2話
翌日も彰はあかしやにやって来た。いつものようにカウンター席に座ると、永久はお冷を出しながら冷ややかな目をむける。
「毎日来るなんて暇なの?」
「うるさい」
「永久、失礼でしょう。すみません彰さん」
「ああ、奥多摩はいい街だな。今度休みが取れたら一日奥多摩観光したいぐらいだ。だから何度も来るんだ」
自分のためだと彰は言うが、命に気を使わせないための方便に聞こえた。
忙しい彰の貴重な休みを、こんな所で消費していいのだろうかと思うが、彰の好意を無碍にできない。
せめて美味しいお茶で労いたい。
彰にお茶を淹れて出した所で、新しい来客があった。先日来た小さなお客様・翔だ。
「どうしたの!」
翔の姿を見て、命は思わず大きな声を上げた。翔が派手に泥をかぶっていたからだ。
「……途中で、田んぼに、落ちちゃった」
「永久。奥からタオル取ってきて」
流しで顔や手を洗い、手近な布巾で服についた泥を拭いてあげる。翔は困ったように俯いた。
「この頃、よく、転ぶんだ。水たまりとか、田んぼとか」
「夏の夕立で激しい雨は降るけど、水たまりができる前に乾かないかしら?」
「……そう、なんだけど。なぜか、僕の歩く道は、水たまりが多いんだ」
おかしな話だなと思いつつ、永久がタオルを持ってきてくれたので思考を切り替える。腕や足の泥も拭き取ると、まだ服に泥はあるが、少しはマシになった。
「こんなかっこうで、来たらダメだった?」
「そんなことないわ。また来てくれて嬉しい」
「あのね、お姉さんに、お願いがあるのだけど……」
そこまで言って、翔は困ったように彰を見る。話をしていいのか迷っているようだったので助け舟を出す。
「大丈夫よ。この人もあやかしが見える人だから」
「本当に?」
「なんだ? まさかまたあやかし関係のトラブルでもあったのか?」
彰はちらりと命を睨んだだけで、翔を気にしてかそれ以上は言わなかった。
命は翔のために冷たい麦茶を出してあげる。翔は喉が渇いていたのか、麦茶を飲みながら話を始めた。
「あのね。僕にはカエルの友達がいるんだ。大きな、大きなカエルなんだよ。ゲコちゃんって呼んでるんだ」
「大きな蛙のあやかし……大蝦蟇かな? 人の生気を吸うとも言われるけれど、子供と仲良くなるあやかしがいるなんてね」
永久は驚いたような声をあげた。
「ゲコちゃんは、昔人間の友達がいたんだって。その人が淹れてくれた特別なお茶が凄い美味しくて、また飲みたいって言ったんだ。だから僕、お茶を買って持って行ったんだけど、これじゃないって言われて」
そう言って翔が取り出したのは、ペットボトルの緑茶だった。昔というなら、ペットボトルのあった時代の話ではなさそうだ。
「どれくらい昔の話か聞いたかしら?」
「……うん、と。百年くらい前って言ってたような……」
「百年って言ったら、永久は起きてたわよね。この辺りの人はどんなお茶を飲んでたの?」
「みんな自宅の庭に茶の木を植えて、自分で摘んでお茶を作ってたよ」
「ああ、自分の家で作る自家用茶ね。お茶専門の農家はなかったのかしら?」
「うん。この辺にはなかったと思うよ。……わざわざ遠くの街まで、茶を買いに行く人もいないわけじゃないけど。自分の家で飲む分は自分で作るって感じだった」
奥多摩から茶を買いに街に行く人。ちょっと気になったが、思考を切り替える。
お茶専門の農家が作ったわけではない素人のお茶。それが想い出に残るほど美味しいお茶になるだろうか。
命が悩んでるからか、翔は不安そうに話し出す。
「あのね。僕、夏休みが終わる頃に引っ越ししないといけないんだ……」
翔はポツポツと事情を語り出す。
翔の両親は奥多摩で山葵農家をしていた。しかし数年前の台風でわさび田に大きな被害があり、多くのわさび田がだめになってしまった。なんとか立て直そうとしたが上手くいかなかったらしい。
農家を辞めて都心に引っ越して、会社勤めに出ることにしたそうだ。
「引っ越し先も東京なんだよ。でも、お母さんが、遠いから一人で奥多摩に来ちゃダメって言うんだ」
「翔君はまだ小学生だから、遠出は少し心配になるわよね」
「……うん。だから、なかなか会いにいけなくなる前に、どうしても、ゲコちゃんに想い出のお茶を飲ませてあげたいんだ」
翔の必死さを見てると、なんとしても力になってあげたい気持ちになる。しかし夏休みが終わるまでというとあまり時間がない。
そこで彰が声をかける。
「なら、その子が自分で作ったお茶を淹れてあげたらどうだ?」
「……え? お茶って作れるの?」
翔はびっくりした顔で彰を見つめた。
「お茶農家さんから、茶葉を分けてもらって、ここで君の手で茶を作る。作り方は……命なら知ってるよな?」
「あはは……そうですね。でも、お茶農家さんに分けてもらうって難しいですよね? 日本のお茶なら緑茶だろうし」
「緑茶だと難しい理由があるの?」
永久が不思議そうな顔で尋ねたので、翔にもわかるように、できるだけ優しい言葉で命は説明する。
緑茶も紅茶もウーロン茶も、同じお茶の葉を使って作られる。作り方を変えるだけでどのお茶ができあがるか変わる。
「緑茶は無発酵茶と言って、お茶の葉を摘んだらすぐ加熱して発酵を止めないといけないの。新鮮な茶葉を手にいれる方法が……」
「俺の知り合いの知り合いが、檜原村で茶を作ってる。檜原村から奥多摩まで車ならそう時間はかからない。俺が交渉して摘みたての茶葉を車で持ってくる」
「いいんですか?」
「来週なら、一日休みが取れるからその日でよければ」
「わあ、お茶を作れるの凄い。嬉しいな!」
翔ははしゃぐような笑い声をあげた。
多忙な彰の貴重な休みを潰してしまうのは申し訳ないと命は思いつつ、翔の喜び方を見ていると断ることはできなかった。
翔が何度もお礼を言いながら帰っていく。
その背中を見て、彰は懐かしげに目を細めた。
「彰さん。手伝ってくれて、ありがとうございます」
「いいんだ。俺も、子供の頃に転校したことがある。あやかしだろうと、友達と別れる最後の想い出を残したいって言うなら、手伝ってやるのが大人だろう」
「そうですね。私も、力になってあげたいです。でも……自家用茶が、想い出に残るほど美味しいでしょうか?」
「……わからない。でも、俺だったら、友達の手作りのお茶を、餞別にくれたら嬉しい。まあ、あやかしが喜ぶかは知らないが」
彰がいう通り、美味しさよりも、気持ちの問題かもしれない。
農家と交渉できたら連絡すると告げて、彰は帰って行った。




