1話
「お母さんに、会いに行こうかな……」
そう呟いてから数日。まだ会いに行けなかった。
命の母は国分寺に住んでいる。電車に乗れば1時間半くらい。そう遠くない割に、母と話をする決心がなかなかつかない。
何度目かのため息をついた命を見かねて、永久が問いかける。
「そんなにお母さんと、会いたくないの?」
「顔を合わせたら、何を言えばいいのかわからなくて」
「お母さんと喧嘩してるの?」
「喧嘩は……してた。でも、昔のことよ。ただ、仲直りしないまま別れちゃったから、気まずいのよね」
そう言いながら命は話す。
父がいなくなった後、母と揉めた。命は「あやかしに攫われた」と主張したが、母は「家族を捨てて逃げた」と言い切った。
父を悪者にする母への反発と、思春期の反抗期を拗らせたまま、学校を卒業して家を出た。それから何年も会っていない。
「今なら、お母さんの気持ちもわからなくないのよ。だって、私は守られるだけの子供だったから、お父さんを待っていればよかった。でもお母さんは一人で働いて稼ぎながら私を育てなきゃいけないんだもの。「捨てた」って言い切って未練をたちたかったのかもしれない……」
「わからなくもないって言いながら、命さんは納得できていない顔をしてるよ」
「理屈と感情は切り離せないのよ」
母の立場や状況を客観的に見て理屈で通せばわかる。
でも、父を思うと客観的にもなれないし、どうしても感情的になる。
「家を出て、時間が経てばなんとかなるかと思ったんだけど。時間が経ったからこそ、言いづらくもなるのよね。結局今でもお父さんは見つかってないし」
「……命さんはまだ、お父さんを諦めてないからね」
「それはそうよ。……ずいぶん時間は経ってしまったけど、諦めたくないもの」
永久が何かに悩むような顔をしたのが、命は気になった。
「永久、どうしたの?」
「なんでもないよ。ただ『お父さんがいなくなった』のは、昔の命さんだけでなく、今の命さんや、お母さんや、あの人にも影響してるんだなって、思って」
「あの人って、彰さん?」
「……そう」
名前を覚えているのに、永久は口にしたがらない。それは彰を嫌っているのか、あるいは好きになり始めているから情を移したくないのか。
永久のように情を切り捨てたら、いっそ母に会うのも気楽だろうか。
平日の昼間のあかしやは人気が少ない。いつものように午前中から長居する榊以外、客が誰もいなかった。
そのまま誰も来ないかと思ったが、お昼を過ぎた頃に思わぬ来客があった。
ボブカットの女性と、ロングヘアを首の後ろで一つに結んでいる女性。命と同世代の女性客が二人も入ってきた。
「葛木さん、久しぶり」
「佐々木さん……宮本さんも? いらっしゃい。席にどうぞ」
命が親しげに対応するので、永久が問いかける。
「命さんの知り合いなの?」
「前の職場の同僚」
「もしかして、命さんのお父さんの会社の?」
永久の言葉にロングヘアの女・宮本は遠目に小さく睨んだ。命は慌てて言葉を挟む。
「あ……牧野さんの会社よ」
彰と言いかけて慌てて呼び変える。客席に聞こえないようにキッチンに永久を引き込んだ。
「宮本さんは、彰さんと私が仲が良いのを良く思ってないの。彰さんの話はしないでくれる?」
「わかった。話は命さんに任せて、黙って接客だけしてるよ。爺さんもいるしね」
ちらりと永久が視線を向けると、榊と目が合った。好奇心か、気をつかってくれているのか、いずれにしろ新しい客に興味があるのだろう。
命はメニューを持って、佐々木と宮本の席に向かう。メニューを見て二人は驚いたような顔をした。
「こんなに色んな種類のお茶を扱ってるの凄いね」
「好きなお茶を全部書いたら、こんな量になっちゃって」
「趣味じゃないんだから、ビジネスとして割り切れないなんて情けない」
佐々木の言葉は好意的で、宮本の言葉には棘があった。
宮本はあまり命と話をしたがらないそぶりで、無言で店の中を見る。佐々木は楽しそうに命に話しかけた。
「うちの会社からここに発送作業の手伝いに来た人もいるでしょ? 噂になってるんだよ。葛木さんが独立して凄いって」
「たまたま良いご縁があって、格安で店を始められたから……」
「奥多摩だしね。人来るの?」
「平日はあまり……。今日は二人とも休み?」
「そう。葛木さんの店も行ってみたかったし、奥多摩観光してみたかったから。これ、知ってる?」
そう言いながら佐々木が見せたのはSNSの投稿だった。木々の合間に古い祠があり、その脇に大きな石が写っている写真があった。
「これは?」
「今、SNSでバズってるパワースポットが奥多摩にあるの。『ヒノエサマ』って言うんだって。縁切りと良縁の願いを叶えてくれるらしいよ」
「へぇ……奥多摩にそんな場所が」
命も気になって、自分のSNSで調べてみる。何人もの人が石の写真をアップしていた。
