全く違う。こんな間違い、宮本が気づかないはずがない。なのになぜ間違いを指摘しなかったのだろう。宮本の性格なら、遠慮して言わなかったなんてことは考えられない。
突然現れた母の事を一時忘れて、宮本がどうして何も言わなかったのか考える。考えてもわからなかったが、現実から目を逸らしたおかげでやっと呼吸ができた。
「命さん。宮本って人の言ったことは、あまり気にしない方がいいと思うよ」
「……永久。ありがとう」
俯いて食器を洗いながら頷く。永久の優しい言葉が沁みて、少し落ち着いてきた。
「大事なことは、命さんのお母さんに誤解させてしまったことだよ。そっちを気にした方がいいと思う」
「そう、ね」
「牧野さんに連絡して、直接聞けばいいでしょ」
榊がひょいと話に入ってきて、命は慌てて顔を上げる。
「あの人がいくら嬢ちゃんに甘いって言ったって、自分の会社が傾くような事をする人には見えないね。社長ってのは、会社で働く社員全員の生活を背負ってるんだ。そんな甘ちゃんにできる仕事じゃないよ」
「そう……ですね」
彰に今度聞いてみようと思いつつ、先ほどの母の様子を思い出す。
たぶん、彰に住所を聞いたから、自分に会いにきてくれた。娘に興味がなかったわけじゃない。それなのに、失望させてしまった。
そこで、榊がすまなそうに首を傾けた。
「嬢ちゃんも大変そうだねぇ。そんな時に悪いが、ちょっと聞いてもいいかい?」
「はい。なんでしょう?」
「さっき『ヒノエサマ』の話をしてただろ。それってこの写真かい?」
そう言って榊は自分のスマホを見せた。SNSのアカウントに先ほどと似たような投稿が写っている。
「え……榊先生、SNSやってるんですか?」
「現代の怪談や都市伝説も民俗学の研究対象ですからね。一応、情報収集のためにアカウントは持っているんだよ。まあ、普段はあまり見てなくてねぇ。さっき聞いてから調べたんだよ」
「そう、ですか」
「それで、佐々木って人に地図を見せられてただろう。どの辺りなんだい?」
命は地図アプリを開いて、このあたりとさし示す。榊は眼鏡のずれを直しながらじっと見つめた。
「……そこは、何年も前に行ったことがあるよ。もう誰も行かなくなって寂れた古い祠だ。近隣の人に聞き込んだが、何を祀っていたのかも知らなかったよ。それが、今やパワースポットねぇ……嫌な感じがするよ」
「嫌な感じがするね」
永久まで頷き始めたので、命は問いかける。
「何が問題なの?」
「祠があったということは、人が何かを信仰していた。そこに神様がいたんだ。でも、誰も祀らなくなって変質した。もしかしたらあやかしになったのかも」
「神様があやかしになるの?」
「柳田國男が唱えた『零落した神々』の説だね。それを否定する学者もいるし、あたしも否定したい所なんだが……。あやかしが実際にいるものとなると、話は変わってくる。おい、狐。祀られなくなってあやかしに落ちた神が、また祀られるとどうなるんだい?」
榊の問いかけに、永久は渋い顔をした。
「誰も祀らなくなってあやかしになっただけなら、弱い。でもあやかしは人に『存在する』と信じられるほど強くなるから、また祀られると危険だね」
「やっぱりそうかい。私も噂を聞く限りだけど、パワースポットだなんだって騒がれた場所で、不自然なことが起こることがあるんだよ。勝手に関連づけて騒いでるだけのことが多いけどね。パワースポットだって持ち上げるせいで、引き寄せちまってるのかねぇ」
「引き寄せ……怖いですね。私はよく知らないんですけど、縁切りって言葉も、なんだか怖いなって思います。健康になるご利益なんてあるんですか?」
「病気と縁を切って健康になるご利益がある神社もあるよ。ただ人の縁を切るためのご利益だけの場合もある。パワースポットなんて人の噂じゃ、どんな結果になるんかねぇ。下手なお願いだと、願った人間を不幸にする縁切りもあるし」
「それ……佐々木さんと宮本さんが、危ないですよね。二人ともそこに行くって言ってましたし」
宮本にキツい事を言われたが、嫌いなわけではない。彼女が言わなければ、オンラインショップの数字が悪いことを知らなかったし。何も知らずにのんびりしていた方が怖い。
耳に痛いことをストレートにぶつけられるのは、陰口を叩かれるよりずっといいと思っている。
だから心配になった。
榊はやれやれという風情でため息をついた。
「……学者として興味がありますし、あたしが『ヒノエサマ』の様子を見てきましょう。その間に嬢ちゃんは母親に会いに行ってきな」
「え?」
「誤解はすぐ解いたほうがいいだろう。まだ電車が来るまでに時間はある。今駅に急げば間に合うよ」
言われて時計を見る。ずいぶん長い時間が経った気がしていたが、母が出て行ってからさほど時間は経ってなかった。
「でも……何を言ったら良いのかな」
命が弱音をこぼすと、永久はポットを手に取った。
「命さんが淹れたお茶を、お母さんは飲んだことあるの?」
「え?」
問われて考える。父がいた頃、母も一緒に紅茶を飲んでいたが、父がいなくなった後の母が茶を飲んでいた記憶はない。いつも難しい顔でコーヒーを飲んでる姿が目に浮かぶ。
「淹れたこと、ないかも」
「じゃあ、まずは命さんのお茶を飲んでもらいなよ。お茶のことなら、命さんはおしゃべりだからね」
微笑みながら告げる永久の言葉に、命は嬉しそうに頷いた。
「ありがとう。聞いてみる」
母に何を言ったらいいのか。まだ思いつかなかったけれど、永久や榊が心配してくれたから。その優しさに勇気をもらって駅へと走った。
命が奥多摩駅のホームに着いた時、美和子は青梅方面を眺めていた。
「お母さん」
「命?」
美和子は驚いたように振り向いた。そのまま母と娘は無言で見つめ合う。何か言わなきゃと焦りながら、命は必死で口を開いた。
「せっかく奥多摩まで来たんだから、せめて、一杯で良いから、私のお茶を飲んで帰って」
「……お茶は好きじゃないわ」
「お茶が好きじゃなくても、店に来てくれたでしょ。どうして?」
「それは……娘が店を始めたと聞いたから、一度くらい見にいた方がいいかと思って」
「だったら、見ていって。ちゃんとおもてなしさせて」
命が必死に言い募るからか、美和子は大きくため息をついた。
「わかったわ」
美和子は困ったように眉根を寄せた。昔の母の記憶と重ね合わせると、マスクをしていても歳をとったように見えた。
命が大人になったように、美和子も変わったのだろうか。
二人であかしやに戻る途中、何も話ができなかったが、命は必死で昔の記憶を手繰り寄せる。
父がいた頃、母も紅茶を飲んでいた。どんな紅茶が好きだったか。
お茶のことだけを一生懸命に考えているうちにあかしやについた。