「この石を写真にとると、悪縁が切れるんだって。宮本さんもそれ目当てで来たんだよね」
「……私はただ流行りに乗ってるわけじゃない」
「そんなこと言って。場所まで確認してたじゃない。ここ、近いの?」
佐々木に地図を見せられて命は首を傾げる。
「そう遠くはないかな」
「そうなんだ。じゃあ、お茶飲んでから行こうか。私は暑いし、ダージリンのアイスティーにする。ファーストならなんでもいいから。宮本は何飲む?」
「……このルフナ、KATURAGIで出してるお茶と同じものよね?」
「ええ。そうだけど」
「それでいいわ。ホットのストレートで」
自分の店のお茶をわざわざ飲みに来たのか? 宮本の頼み方に違和感を感じつつ命は黙ってお茶を淹れに行った。
ダージリンとルフナ。二種類の紅茶を入れて席に戻る。終始笑顔の佐々木に比べて、宮本はピリついていた。命は緊張した顔でお茶を並べる。
「暑いとアイスティーが美味しい。これ水出しじゃないでしょ? なのに濁らず綺麗な水色で、やっぱり葛木さん腕がいいわ」
「そんなことないよ。こういうのは宮本さんの方が上手いんじゃない? ほら、イベントでもよく出してるし」
「……部署移動したから、もうイベント参加してないわ」
「え? そうなの?」
命は目を瞬かせる。KATURAGIのお茶のイベントは、メイン講師を彰が担当するが、裏方でお茶を淹れて出すスタッフが欠かせない。
限られた場所、限られた時間で大量のお茶を淹れるのは難しい。できるスタッフは限られていて、宮本は社内でもその腕は随一のはずだ。
宮本はカップに入ったお茶を一口飲んで、無言で立ち上がった。そのままトイレに行ったようだ。
宮本がいなくなってから、佐々木は命に顔を近づける。
「気にしないでいいよ。宮本さん、最近ずっと社内でも不機嫌だから。自分から移動を希望したのに、部署異動が気に入らないのかも」
「移動を希望したの?」
「インフルエンザにかかって休んでから、まだ後遺症が治ってないんだって。しばらく静養したいから内勤をやりたいって。それでオンラインショップの担当になったの」
「ああ、イベントスタッフも店舗売り場担当も体力的にキツいから」
「そうそう。早く後遺症を治したいからヒノエサマにお参りしたいらしいの。縁切りって病気と縁を切って健康になるご利益があるんだって。でも後遺症があるほど体調がよくない人が一人で来るのも心配だし、ついてきたの」
「佐々木さんって、面倒見が良くて凄いわね」
そこで佐々木は眉を顰める。
「本当は、宮本さんうちから独立して自分の店を出したかったらしいよ。でも、その病気のこともあって、うまくいかなくて。そんなタイミングで葛木さんが独立したから妬んでるのよ。気にしないで」
「それは可哀想だね」
「最近、社長、ここに良く来るんでしょ? それも気に入らないみたい。仕事の打ち合わせだってあるのにね」
「そ、そうだね……」
仕事の打ち合わせより、私情の方が強いから、命は後ろめたくて声が小さくなる。
そのタイミングで宮本が戻ってきた。席に戻ってルフナを飲みつつ、ジロリと命を睨む。
「……葛木さん。この店でKATURAGIのお茶をオンライン販売してるのよね? 迷惑なんだけど」
「ごめんなさい。……でも、牧野さんに許可はとって……」
「KATURAGIのオンライン販売の売り上げ、この春から落ちてるのよ。貴方が客を奪ってる自覚ないわけ?」
「そ、そうなの?」
初めて聞くことで、思わず血の気が引いた。彰にそんなに迷惑をかけてるとは思わなかった。思わず震えてしまい、慌てて唇を噛み締める。
「牧野さんが優しくて、特別扱いしてくれるからって、勘違いしないでよね。うちから客を取らないと、営業していけない癖に」
「宮本さん、言い過ぎ。ごめんね。葛木さん。お会計してもいい?」
「は、はい……」
まだお茶も飲み切らないうちに、佐々木は宮本を引っ張るように立ち上がった。
命は動揺を押し殺して、会計をしようとする。そこで店の入り口に客がいるのに気づいた。
「いらっしゃいませ」
永久が出迎えるとマスクをつけた年配の女性が中に入ってくる。マスクで半分隠れていても、命には誰かわかった。驚きのあまり固まってしまった。
「……お母さん」
「え? 命さんのお母さん?」
命の母・美和子はつかつかと店に入ってきて、宮本に問いかける。
「今の話、本当ですか? 牧野さんにうちの娘が迷惑をかけていると」
「そ、そんなことないで……」
「はい、そうです」
佐々木がフォローしようとして、宮本がキッパリと断言する。美和子は重いため息をついた。
「一度くらい様子を見にこようと思ってきたけど、貴方、まだ牧野さんに迷惑をかけてるの? いい加減にしなさい」
命が何も言い返せないでいると、美和子はくるりと背を向けて帰ってしまった。




